第13話

 少女の視線が凍りつき、晴人の背後へと向けられる。

 晴人もまた振り返った。

 崩れかけた石壁の陰。

 暗がりから人影が滲み出るように現れる。

 深緑色のボロ布を幾重にも巻き付けた男だった。

 輪郭が曖昧で、どこまでが服で、どこからが身体なのか判然としない。

 顔の下半分を覆う革のマスクは黒ずみ、所々が剥げて皮膚が見え隠れしている。

 男の両手は赤黒く変色し、指の関節があらぬ方向へ曲がっていた。

 その手が、指揮者がタクトを振るような優雅さで空を掻いている。

 男は晴人を見て目を細めた。

 晴人の傷口を舐めるように値踏みする。

「おや。ゴミ捨て場に生きた人間が迷い込んでいるとは」

 マスクから響いたのは理知的な、しかし粘りつくような声だった。

 男は晴人を一瞥し、すぐに少女へ向き直る。

「驚きましたよ、王女殿下。まさか、本当にご存命だったとは」

 ……王女。

 その単語が、冷たい空気の中で異様に反響した。

 彼女がこの国の支配者の血を引くという事実。

「……バルガス」

 彼女が名を呼ぶ。声を震わせながら。

 男、バルガスは肩をすくめ、大げさに嘆息してみせた。その仕草には侮蔑と苛立ちが滲んでいる。

「陛下は、ひどくお怒りでしたよ。安寧を求めて『鏡』を覗いたところ、死んだはずの貴女が、まだこうして浅ましく呼吸を続けている姿が映し出されたのですから」

 男の瞳が細められる。プライドを修復しようとする執着だった。

「『なぜ、娘がまだ生きている?』……王のそのお言葉は、私にとって堪え難い恥辱でした」

 バルガスは革の手袋を嵌めた手を広げ、宣告する。

「ゆえに、やり直しを命じられ、舞い戻った次第です。……確実に、その肉を一片残さず処理せよ、と」


 彼女の表情が凍りついた。

 処理、という無機質な響きが彼女の許容量を超えたのだ。

 足元の氷が軋み、放射状に亀裂が走った。

「来ないで……っ!」

 彼女が右腕を振り上げる。

 切迫した防衛。

 彼女とバルガスを隔てるように無数の氷が隆起した。

 それは壁というよりは、シャンデリアが地面から生えたような歪さを持っていた。

 透明度は高く、光が反射している。

 芸術品としては一級だろう。だが、薄い。

 バルガスは歩みを止めず、笑った。

「美しい。ですが、実戦経験が不足しすぎています」

 男は立ちはだかる棘を左手で無造作に払った。

 乾いた音が響く。

 男の皮膚を傷つけることすらできずに散った。

 舞うダイヤモンドの中、バルガスが悠然と姿を現す。

「ひ……っ」

 彼女の喉が引きつる。

 彼女はあからさまに狼狽していた。

 後退ろうとして足をもつれさせ、氷に膝をつく。

 息が白さを増し、肌が青白くなっていく。

 バルガスは芝居がかった動作で自身の右手の親指を運んだ。

 鈍い音と共に、男は指先を噛み切った。

 雪に斑点を作る。

 男はその血を空中に散らしながら、低く言葉を紡ぎ始めた。

「妬婦の赤き手遊び、呼吸への飾り結び——」


 男の言葉に応じるように血液が静止した。

 赤い液体が蠢き、絡み合いながら、一本の線へと収束していく。

 自由さを捨て、硬度を得るプロセス。

 重力に逆らい、蛇のように鎌首をもたげる赤。

 バルガスが指揮者のように弾く。

 鋭い風切り音が刺した。

 ワイヤーが鞭のようにしなり、弾丸の速度を伴って彼女を襲う。

 彼女は反応すらできなかった。

 ただ、風が撫でた直後、はらりと銀色が舞った。

 彼女の銀髪が切断され、氷に落ちる。

 数瞬遅れて、頬に赤い珠が滲んだ。

「あ……」

 彼女は呆然と自分の髪を見つめ、次いで頬に手を添える。

 バルガスは殺す気がないわけではない。

 恐怖で動けなくなるのを待ち、解体するつもりなのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る