第9話

 扉の失われたアーチをくぐり、石造りの胎内へと滑り込む。

 途端、風の咆哮が遠い唸りへと変わる。

 静寂が雪崩のように押し寄せてきた。

 ここは風の通り道ですらない。空気が沈殿している。

 外の鋭利な冷気とは異なり、ここにあるのは粘度の高い冷たさだった。何百年もの死んだ時間が肺を圧迫する。

 晴人は崩れ落ちそうになる膝を叱咤し、震える手でポケットを探った。

 スマホを取り出す動作さえ慎重さを要する。

 何度かの失敗の末、ライト機能を起動させる。

 青白いLEDが暗黒を裂いた。

 浮かび上がったのは巨大な円筒状の空間だった。

 床には砕けた石材が散乱し、天井は見えないほど高く、闇へと吸い込まれている。

 壁面に沿って手摺りのない螺旋階段が上階へと続いていた。

 建材は黒く光沢を放っている。近づいて光を当てると、それは硝子の質感だった。黒曜石だろうか。光を反射しない深淵の黒。

 その表面に彫刻が施されているのが目に入る。

 晴人は足を止め、光を壁面に這わせた。

 奇妙な図像だ。

 王冠を被った骸骨が、豊かな麦畑に毒を撒いている。あるいは、背中に翼を生やした天使、あるいは悪魔が、人間を家畜のように檻へ追い立てている光景。

 美術的な価値など分からない。だが、そこに込められた悪意と、制作にかかったであろう膨大な執念が、粟立ちを肌に生じさせる。

 誰が、何のために刻みつけたのか。

 疲弊した脳裏に粘り着く。

 鼻孔をくすぐるのは、石灰の匂いと膿の臭気。

 自分の身体からだと気づくのに時間はかからなかった。

 脇腹が、心臓とは異なるリズムで脈打っている。

 傷口が熱を持っていた。いや、熱すぎる。

 あの牙には毒が含まれていたのか、あるいは不衛生な環境のせいか。

 周辺が腫れ上がり、内側で腐り始めている感覚がある。

 足を上げて腹筋が収縮するたびに肉が悲鳴を上げ、黄色い体液と血が混ざったものが滲み出す。

 左腕はもはや感覚がなくぶら下がっているだけだ。

 シャツは張り付き、動くたびに剥がれる音が逆撫でする。

 限界が近かった。

 晴人はすがるような思いで、ポケットに突っ込んだ。

 底をさらう。

 指先に平たい小袋が一つ。

 ……一つ。

 晴人は信じられない思いで引っ張り出した。

 LEDに照らされたのは、一つだけ。

 他にはない。

 雪原に落としたのか、あるいは無意識に消費していたのか。

 最後の熱源。

 これを使えば、一時的に体温を取り戻せるかもしれない。

 だが、その効力が切れれば、今度こそ死が訪れる。

 封を切ろうとした指が止まる。

 使うべきか、温存すべきか。

 究極の貧困が決断を鈍らせる。

 晴人はその命綱を、震える手でポケットへ戻した。

 何のために取っておくのか自分でも分からないまま、彼は恐怖を先送りした。


 登るしかなかった。

 この吹き抜けのホールは、巨大な冷蔵庫の底だ。冷気は下へ溜まる。上へ行けば、あるいは風を凌げる部屋があるかもしれない。

 根拠のない希望を燃料に、石段に足をかける。

 一段、また一段と運ぶたびに、凍てついた石を革靴が叩く。

 硬質で乾いたその打撃音は、やがて闇へと吸い込まれていく。

 反響は孤立を際立たせるように減衰した。

 それは削られた生命が落下していく音にも似ている。

 足裏に伝わるのは、冷気と徒労感。

 足音さえも、この静寂では儚いノイズに過ぎなかった。


 ……五階、六階、あるいはもっと高い場所へ。

 平衡感覚が狂い、自分が上昇しているのか、それとも降りているのか分からなくなる錯覚に襲われる。

 息が切れる。

 肺が喘ぐが吸い込む空気は喉を凍らせるばかりで、届かない。

 視界が明滅する。

 高熱によるものか、失血によるものか。

 どれほどの時間を費やしただろうか。

 眼前を支配するのは規則的に並ぶ階段だけで、扉や通路は一度も姿を見せなかった。

 永遠にも思える螺旋の果てに、唐突に闇が薄れ、鉛色の空が覗く。

 最上階。

 壁の半分が崩落し、外の吹雪が切り取られていた。

 吹き込む雪が、床を敷き詰めている。

 晴人は、その空間の中央を見て、息を呑んだ。

 LEDが乱反射して拡散する。

 そこには巨大な氷の結晶が、鎮座していた。

 ……否。

 それは氷の中で膝を抱えた、一人の少女だった。

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