第5話

 無数の針で貫かれたような激痛。

 鼓膜を叩くのは、猛獣の咆哮にも似た風。

 気温、マイナス二十度。あるいはそれ以下。

 薄手のスーツ生地など、紙切れ同然だった。

 皮膚の水分が一瞬で凍結し、肺の空気が硝子片に変わる。

 晴人は雪原に放り出され、本能的に身体を小さく丸めた。

 悲鳴を上げようとした喉が、痙攣して音を結ばない。

 ……死ぬ。

 それは実感を伴って脳裏を塗り潰した。

 凍りつき始めた手足、感覚の消えた指先。

 覚醒した彼を取り囲むのは白銀の世界だった。


 ……視界の端で影が跳ねた。

 風の音とは異なる、湿った唸り声。

 警鐘を鳴らすよりも早く、衝撃が左の脇腹を襲った。

 熱い。

 鋭利な牙が肉を食い破る感触。

 晴人は衝撃で飛ばされる。

 見上げると、そこには犬とも狼ともつかない異形がいた。

 体長は一メートルほど。皮膚は爛れ、所々から骨が露出している。

 瞳は白濁し、口からは黄濁の涎を垂れ流していた。

 生物としての調和を欠いた造形。

 魔獣。あるいは、この環境が生み出した成れの果てか。

 奴が、舌なめずりをして跳躍の構えをとる。

 晴人は悲鳴を噛み殺し、雪を蹴って這いずった。

 戦う術などない。

 ただ、原初的な恐怖が身体を駆動させる。

 奴が飛びかかってくる。

 死の影が覆った、その瞬間。

 運良く突風が吹き、視界が染まった。

 ホワイトアウト。

 晴人は転がり続け、気づけば岩陰へ逃げ込んでいた。

 背後で遠吠えが聞こえる。獲物を見失った苛立ちか。

 晴人は自身の腹部を見た。

 シャツとスーツが裂け、赤黒い断面が覗いている。

 三本の爪が刻まれ、肉が弾けていた。

 鮮血が噴き出し、白い雪を赤く汚していく。

 痛い。

 神経が無理やり覚醒させられる。

 呼吸をするだけで傷口が引き攣れ、脳髄を走った。

 熱が奪われていく。

 エネルギーを補填しろと胃袋が音を立てた。

 空腹。

 崩壊を防ぐために発するサイレンに近い。

 内臓が自身の粘膜を消化し始めるような、酸味がせり上がってくる。

 何かを胃に入れたい。

 晴人は瞬時に握っていたビニール袋に手を伸ばした。


 ……不意に、重低音が大気を震わせた。

 質量の落下音だ。

 晴人が音へ視線を向けると、空から影が見えた。

 それは煙を上げ、離れた斜面に刺さる。

 目を凝らすと、それは鉄屑に見えた。あるいは、家具の残骸か。

 頭上を覆う分厚い雲の海。

 寒さとは別の震えを連れてくる。


 その時だった。

 生存への渇望が、あるいは彼に渦巻く悪い予感が幻覚を見せたのか。

 視界の奥底に、淡い光が滲んでいる。

 それは幻覚めいた揺らぎを持っていた。

 灯火だ。

 暖炉の火か、ランプの輝きか。

 その温かみのある色彩は甘美な誘惑として映った。

 晴人は脇腹を右手で圧迫し、身体をくの字に曲げながら深雪をかき分けた。

 雪面を掴み這い進む。

 一歩進むたびに、積雪が足首に絡みつく。

 風雪を遮る岩陰に、積み石を泥で固めただけの小屋が建っていた。

 蝶番の外れかけた木の扉からは煙が漏れている。

 晴人は凍った扉を肩で押し開け、前のめりに転がり込んだ。

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