第3話

「面を上げよ、異界の旅人」

 腹の底を揺さぶる重低音が降ってくる。

 祭壇に黄金と緋色の布で飾られた椅子が鎮座している。

 そこに深く腰掛けているのは、燃えるような赤髪の巨漢だ。

 衣服の上からでも分かる隆起した筋肉は、彼が有している武力を雄弁に物語っていた。

 額には黄金の円環が食い込んでいる。

 周囲の貴族たちが、男の視線が動くたびに姿勢を低くするのが見えた。

 誰に教わったわけでもない。だが、晴人の社会人としての嗅覚が階級構造を理解させた。

 この男が、頂点。

 王だ。

 彼が放つ、生物としての格の違い。

 それは晴人のサラリーマンとしての条件反射を強制的に引き出した。

 背筋が伸び、頬の筋肉が引きつって、媚びへつらうような笑みを形成する。それは、絶対的な権力者を前にした時、思考停止してやり過ごそうとする社畜の本能だった。

 彼は強張った唇を開き、上擦った声で応じた。

「は、はい。初めまして、香具山晴人と申します。あの、突然のことで状況が飲み込めないのですが、ここは……」

 晴人の視線が、王の指にある装飾品に吸い寄せられる。

 子供の拳ほどもある、ドス黒い赤色をした石。

 本物の宝石かどうかも分からないが、その輝きは凝固した血液を連想させた。あんな重いものを指につけて、生活に支障はないのだろうか。グラスを持つのも一苦労だろうに。

「我らは、永きに渡る滅びの運命を覆すため、異界より『力』を招いた」

 王の言葉は、会話ではなく一方的な宣告として降り注いだ。

「我がシュネーヴィットリア王国の威信にかけ、貴様はこの地に呼ばれたのだ。救世の礎となるために」

 ……シュネーヴィットリア。

 ドイツ語だろうか。聞き慣れない響きだ。

 だが、その名称が持つ重々しさが、ここが日本ではないことを痛感させた。

 そして「召喚」という、フィクションの中で消費され尽くした概念。それが今、彼を押し潰そうとしている。

 晴人は無意識に、左手を強く握りしめた。

 乾いた音が響く。

 壮大な使命と手の中にある缶詰。その落差に吐き気がこみ上げる。

 これは夢ではない。現実の続きとして接続された悪夢だ。

 膝が震え、立っているだけで精一杯だった。

「示してみせよ。我らが費やした対価に、見合うだけの価値を」

 晴人は王の言葉を咀嚼できずにいた。

 王は傍らに控える老人に顎をしゃくる。

 ローブを引きずり、一人の老人が歩み寄ってくる。

 その手には、バレーボールほどの透明な球体が抱えられていた。曇りひとつなく周囲を歪めて映し込み、魂まで見透かすような冷徹さを湛えている。

「さあ、この水晶に触れてくだされ。そなたの魂の色を見定めましょう」

 余地はなかった。

 嫌だ、などという発言は、この場の空気が許さない。

 晴人は乾いた喉を鳴らし、震える指先を伸ばした。

 触れれば、自分の値打ちが決まる?

 もし無能と判断されれば、どうなるのか。この異様な集団の中で、役立たずの烙印を押されることの意味を想像する。

 じっとりと汗ばんだ掌が、冷ややかな球面に触れる。

 熱が奪われていく感覚が、まるで生命力そのものを吸い取られているようだった。

 数秒の沈黙。

 永遠にも似た時間が過ぎた。水晶は晴人の不安に歪んだ間抜けな表情を、魚眼レンズ効果で映し返している。

 老人の眉間に皺が刻まれた。

「……反応が、ない」

 老人は、持っていた杖を晴人に向けて振るう。

 先端が鳩尾のあたりに向けられた。

 それが何を意味するのか。

 晴人は身を固くし、目を閉じた。

 だが、物理的な衝撃は来ない。代わりに、全身を風が通り抜けていくような悪寒が背筋を走り抜けた。

 直後、老人の瞳が見開かれ、汚物を見る目で歪んだ。

 「ありえん……。中身が、空っぽだ。回路も、器官も、何ひとつ存在しない」

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