第2話

 浮遊感は、唐突な裏切りによって幕を閉じた。

 足の裏に衝撃が走る。

 膝が砕ける鋭い痛みと共に、晴人は地面に崩れ落ちた。

 革靴が硬い鉱物を叩く音が、高く、神経質なほど明瞭に反響する。公園の砂利ではない。磨き上げられた石材の冷たさが膝頭に伝わってきた。

 最初に知覚したのは、暴力的な光量だった。

 瞼を焼く白。

 晴人は呻き声を漏らし瞬きを繰り返した。

 強烈な残像が離れない。

 滲んだ視界を拭うように顔を上げ、周囲を見回す。

 そこは、威圧的なまでに巨大な石造りの空間だった。

 天井は遥か頭上、白い肋骨によって支えられ、闇に沈むほどの高さがある。中央には、無数の発光体を束ねた巨大な光源が吊るされ、空間の影を染め上げていた。

 四方の壁は、石材の冷たさよりも、硝子の鮮烈さが支配していた。

 高さ二十メートル、見上げるほどのステンドグラスが、壁面を覆い尽くしている。そこに描かれているのは、剣を掲げる英雄や、雷に打たれる塔の図像だ。透過する陽光は、極彩色のプリズムとなって降り注ぎ、浮遊する塵さえも宝石のように輝かせていた。

 その光の奔流が降り注ぐ先、正面の最奥に、白い壇が鎮座していた。天井の肋骨と同じ材質に見える。石灰岩のようだ。映されたステンドグラスのプリズムも相俟って、それは祭壇のように見えた。

 何層にも積み重ねられた石段の上に、巨大な一枚岩が据えられている。

 表面には刺繍された布が垂れ下がり、左右には太い蝋燭の炎が揺らめいていた。

 それは神へ祈りを捧げる聖域のような不気味さを漂わせていた。

 鼻孔を侵犯するのは、濃厚なフローラルの芳香と、古びた紙の匂い。吸い込むたびに肺の奥が痺れる、甘ったるい味。

 その美しさは、晴人の生存本能を威圧した。

 その荘厳さは個人を許容しない。逃げ場のない圧迫感だけがそこにあった。

 晴人は震える指先でビニール袋を強く握りしめた。

 安っぽい音が、静寂な広間に響く。

 薄いポリエチレンの持ち手が、鬱血した指に食い込んでいた。

 中に入っているのはこの場において最も場違いな庶民の食べ物。

 だが、今の晴人にとって、それは唯一の現実だった。

 この化学製品の頼りない手触りだけが、自分が二十四歳の会社員であり、東京の住人であることを証明している。

 もし指を離してしまえば、自分という存在が輪郭を失って消滅してしまうのではないか。

 そんな恐怖が、彼にその薄い袋を縋らせていた。

 彼は縋るような目で、壁や天井の隅を這わせた。

 探していたのは、緑色の光だ。

 非常口を示す、ピクトグラム。あるいは、スプリンクラーのヘッド、空調の排気口、コンセントの差込口。

 日本の建造物ならば義務付けられているはずの「安全」の記号。

 だが、どこにもない。

 壁にはシミひとつ、ネジひとつ見当たらない。

 さらに耳を澄ませる。

 無音だ。

 東京には常に含まれている車の走行音や、電気機器が発するハムノイズが、完全に欠落している。

 純度の高い静寂と、人の手では作り出せない歴史の重み。

 映画のセットでも、質の悪いドッキリでもない。

 ここは、地球上のどこでもない場所だ。

 その理解は重苦しい絶望となって腹の底に落ちた。

 視界のノイズが収まり、取り囲む人影が輪郭を結ぶ。

 そこに立っていたのは西洋の容貌を持つ人々だった。

 熱帯の鳥の羽のような翠の髪の男、瞳に青い晴空を浮かべる女、黄金の睫毛に光を乗せる青年。

 それらの色彩は生々しい質感として伝わってくる。

 厚手のウールやベルベット。

 袖口の刺繍は不揃いな温かみがあり、革のベルトには使い込まれた皺が刻まれている。

 漂ってくるのは衣擦れの音と白粉の甘い芳香。

 説明されるまでもなかった。

 その洗練された所作。他者が傅くことを自然現象のように受け入れている傲慢な佇まい。

 貴族だ。

 歴史の教科書の中でしか見たことのない、血統によって特権を正当化された人種が、そこに実在していた。

 彼らだけではない。

 壁際に整列しているのは、鉄のプレートを革紐で連結した鎧を着込む男たちだ。磨き上げられているが、所々に歪みや黒ずみが見て取れる。

 騎士。

 秩序を維持するための、冷徹な暴力装置。

 さらに祭壇の脇には、灰色のローブを纏った集団が控えていた。目深に被ったフードの奥から、粘り着くような視線を感じる。彼らが手にした木の杖は長年の使用感を見せ、不気味に黒光りしていた。

 魔導師、あるいは神官だろうか。

 物理法則とは異なる何かを操るであろう、畏怖の象徴。

 富と、武力と、叡智。

 この世界の頂点に立つであろう者たちが一様に、値踏みするような眼差しで見下ろしていた。

 彼らの視線から逃げるように、晴人は磨き上げられた床に視線を落とす。

 そこに映るのは、量販店で買ったくたびれたスーツと、湿気で縮れた黒髪の男。

 色素の薄い彼らの中に混じると、自分という存在は、名画に垂れた一滴の墨さながらに見えた。

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