奈落に捨てられた一般人が、バッドエンド確定のヒロインたちを救ったら最強ハーレムができていた

練無 猫

第一章 むかしむかし あるところに、氷の棺で眠りつづける、それはそれは美しいお姫様がおりました

プロローグ

 沈殿していたのは重く冷たい静寂だった。

 彼女は膝を抱えていた。

 感覚は失われ、自分の四肢があるのかさえ定かではない。

 心臓の鼓動は、他人の足音のように、遠く、頼りなく響いているだけだ。

 ここは透明な棺。

 あるいは、拒絶するために閉じた殻。

 視界を埋め尽くすのは停滞だけ。

 外ではきっと雪が吹き荒れているのだろう。けれど、ここには風の音も、獣の咆哮も届かない。

 凍りついた時間と、緩やかな安らぎ。

 ……眠りたい。

 思考が微睡みへと誘う。

 意識が曖昧になっていく。

 閉ざされた瞼に懐かしい光景が浮かび上がった。

 鮮やかで、暖かな記憶。

 ……城の白亜の塔にある自室。

 大理石の床には東方から取り寄せたという絨毯が敷き詰められ、埋まるほど柔らかかった。

 高い天井からはシャンデリアがプリズムを落とし、窓辺には季節の花々が生けられている。

 薔薇と蜜蝋を混ぜた香が焚かれ、空気を満たしていた。

 そこは、世界で一番安全で、愛に満ちた場所だったはずだ。

 大きな手が彼女の銀髪を梳いている。

 無骨だが、壊れ物を扱うように優しい手つき。

 父だった。

 国を統べる厳格な王が見せる、慈愛に満ちた表情。

『月光を紡いだようだ』

 低い声が鼓膜をくすぐる。

 その響きに包まれている時だけ不安を忘れることができた。

 愛されている。

 その確信が彼女の存在証明だった。

 あの日までは——。

 回廊に琥珀色が伸びる刻限だった。

 父の大きな掌に引かれ、彼女は歩いていた。

 身に纏っているのは、最上級の繭から紡がれた薄絹のシュミーズドレスだ。

 肌を透かすほどに薄い乳白色は、頼りなく揺らめき、華奢な身体を浮かび上がらせている。

 父に手を引かれ訪れたのは、宝物庫。

 普段は封印されているその部屋に、『鏡』が鎮座していた。

 装飾に縁取られたその鏡面は、何も映さず、ただ闇を湛えている。

 父は国の未来を鏡に問うのだという。

 彼女の頭を撫でながら、誇らしげに。

「この娘の未来を見せよ。我が国を繁栄へと導く、輝かしい姿をだ」

 鏡面が波打った。

 黒が渦を巻き、空気が凍りつく。

 紡ぎ出されたのは、祝福ではなかった。

 禍々しい託宣。

『災いあれ』

 鏡の声は無機質だった。

『その娘は、いずれ王を超える。魔の理を統べ、凌駕し、その座を奪う絶対者となるだろう』

 時が止まった。

 彼女は父を見上げた。

 きっと笑い飛ばしてくれると信じて。抱きしめてくれると願って。

 だが。

 父から情が失われていくのを、彼女は目にした。

 あたたかな琥珀色だった瞳が、氷へと変貌する。

 恐怖と嫉妬。

 頭を撫でてくれた掌が離れ、腰の柄に掛かるのを見た時。

 彼女の中で、何かが散った。

 硝子が粉々になり内側を切り裂く。

 ……最初の絶望だった。


 下るたびに温度と色彩が剥落していく。

 王城の地下深くに位置するその場所は陽光も加護も届かない、石と闇だけの空間だった。

 湿気と鉄錆の臭い。

 そして、生き物が酸化した芳香。

 彼女は粗末な木の椅子に縛られていた。

 手首に食い込む麻縄が現実を突きつけてくる。

 豪奢な調度品に囲まれて育った肌にとって、ささくれはそれだけで不快感をもたらしていた。

 前に立つ男が、革の手袋を嵌めた手で、ゆっくりと指を鳴らす。

 ……処刑人、バルガス。

 顔の下半分を覆う黒革のマスクは彼の表情を隠しているが、露出した瞳は無機質を湛えていた。

 バルガスが、芝居がかった動作で右手の親指を口元へ運ぶ。

 ……犬歯で裂いた。

 鮮血。

 男は空間へと弾いた。

 床に落ちるはずの液体が、空中で静止する。

 男が詠唱を紡いだ。

「妬婦の赤き手遊び、呼吸への飾り結び——」

 漂っていた血液が蠢き、収束していく。

 液体としての性質を捨て、一本の線へと遂げる。

 硬度と鋭さを与えられた、ピアノ線。

 これこそがバルガスの魔法。

 空気を裂く音が彼女の鼓膜を震わせた。

 バルガスの指先から放たれた赤いワイヤーが鎌首をもたげる。

 その軌跡を、彼女は追ってしまった。

 それが間違いだった。

 赤い糸が吸い寄せられていく自身の首筋の、そのすぐ足元。

 部屋の隅の冷たい石畳に口を開けた、闇が飛び込んできたのだ。

 ……廃棄孔。

 城の汚物を捨てるための喉。

 まもなく自分を飲むのだと理解した瞬間、血が凍りついた。

 逃げ場はない。

 悲鳴を上げようとした喉が塞がれた。

 接触の後、熱が走った。

 表層が裂け、真皮が切られる灼熱。

 バルガスの指先が動くたびにワイヤーが収縮する。

 圧迫され、軋む音が頭蓋骨で響した。

 酸素が断たれる。

 肺が痙攣するが、道は遮断されていた。

 明滅し火花が散る。

 手足をバタつかせても麻縄が皮膚を剥くだけで、バルガスの魔法は揺るがない。

 喉で空気が漏れる音がした。

 それが自分の命だと気づくのに数秒生じる。

 痛い。苦しい。

 ……お父様。

 懇願は、切断され、届かない。

 ……どうして。

 あんなに優しく撫でてくれた掌が、なぜ私を殺すの。

 ……『王を超える』。

 あの予言が、父から愛を奪い、殺意を植えた。

 娘の存在は愛玩から怪物へと成ったのだ。

 脈を圧迫する。

 血流が阻害され沈んでいく。

 バルガスが彼女を見下ろしていた。

 彼にとって、これは殺人ですらない。

 業務の一環。

 薄れゆく視界で、彼女は自分の銀髪が数本落ちるのを見た。

 褒められた髪が散らばっている。

 その光景が自分の価値を証明していた。

 ……意識を繋ぎ止めていた最後の糸が切れる。


 覚醒は、肌を叩く微かな触覚によって訪れた。

 視界は濁っている。

 頭上、鉛の雲が垂れ込める空からは冷たい風が下ろしていた。

 彼女は震える手で、自身の喉元に触れた。

 ……あり得ない。

 バルガスのワイヤーが食い込み、裂き、潰した感触が残っている。

 だが、触れたのは傷ひとつない肌だった。

 視線を落とす。

 血と泥に塗れ、裂かれたはずのドレスまでも修復されている。

 ……蘇生魔法など夢物語だ。ありはしない。

 彼女は戦慄した。

 死ぬことさえ許されない。

 見渡せば、そこは地獄だった。

 壊れた家具、錆びついた武具、そして骨。

 ここは世界の掃き溜め。

 ……『奈落』だ。

 不要と断じられた、ガラクタの終着点。

 ……風に混じって、吐息が聞こえた。

 彼女の背筋が粟立つ。

 闇の奥で、光が明滅していた。

 ……魔獣だ。

 この奈落に巣食う異形は、視力を持たない代わりに魔力に敏感だと本で読んだことがある。

 彼女は極上の餌に他ならない。

 腹に響く唸りが近づいてくる。

 ……逃げなければ。

 彼女はゴミを駆け下りた。

 見つかれば今度こそ砕かれる。

 恐怖が鋭く刺した。

 殺される。食べられる。

 嫌だ。痛いのは、もう嫌だ。

 吹雪に霞む先に影が聳えていた。

 それは塔の残骸だった。

 かつては地上へ繋がっていたのかもしれない、螺旋階段を内包した円筒状の建造物。

 彼女は縋るようにして滑り込んだ。

 石造りの冷たい胎内。

 背後の足音に怯えながら、彼女は階段を登った。

 一段、また一段。

 息が切れ、肺が凍りつきそうになる。

 果てなく続く黒曜の螺旋。

 もつれ、何度も膝を打ちながら、上へ、上へと逃げ続けた。

 ……どれほどの時間を費やしただろうか。

 唐突に視界が開けた。

 最上階。

 壁の半分が崩落し、雪が吹き込んでいる空間。

 行き止まりだった。

 彼女は膝をついた。

 執拗な爪音が響いている。

 逃げ場はない。

 ここで食われるのを待つだけなのか。

 ……彼女は頭を振った。

 父に拒絶され、殺され、捨てられた。

 その最期が獣の餌など、彼女は許さなかった。

 守らなければ。

 誰も届かない場所へ。

 時間さえも凍りついた、静寂の中へ。

 彼女は紡いだ。

 戦うためではない。

 これ以上、傷つけられないために。

 想像する。

 心の安らぎ、美しく、冷たい死を。

 心臓が大きく跳ねた。

 魔力が溢れ出すのと同時に熱が奪われていく。

 大気が悲鳴を上げ、水分が結晶化した。

 硬質な音を立てて咲き乱れる。

 絶対零度の檻。

 壁がせり上がり、彼女を包み込んでいく。

 ……魔獣が踊り込んだ瞬間、そこにはもう、生きた姿はなかった。

 ただ、巨大な氷の結晶が鎮座しているだけ。

 その中心で、銀髪の王女は永遠の眠りについていた。

 魔力は閉ざされ、獣たちは空を掻く。

 氷の中で彼女は沈んでいった。

 感覚が消失し、同化していく安らぎ。

 もう、何も怖くない。

 父も、冷たいワイヤーも、獣も、届かない。

 心臓が遅くなり、休止符を打つ。

 このまま、永遠に。

 そうして、物語は結した。


 ……はずだった。

 不意に、異質な波動。

 彼女に強制的な覚醒が起こる。

 ……熱。

 あまりに頼りない温もりだった。

 警鐘を鳴らす。

 爪か。あるいは、ワイヤーか。

 だが、破壊ではなかった。

 無理やりではなく、優しく浸透してくる。

 ……あたたかい。

 遠い昔、暖炉の前で父に抱きしめられた記憶。

 毛布にくるまり、窓の外の雪を眺めていた安らぎ。

 失われたはずの幸福が流れ込んでくる。

 拒絶していたはずの心が、無意識に、求めた。

 ……私を、愛して。



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