第1話

 革靴の踵がアスファルトを削る。乾いた音が、金曜日の深夜に不規則なリズムを刻んでいた。

 眠りについた住宅街は、巨大な墓標の並びに見える。

 香具山かぐやま晴人はるとは、重い足を引きずり家路を急いでいた。

 二十四歳、独身。文房具メーカーの営業職。

 新卒で入社して二年という月日は、学生時代の満ち満ちた熱意を摩耗させるには十分すぎる時間だ。安物のスーツは汗の匂いが染みつき、首元のネクタイは不自由を象徴する鎖となって気道を圧迫している。

 ふと、ガードレールの錆が街灯に照らされているのが目に入った。赤茶けた酸化の跡が、癒えない古傷さながらに鉄を侵食している。

 あれは昨日の朝もあっただろうか。

 どうでもいい疑問が脳裏をかすめ、消える。

 腹の底に、鈍い痛みが沈殿していた。

 今日、上司の言葉が、消化されないまま残っている。

『ま、次から気をつけような』

 怒号ではない。諦めと、微かな憐れみが混じった生温かい声。それが何よりも晴人の自尊心を腐らせた。

 大きく息を吐き出し、視線を下ろす。

 左手の指先が白く鬱血している。提げているのは、ローソンの白いビニール袋だ。

 中身はカップ麺と、鯖の味噌煮缶。そして、赤札が貼られた三十個入りの使い捨てカイロ。

 晴人は歩きながら、袋の中の無機質な音を聞く。

 今夜の晩餐は鯖缶だ。

 こってりとした味噌の甘みと、青魚特有の脂。それを熱湯で戻した安っぽい麺の上にぶちまける。栄養バランスなどという言葉は、この瞬間、彼の辞書には存在しない。その背徳的で暴力的なカロリーこそが、すり減った神経を麻痺させ、明日への活力をでっち上げてくれる。

 そして、大量のカイロ。

 明後日、彼は一人で山へ向かう。誰にも邪魔されないソロキャンプ。テントの中で寝袋にくるまり、コーヒーを淹れる。その些細な計画がなければ、今週という長い悪路を歩き切ることはできなかった。

 ポケットからスマホを取り出す。

 液晶の人工的な光が、闇に慣れた角膜を刺す。

 指紋で汚れた画面をスワイプし、天気予報アプリを開く。今日一日で、もう三十回は確認した画面だ。

 並んだ太陽のマークを確認し、強張っていた肩の力を抜く。


 顔を上げる。

 低い植え込みに囲まれた、狭苦しい空間。錆びついた鎖が垂れ下がるブランコと、雨風に晒されて塗装の剥げた木製ベンチが二つ。

 普段なら素通りする、いつもの公園だ。

 だが、今の晴人の足は絡め取られたように動かない。

 常夜灯がベンチの上に置かれたそれを照らしている。

 ……本だ。

 読み捨てられた雑誌ではない。

 重厚な革張りの書物。周囲の空気が、その一点を中心にして澱むように見える。

 晴人は吸い寄せられるまま、公園へと足を踏み入れた。

 足裏から伝わる砂の感触だけが現実で、視線はベンチの上に釘付けになっている。

 誰かの忘れ物だろうか。

 雨が降れば紙屑になってしまうそれを放置できないのは、彼の小市民的な良心ゆえか。

 ……否。

 本が呼んでいる。

 それは理屈ではない。直感がそう告げていた。本を手に取り、中を開くべきだという予感。

 ベンチの前で足を止める。

 心臓の鼓動が、不自然なほど早鐘を打っていた。

 手を伸ばし、拾い上げる。

 ……重い。

 手首がきしむ重量感。

 表紙は爬虫類の皮をなめした手触りで、指先に吸い付く湿り気を帯びていた。縁取りには金色の蔦が刻まれ、背表紙には奇妙な記号が躍っている。

 硬い表紙を開く。

 古書特有の埃っぽさと、甘い腐食の匂いが鼻腔をくすぐった。

 ページを埋め尽くすのは、解読不能な文字の羅列。だが、所々に描かれた挿絵が視線を釘付けにする。

 細密なペン画で描かれた、残酷な童話の世界。

 氷の塔に幽閉された少女。森を焼き尽くす紅蓮の魔女。天から墜落し、大地に叩きつけられる巨人。

 それは絵本と呼ぶにはあまりに写実的で、血の匂いが漂ってきそうな迫力があった。

 ふと、巨人の爪に目が留まった。

 単なる線画ではない。

 爪の間に詰まった泥の粒子、爪先の微細な割れ、そして剥がれかけた皮膚の断面から滲む血の黒ずみ。

 それらが顕微鏡で覗いたかのような密度で、執拗に描き込まれている。

 作者の狂気じみた執念。あるいは、実際に起きた悲劇の写真のようだ。

 背筋を冷たいものが伝うのを感じながら、次のページをめくろうとした。

 ……その時だ。

 視界が、白く飛ぶ。

 閃光ではない。古いフィルムが焼き飛ぶ現象に似て、アスファルトの黒も、街灯の白も、輪郭を保てずに消失していく。

 手を伸ばすが、掴むべき空間が存在しない。

 自分の指先が、距離感を失って浮いている。

 視線を落とす。

 足の裏から地面の反発が消えていた。

 内臓が喉元までせり上がる浮遊感。あるいは滑落していく錯覚か。

 上下左右の座標軸が溶解する。

 自分は立っているのか、逆さまなのか。呼吸をしているのか、溺れているのか。

 肉体の境界線が曖昧になっていく中、恐怖という信号だけが、行き場を失って脳内で反射していた。

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