第11話

 ……それで終わりのはずだった。

 現実は晴人を裏切り、変容を見せた。

 カイロが触れた一点から波紋が広がっていく。

 氷の層が内側から燐光を孕んで輝きだし、LEDを分光した。

 硬質な音が、澄んだ鐘のように空間を震わせる。

 六角形の紋様が連鎖的に、深層へと根を伸ばしていった。


 ……外気は氷点下を下回っている。わずか六十度程度の発熱体で、これほど巨大な氷塊が溶解するなどありえない。

 だが、氷は熱に抗わなかった。

 むしろその微かな温もりを飲み込み、内側へ、彼女の心臓へと導いていく。

 目の前で起きているのは溶解ではない。

 受容。あるいは、……開花だ。


 ダイヤモンドが舞う中、檻が崩壊していく。

 氷片がスローモーションのように星屑へと変わった。

 ……その中心で、均衡が崩れた。

 支えを失った彼女の身体が傾いていく。

 重力から解き放たれていた銀の髪がふわりと降り、抵抗を受けて広がる。

 それは冬の薔薇が首を垂れる瞬間に見えた。

 薄絹のドレスが風にはためき、肢体を露わにする。

 閉じられた瞼、長い睫毛に宿る霜、そして引かれるままに投げ出される細い指先。

 そのすべてが無防備で、晴人へと倒れ込んでくる。

 思考するよりも早く、晴人は腕を伸ばしていた。

 瞬間、脇腹に激痛が走る。

 脂汗が滲み、視界が明滅したが、それでも彼は受け止めた。

 軽い。

 そして、冷たい。

 薄いドレス越しに伝わる体温は外気と変わらなかった。

 散らばった氷片が、光を反射して煌めいている。


 ……取り返しのつかないことをしたという悔恨がせり上がった。

 安易な感傷が、これほど無残な破壊を招くとは予想もしていなかった。

 彼は、静謐な眠りを守っていた透明な棺を粉砕し、あろうことかその住人を引きずり出してしまったのだ。

 それは死者への冒涜であり、暴力のように感じられる。

 供養どころか墓暴きと変わらない。

 腕の中にある冷え切った身体は、彼の浅はかな行いの罪証として重くのしかかる。

 ああ、誰か俺を、


 ……そう思った直後。

 腕の中の沈黙が、微かな律動によって破られた。

 最初は錯覚かと思った。吹き込む風が揺らしただけかもしれない。

 だが、その震えは外部からの干渉ではなく、内側からの生命の胎動だった。

 凍りついていた時間が融解を始める。

 閉ざされた瞼の縁から、溶け出した氷の雫が頬を伝い落ちた。

 長い睫毛に装飾されていた霜が、硝子となって空中に散り、儚い光を撒き散らす。

 唇に薄紅色が戻り始めた。緩やかだが劇的な変化として訴えかけてくる。

 停止していた心臓が、最初の拍動を打った。

 ……トクン。

 晴人の胸板越しに、弱々しい、けれど確かな衝撃が伝播する。

 続いて喉が痙攣し、唇が僅かに開かれた。

 空気が吸い込まれる。

 肺胞が膨らみ酸素を取り込む。

 ……死体ではなかった。

 彼女の腕が、ゆっくりと持ち上がる。

 行き場を探して空を彷徨った細い指先が、やがて晴人のジャケットの袖を見つけ、縋るように掴んだ。

 爪先が白く変色するほどに強く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る