第12話

 吐息の熱が震わせた。

 生きたいと願う純粋な呼気。

 彼女は晴人の胸元へ顔を埋め、暖を取るように体を密着させてくる。

 生身の温度が皮膚へ渡る。

 無防備な重み。

 頼りなく刻まれる心臓が自身と共鳴する錯覚を覚えた。

 晴人はここが極寒の地帯であることを一瞬忘れる。

 暮らしたアパートの、冬に決まって結露する窓硝子や、隣室から漏れるテレビのノイズ。そんな取るに足らない断片が過った。

 脇腹が疼く。

 杭を打ち込まれたような鈍痛が、意識を現実へと引き戻した。

 ふわり、と鼻腔をくすぐる香りがあった。

 薔薇の花弁をすり潰したような芳香。

 だが、その香りはすぐに上書きされる。

 晴人のシャツの下で侵食を進めているのだ。

 この清廉な少女を汚しているという背徳感が胸を締め付ける。

 晴人は身じろぎした。

 その微かな動きに、少女の長い睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がる。

 硝子の瞳が彷徨っていた。

 凍てついた湖面の色。

 そこに映り込んだ自分は、死人のように青白く、ひどく薄汚れていた。

「……あたたかい」

 彼女の唇から零れた。

 細い指が晴人のシャツを掴む。

 微かな音。

 彼女は目の前の存在を認識していない。ただ熱源として貪っている。

「貴方、誰……? どうして、私に触れるの?」

 ようやく紡がれた問いに、晴人は喉を詰まらせた。

 なんと答えればいい。

 遭難者か、不法侵入者か、それとも死に損ないか。

 口を開くが、空気が喉を張り付かせるばかり。


 少女の冷たい指先が、晴人の頬に触れる。

「……泣いているの?」

 ……視界が滲んでいる。

 痛みによる反応か、寒さか、あるいは絶望か。

 頬を伝って彼女の指先を濡らした。

 ……その雫が、彼女の覚醒を促したらしい。

 微睡んでいた瞳孔が急激に収縮する。

 空気が一変した。

 柔らかな気配が消え、拒絶が支配する。

 彼女は弾かれたように晴人の胸を突き飛ばした。

「触らないで!」

 悲鳴に近い拒絶。

 その勢いに、踏ん張りの効かない身体は氷を滑った。

 背中を強打する。

 衝撃が響き、明滅した。

 晴人は転がったまま激痛に歯を食いしばった。

 呼吸が浅くなる。

 酸素を取り込もうとするたびに、肺の下で襲われる。

 遠くで、少女が自身の身体を抱きしめて後ずさるのが見えた。

 敵意と警戒が放たれている。

 ドレスの裾が揺らめいていた。

「私を……殺しにきたの?」

 震える声。

 晴人は脇腹を右手で押さえ、脂汗を浮かべながら首を振った。

「ち、違う……! たまたま……凍っている君を見つけて——」

「こんな場所に近づく人間なんて、いないわ」


 彼女の言葉と共に空間が歪んだ。

 光の粒が無数に浮遊し始める。

 ……氷の結晶だ。

 それらは互いに結合し、円錐を形成していく。

 切っ先はすべて、晴人の心臓に向けられていた。

 晴人は両手を上げ、敵意がないことを示そうとする。

 その動作が致命的だった。

 腕を上げた拍子に傷口が裂ける。

 粘着質な音と共に脇腹から膿んだ血が溢れ出し、どす黒く染め上げた。

 垂れた血が床に赤い染みを作る。

「ぐ……っ」

 苦悶が漏れる。

 その光景に、少女の瞳が揺らいだ。

 展開した氷が空中で迷うように停滞する。

 晴人のボロボロのスーツ、血と泥に塗れたシャツ、そして城の兵士とは似ても似つかない、疲弊しきった姿。

 それが演技でないことは晴人の顔色が証明していた。

「……貴方、その怪我——」

 彼女が踏み出そうとした時だ。

 重たい袋を引き摺るようなノイズが裂いた。

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