第6話

 内部は外とは異なる種類の地獄だった。

 鼻腔を侵犯したのは腐敗の臭気だ。

 人体の脂の酸味、排泄物のアンモニア臭、そして壊死した傷口が放つ甘ったるい死臭。それらが煮詰まっている。

 部屋の中央、石を直接掘り窪めただけの囲炉裏で木材が燻っていた。

 排煙設備はない。煙は天井に溜まり、部屋を黒く塗りつぶしている。

 その僅かな熱源にすがりつくようにして、異形の塊がうずくまっている。

 ボロ布と獣皮を何重にも巻きつけた老人だった。

 老人が、濁りきった眼球をゆっくりと動かし見上げた。

 顔の皮膚は黒く変色し、所々剥がれ落ちている。鼻は欠損し、二つの穴が黒く開いていた。

「……ぁ、」

 老人から漏れたのは乾いた掠れ声だった。

「はっは……犬ころにやられたか。美味そうな匂いをさせているからだ」

 老人は晴人の腹部に目を落とし、口内の乾いた粘膜の音を立てて笑う。

 晴人は傷口を庇うように膝をつき、震える唇を動かした。

 脇腹が脈打ち、痺れが走る。

「た……助けてください。遭難して……。ここはどこなんですか」

 舌がもつれ、言葉が成さない。

 老人は興味なさげに、ひび割れた唇の端を吊り上げた。

「……遭難? 違うな。お前も捨てられたのだろう」

「……捨てられた?」

「その奇妙な服。髪の色。そして、纏っている微かな香。……王城の『水晶の間』から来たな?」

 晴人は目を見開いた。

「知っているんですか。俺はあそこで、」

「役立たずと判定されたか?」

 老人は囲炉裏の火を鉄の棒で弄りながら続けた。

「ここは『奈落』だ。あるいは『廃棄場』とも呼ぶ。王都の連中が、不要になったガラクタを捨てる場所だよ。罪人、病にかかった家畜、政争に敗れた貴族……そして、お前のような異界の屑。全てがここに降る」

 廃棄場。

 その言葉が晴人の内臓を鷲掴みにした。

 ここは辺境の村ですらない。

 ……終着点。

「街は……人が住んでいる場所はないんですか。帰る方法は」

 晴人は縋るように問いかけた。

 老人は瞳を天井に向け、首を横に振る。

「帰る? 空を見ろ。太陽も月もない。ここは世界の奥底なのだよ。出口など存在しない」

「そんな……」

「わしも、かつては宮廷魔導師の席にいた……王の食卓に侍ったものだ。だが、枯れればこのザマだ。功績など関係ない。使えなくなれば、即座にここへ落とされる」

 老人の指先から火花が散った。

 だが、それは種火になることもなく消滅する。

 栄光の残滓。

 それが余計に惨めさを際立たせていた。


 晴人の視線が部屋の隅へと彷徨う。

 ……絶望的な文明の断絶だった。

 壁に掛けられた鍋は金属板を伸ばしただけの成形品だ。均一な厚みなどなく、粗雑なリベットで留められている。

 床に転がる水瓶は、素焼きの土器。

 ただ石と木を組み合わせた残骸が散らばっている。

 プラスチックがない。

 ゴムも、ネジも、直線も存在しない。

 晴人はポケットに入っているスマホの感触を感じた。

 あちらの世界では当たり前だった、狂いなく加工された工業製品。

 その当たり前が一切存在しない。

 理解する。

 この世界は、魔法という万能の力が存在したがゆえに、科学や技術を発展させる必要がなかったのだ。

 魔法で熾せばいい。魔法で照らせばいい。

 だから失った者は転落する。

 ここでは、マッチ一本、ライター一つさえ、価値を持つだろう。

 弱者を救うテクノロジーが欠落している。

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