第7話
「ここでは、役立たずは凍えて土に還るしかない。それがこの国の美しさを保つための掟だ」
老人の濁った視線が、不意に晴人の左手へ、ゆっくりと移動した。
白いビニール袋。
その薄い皮膜越しに缶詰の光沢と、カップ麺のパッケージ。
その正体は知らないはずだ。
だが、極限の渇望が、それが有機物であり食料であることを嗅ぎ取らせた。
老人の鼻が痙攣したように動いた。
「……油」
漏れ出たのは恍惚とした吐息だった。
濁りきっていた瞳孔が開ききり、赤黒い血管が浮き上がる。
「……あぁ、あぁ、あぁ。……分かるぞ。この芳香は……脂だ。それも、極上の……青い海の、味がする」
老人は自身の腹を指で撫でた。
それは空腹を訴える動作ではなく優しさを湛えていた。
「甘露だ。至高の饗膳だ。……なぜ、それを薄汚い餓鬼が……持っている」
トーンが一変した。
欲望から、怒号へ。
「それは王の食卓に並ぶべきものだ。……ならば、元宮廷魔導師であるわしへの供物として捧げられるのが道理だろう? なぁ、そうだろう。なぁ」
晴人は悪寒が走り、腹の痛みに顔を歪めながら、膝を引きずるようにして後退った。
「こ、これは……王様が口にするような……ものではありません、ただの……」
「黙れ泥棒ッ!」
老人が絶叫した。口角から溢れた泡混じりの唾液が、顎を伝ってボロ布に吸い込まれていく。
「それはわしのものだ! わしの胃袋に入るはずだった未来を、貴様が不当に占有しているのだ! 返せ、返せ返せ返せッ! わしの飯を、今すぐ返せぇぇぇッ!」
老人が立ち上がる。
関節が外れる音を立てながら痩せこけた腕を伸ばしてきた。
その手に握られていたのは、あまりに粗野な、鉄の残骸だった。
錆が侵食し、血糊のようにこびりついている。刃先は不揃いに尖っていた。
切っ先が、囲炉裏を反射して鈍く光る。
晴人は反射的にビニール袋を抱き込んだ。
老人が飛びかかってくる。
晴人は脇腹を庇い、代わりに左腕を突き出した。
肉が裂ける音がした。
刃が左腕を深々と切り裂いていた。
肘から手首にかけて、熱が走る。
噴き出した血が、老人の顔にかかった。
老人はその血を舐めながら、袋に食らいついた。
ポリエチレンが裂かれる。
重力に従い物体が落下した。
サバの味噌煮缶と、カップ麺。
希望が汚物にまみれた床に転がる。
一緒にこぼれた紙箱を老人が素早く拾い上げた。
鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。
彼はそれを投げ捨てた。
「……砂か」
老人は即座にターゲットを缶詰へと変更し、獣のように覆いかぶさった。
両手で掴み、愛おしそうに頬ずりをする。
「飯だ、飯だ、飯だァッ!」
晴人は逃げようとした。
だが、無理に身体を捻った瞬間、脇腹の傷口が開いた。
筋肉が断裂する音が響く。
二つの鮮血が床を濡らした。
「うっ……!」
晴人は腹を押さえ、血まみれの左腕をだらりと下げて、転がるようにして扉へ向かった。
手元に残ったのは、引きちぎられた袋と小さな紙箱だけ。
食料を取り返すために争う余裕などなかった。
晴人は扉を蹴破るようにして外へ出た。
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