第14話

 晴人はその光景を凝視していた。

 逃げろ。

 思考が警鐘を鳴らしている。

 自分はこの世界の住人ですらない。

 あの少女は王族であり、男はそれを追う処刑人だ。

 これは内部抗争であり、通りすがりの異邦人が首を突っ込む道理など、どこにもない。

 それに、身体が動くはずもなかった。

 脇腹の傷は痛みを送り続けている。

 肋骨の下で、腐敗した肉と膿が蠢く感覚。

 一歩踏み出せば裂けるのは明白だった。

 ここで嵐が過ぎ去るのを待つのが正解だ。

 動いたところで、何ができる?

 魔法も使えない、武器もない、ただの死に損ないが。

 ……だが。

 晴人の視線は、落ちた銀髪と、少女の頬の血から離れなかった。

 彼女は怯えている。

 暴力に、ただ震える。

 その姿が自身と、奇妙に重なった。

 ……やめろ。

 晴人の奥歯が音を立てる。

 命が惜しくないわけではない。

 逃げたい。気絶してしまいたい。

 それでも、蹂躙をただ見届けることへの嫌悪感が、本能を凌駕しようとしていた。

「まずは耳を削ぎましょうか。それとも、その綺麗な指を一本ずつ?」

 ワイヤーがうねる。

 少女は震え、肩を上下させていた。

 恐怖で思考が凍結している。

 反撃を構成する集中力など残されていない。

 バルガスの指が動く。

 ワイヤーが軌道を描いた。

 死が見えた。


 ……その瞬間、晴人の中で理性が焼き切れた。

 痛い。

 脇腹が熱い。

 肺が凍りそうだ。

 すべて無視して、晴人は氷に爪を立てた。

 動け。

 動いてくれ、この身体。

 引きずり、彼女と男の間へと体を割り込ませる。

 ただ転がり込むような、無様な介入だった。


 ……革靴が視界を塞いだ。

 防御をとる暇もなかった。

 爪先が最も触れられたくない、膿んだ腐食へ突き刺さる。

 音が消えた。

 痛みを超えた閃光が駆ける。

 膿で腫れ上がっていた傷口が破裂したのだ。

 体内で何かが決壊する感触。

 晴人の口から、酸素と共に絶叫になり損ねた気泡が漏れた。

 宙を舞い、数メートル先の氷壁へと叩きつけられる。

 背骨が軋み、肺の中が強制的に排出された。

 鉄の味が広がる。

 溢れた膿と血液が広がり、腐敗臭を撒き散らした。

 恥辱と激痛。

 惨めさが晴人を潰していく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る