第8話

 背後で、缶詰を開けようと爪を立てる音と、狂ったような歓喜の唸り声が聞こえたが、振り返ることはできない。

 晴人は雪の斜面を転がるように駆け下りた。

 心臓が脈打っている。

 肺が痙攣していた。

 それでも足を動かす。

 血液がポンプのように溢れ出した。

 痛い。

 痛みが混ざり合い、脳髄を焼き尽くす。

 足がもつれて雪原に膝をついた。

 息を吐くたびに霧が視界を覆う。

 失血によるめまいか、極寒による低体温症か。意識が溶け始めている。

 寒い。

 指先が植物か鉱物へと変質していくようだ。

 このままでは死ぬ。

 数分後には氷の彫像となって、この場の一部になる。

 晴人は震える右手で、感覚を失った左手をまさぐった。

 指を一本ずつ剥がすように開く。

 掌からちぎられたビニール袋を解放した。

 伸びきったポリエチレンがあまりに頼りない。

 食料はない。あの老人の胃袋へ消えた。

 そして、咄嗟に脇に挟んで持ち去った紙箱。

 ……使い捨てカイロ。

 パッケージの文字が、皮肉なほど明るく彼の網膜を刺す。

 なぜ、忘れていたのか。

 晴人の認識において、この箱はサバ缶を守るためのただの緩衝材だった。

 空腹が視界を塞ぎ、優先順位を誤認させていたのだ。

 奥歯を噛み締める。

 極寒において恐れるべきは飢餓ではない。体温の喪失だ。

 カロリーが尽きる前に、心臓が凍る。そんな理屈さえこの白は麻痺させていた。

 晴人は指をもどかしく動かし箱を破った。

 中から小袋が雪の上に散らばる。

 風に飛ばされそうになるそれを、這いつくばってかき集めた。

 一つを拾い上げ、封を切る。

 振る。

 中の擦れ合う音が、暴風の中で響く。

 酸素と反応し、発熱が始まるまでの数秒間が、永遠のように感じられた。

 やがて、温もりが点る。

 ……熱い。

 心地よいはずのその温度が、冷え切った皮膚には火傷のような刺激となって伝わった。

 晴人はその熱源をシャツの隙間へと押し込んだ。

 心臓の真上。

 凍えた臓器にじんわりと浸透していく。

 さらに二つ、三つと封を切り、ズボンのポケットや、指先へ握り込ませる。

 わずか数十円の「売れ残り」が、彼を繋ぎ止めていた。

 涙が滲む。

 この熱が消えれば今度こそ本当に終わりだという絶望的によるものだった。

 立ち上がらなければならない。

 ここで停滞することは即ち、この白と同化することを意味する。

 晴人は脚に鞭打ち、再び歩き出した。

 目的地などない。

 老人は言った。ここは「廃棄場」だと。世界の奥底であり、出口など存在しないのだと。

 空を見上げる。

 太陽も、月も見当たらない。

 分厚い雲から降り注ぐ雪が、世界を塗り潰している。

 時間が溶解していく。

 一分が経過したのか、一時間が過ぎたのか。

 自分が風景に溶けて曖昧になっていく。

 ふと、ポケットの中のスマホを意識した。

 バッテリー残量は、最後に見た時で四十パーセント。

 通信圏外のこの場所で、それは発光するだけの板に過ぎない。

 昼間、充電器に差さなかった怠惰。

 あの時、サバ缶をリュックにしまっておけばよかったという後悔。

 そんな過去の選択肢が浮かんでは消える。

 意識が混濁し始めた頃、視界の先に影が揺らめいた。

 直線的な輪郭を持つ、巨大な何か。

 風雪に耐え、空を刺すように聳え立つシルエット。

 晴人はその影へと足を向けた。

 それが救いなのか、新たな絶望なのかも判然としないまま、最後の力を振り絞る。

 雪面に続く赤い点滴だけが、彼の軌跡を物語っていた。

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