第三保管庫防衛戦・地上
「――回収は終わった?」
雲一つなく星の輝きが肉眼では見えない暗い夜空。そこに浮かぶ半分しか見えない月。
月明りよりも煌々としている数え切れない人工の光によってとある建物の中の一室が照らされている。照らされてはいるが部屋に入る光は乏しく、部屋の中の存在の輪郭しか見えない。
そんな部屋の中にある最も大きい机の前に脚を組んで座ってる一人の女性が、その女性の前に立っている一人の男性に確認の問いかけをする。女性の背中側の壁は全面窓ガラス張りで、そこから漏れ込むおぼろげな光がその影をくっきりと浮かび上がらせている。
「はい。想定より警備が厳重でしたが、すり替えは成功しました。今は地下の保管庫にて管理しています」
「……そう。なら問題ないわね」
女性の言葉で短い会話が終わり、部屋に静けさが訪れる。
女性の前に立っている男性は何か思うところがあるのか報告が終わったにも関わらず、その場から動こうとはしなかった。女性は男性の様子を気にも留めず、机の脇に置いてあったタブレットを手に取り、何かしらを見ようとする。
「……一つ、伺ってもよろしいでしょうか?」
意を決した男性の問いかけに女性は手を止めるかと思いきや、その手を止めることなくタブレットに映し出されている文章を目を動かすだけで読んでいく。男性は自分の問いかけを真剣に答えようとはしない態度に思うところがないのか、様子が一切変化しなかった。
「――答えられる範囲内なら」
「では……。何故、あの生徒らに任せたのですか?我々が介入した方が手間ではなかったはずです」
質問の許可が下りたということで、男性はそれまで思っていたことを言葉にした。
その瞬間、動いていた女性の目と手が止まり、纏っていた雰囲気が表裏が反転したかのように変化した。身体が押し潰されるのではないのかと思うほど、目に見えないオーラに押され男性は息をするのが苦しくなる。
「私の采配に不満があるの――?」
「っ!い、いえ……。そういう、訳ではない、のですが……」
身体を圧迫してくる圧に必死に抗いながら、男性は途切れ途切れになりながらも女性の言葉を否定し、怒りを鎮めようとする。その必死さや言葉の裏の本心が伝わったのか、あるいは興味が失せたのか、数秒もしない内に男性を圧迫しいていたオーラが消え去った。
圧が消え解放されたことにより、男性は糸が切れた人形のようにぐったりとした様子へとなり、バランスを崩した。それでも座り込むことなく立った状態を懸命に維持している。
これ程のことをやっておきながら女性は本気で怒っていなかったらしく、すぐに感情を切り替え、椅子を百八十度回転させ、窓から見える夜景を視界に入れた。
「あの子たちは特別優秀だから、今のうちに鍛えておかないと……」
それまで纏っていた雰囲気が嘘のように、女性は優しさが零れているような言葉を小さい声で呟いた。その言葉はただの独り言で、男性には聞こえていなかった。口元は微かに笑っており、夜景のある一点を見つめているような、そんな目をしていた。
武力を以ってして倉庫の防衛を成功させた日の翌週の月曜日。
この日、戒斗と明日香、加里奈の三人は智恵に呼び出された。三人とも特段呼び出されるような変なことをした覚えはないため、実習訓練関連のことだろうと推測はできていた。
三人が呼び出された場所は榴ヶ岡学園の北館の五階、学園長室のすぐ隣にある部屋。学園長である智恵しか開けることができない特別な部屋で、榴ヶ岡学園の中で最もセキュリティが高い場所。
部屋の中は小さい会議室のような造りをしており、真ん中に長テーブルが置かれ、その周りにオフィス用の椅子が五つ置かれている。棚や置き物といったものは置かれておらず、かなり簡素な雰囲気がある。その中で一際目を惹くのが長テーブルの下座側の壁に天井近くまで取り付けられた巨大なモニター。氷上宅のリビングに設置されているモニターよりも大きく、この時代においてもここまでの大きさのモニターは中々見ない。
それほどのモニターを見て呆ける間もなく、智恵に言われるがままに戒斗たち三人は置かれている椅子に座った。上座に智恵、その右手に戒斗と明日香、左手に加里奈といった席順で座ることになった。
呼び出した張本人ではあるが、今自分たちが行っている実習訓練の内容とは直接的な関係性がない智恵がここに座っていることに戒斗は不思議に思った。自分が立てた推測が間違っている可能性も無くはないが、タイミングやこの部屋のセキュリティを考慮するとそれはゼロに近い。
事前に何も知らされていない三人はこれから何が始まるのだろうと各々考えを張り巡らせていると、何の前触れもなくモニターに映像が映った。そこには二木――ではなく全く別人の灰色のスーツを着た男性が椅子に座った姿で映っていた。
『――お持たせしました。私は幻廊府、『月』の席直属の桐葉です』
「っ⁉」
「……!」
桐葉の自己紹介に加里奈は目を見開くほど驚き、智恵は驚きを隠しつつも顔を強張らせた。それに対して戒斗と明日香は驚くことはなく、怪訝や嫌悪に近い表情をしていた。
桐葉は四人の反応を気にも留めず、言葉が返ってこない前提で話を進めようとする。
『私はそれなりに忙しい身ですので、端的に言います。――今回の功績を踏まえて、敵の次の標的である我々が管理している第三保管庫の防衛に参加してもらいます。これは『月』の席からの指名依頼であり、そちらに拒否権はありません』
話を遮る隙もなく、淡々と言っていく桐葉に加里奈と智恵は押されてしまう。自己紹介の時点で理解が追い付ていなかった加里奈は、頭の中に追加の情報が入ってきて、桐葉の話す速度も相まって頭がパンクしかけている。智恵はそれほどではないが、桐葉が言ってきたことに対する警戒と疑問が頭の中に残り、険しい表情をしている。
そんな雰囲気が最悪な中、纏っている雰囲気も表情も変化していない明日香が、桐葉をじろりと見ながら口を開いた。
「……質問なら、してもいいでしょ?」
口調はいつも通りだが、言葉の節々に棘を感じさせる声色で、明日香は疑問に思ったことを桐葉にぶつけた。この場の何かを毛嫌いしていることは加里奈には分かるが、それが何なのかは分からない。
『えぇ、構いません。私が答えられる範囲内なら』
「……何で警察からじゃないの、この話は?」
桐葉が一方的に話したことは戒斗たち三人が参加している実習訓練の続き。そして、それを取り仕切っているのが警察に所属している二木。たとえ幻廊府が関与しているとしても、警察を介さずに直接戒斗たち三人に話すことは筋が通っていない。
明日香の中ではそれが気に入らない。今一番嫌っているものではないが、それでも苛立ちを覚えるには十分な事実。
『伝達に齟齬ないようにするための配慮です。ご理解ください』
「……」
明日香がした内容の質問がくることが分かっていたかのような、最初から用意されたような答えが桐葉から返ってきた。今までそれなりの苦難を乗り越えて来た智恵ですら、表情一つ変えずに立場も年齢も下の相手に遜った言葉で応答していることに寒気を感じた。
加里奈は「桐葉の返答では明日香は満足しないだろうに」と思い、対面に座る明日香の顔を見る。しかし実際はそんな雰囲気をしておらず、何かを言い返したいと思っていなさそうだった。確かに満足はしていないようには見えるが、どこか諦めがついているようなそんな顔をしている。
「――指名依頼である理由は?そこまでの形式は必要ないはずだ」
普段とはかけ離れた明日香の様子に心配になる加里奈であったが、それを余所に戒斗も桐葉に質問をぶつけた。
『こちらの都合、としか答えることしかできません』
「……」
数秒前と似たような返答のされ方だったが、戒斗も明日香と同じように何も言い返そうとはせず、質問した後の口は閉ざしたままだった。ただ明日香とは違い、怒りより面倒くささが目立っていた。そんないつもと違う二人の様子に、加里奈は少しだけ心配になった。
誰も喋らない時間が数秒続き、それを嫌ったかのように桐葉がその静寂を破った。
『質問がこれ以上ないということなので、この場はお開きとしましょう――』
桐葉は一方的に話を終わらせ、桐葉との通話が切れ、戒斗たちがモニターが部屋に入って来たときのように真っ暗になった。
それからまたしても、この空間に静けさが訪れた。
「……はぁああああ~!まったく、どうなってるんだ!」
今にでもテーブルを叩き出しそうな智恵の心からの叫びが部屋に空しくこだまする。そのおかげで部屋中に詰まっていた重い空気が少しばかり晴れやかになった。
「『月』が関わってくるのは理解できるが、ここまでやってくるものかっ⁉――依頼でいいじゃないか、依頼で!…………何でわざわざ指名何だ!…………ほんとっっっうに、理解できんっ‼」
智恵は両手で頭を抱え、怒り狂った様子で声を荒げた。今までにない程本気で怒っているらしく、こめかみに血管が浮き出て、両目とも目の端が充血している。幸い、理性は保てているようで、感情に任せて手でテーブルを叩くことはなく、物理的な被害は出なかった。
「あ、あのー……。『月』の席って何ですか?幻廊府の偉い人を指す言葉、ていうのは何となく分かったんですけど……」
目の前で狂気の踊りが始まりそうなことに対して恐る恐るになりながらも、加里奈は桐葉が言っていたことへの疑問を智恵に問いかけた。智恵はその問いかけを聞き、我に返ったように落ち着きを取り戻した。
「…………ん?ああ、一般に公開されていない情報だからね。そうだな……どこから説明したらいいのやら……。幻廊府のトップは一人じゃないことは知ってるね?」
「そ、それは、もちろん……」
智恵が思ったよりもすぐに落ち着いたのを見て加里奈は少し動揺が走りつつも、問いかけられたことに対して頷いた。それを見て智恵は話を続ける。
「『月』の席はその複数いるトップの内の一人で、幻廊府内部への影響力が非常に高い。そして…………、人が悪いことで有名だ」
「は、はぁ……」
智恵の「人が悪いことで有名」の言い方から本当に、心の底から『月』の席のことを嫌っていることがひしひしと伝わってくる。その思いがあまりにも強過ぎるせいで、どう返したらいいのか分からず、加里奈は黙ってしまう。
加里奈は助け船を乞おうとして明日香の方を見るが、こちらも智恵と多少違うがそれに近い嫌悪感が伝わってくる。戒斗の場合はそれに加えて、何故か面倒くささが伝わってくる。一般的には知らなくて当然の前もっての知識がなかった加里奈は、不思議なことにこの場で一番浮いている。
つまり、戒斗と明日香は一般には公開されていないはずの『月』の席のことについて、最初から知っていたということになる。そのことに気付いた加里奈は戒斗にそれについて問いただそうとするが、ふと頭にある疑問がよぎった。
「――ねぇ、指名依頼って何?」
「そんなの、
「っ、読んで字の如く、じゃないわよ!具体的なことについて聞いてる、の⁉」
加里奈が放った問いかけに、それまで纏っていた雰囲気が嘘のように戒斗から普段通りの鋭い切り返しが飛んで来る。戒斗に問いかけはしたものの、このような反応が返ってくるとは思っていなかった加里奈は返しの言葉を僅かに詰まらせた。
言葉ではキレのある返しをしていたが、戒斗の様子が元に戻ったのを見て、加里奈は心の中で少しだけ微笑んでいた。
『“指名依頼”は幻廊府が出す依頼の中でも特別なものよ。基本的には組織に対して出すもので個人、ましてや未成年に対して出すことなんて前代未聞ね』
当然のようにルナがモニターに出てきてそう答えた。学園の中で最もセキュリティが高いとは一体何だったのか、と言わせるほどのことをルナは身勝手にやってのけていた。戒斗や明日香と同じく慣れてしまったのか、智恵はそのことに一切ツッコむことなくスルーしていた。桐葉が持ってきた話で、すでに疲れていることが原因かもしれない。
「それじゃあ、私たち有名人になっちゃうじゃない……!」
前代未聞ということは、戒斗たちが個人や未成年で指名依頼を受けることが史上初であり、そのことが世間に広まれば一躍有名人になってしまう。もしそうなってしまえば、戒斗と将太の決闘が原因で起きた騒ぎの比にならない。
そうなることは加里奈にとって本望ではない。それに気が付いた加里奈は冷や汗をかき顔を青ざめ、テーブルを叩きながら勢いよく立ち上がった。加里奈の瞳には何としてもそうなることを避けたいという強い意思があった。
「……その心配はない。あの桐葉という奴の言い方からして、今回の件は『月』の席の独断だろうから公開はされないはずだ」
『それでも、概要だけは関係者に伝わると思うわよ。どこかの高校生が『月』の席からの指名依頼を受けたっていう情報が』
加里奈の慌てようを見て即座にフォローを入れる智恵だったが、その智恵が言い終わって半拍経たずしてルナから横槍のような言葉が刺さった。その横槍は智恵のフォローを台無しにする、とまではいかないが、霞ませるほどの威力はあった。
フォローされた身である加里奈にとっては、上げられてからすぐに急降下したような感覚だった。おかげで加里奈の顔は百面相のようにころころと表所が変わっていた。
「……それでも、公になるよりマシだろ?」
「それはそうだけど……」
そんな感情がジェットコースターになっている加里奈を見かねて、すかさず戒斗が追加でフォローを入れた。それでも納得はいっていないらしく、片頬を膨らませながら戒斗の方をジト目で見てきた。戒斗はその視線に込められた思いには気付いていたが、これ以上は看病できないと判断し、気にしないことにした。
その判断の理由は加里奈のメンタルの面倒を見るのが面倒くさいというのもあったが、それ以上に自分の左隣に座っている明日香のことを心配してのことだった。明日香の表情や纏っている雰囲気は桐葉との通話が切れたときから一切変わっておらず、目の前で起きている加里奈や智恵、ルナのやり取りにも反応を示していない。見ず知らずの人が見ても分かるほど、加里奈と明日香の症状の差には雲泥の差ができている。
「学園長、今日の用事はこれで終わりですか?」
「あぁ、そうだが……――っ!もう帰って構わないよ……!」
智恵は話を早々に切り上げ、今にでも帰ろうとする戒斗に不思議そうな視線を送ったが、その理由にすぐに気付いた。戒斗の奥に座っている明日香の様子が病んでいる子どものみたいに異常だった。
一人の教師として、大人として、そんな様子の子どもを放置しておく訳にはいかない。そんな使命感に駆られ、智恵はすぐに戒斗と明日香に対して退室の許可を出した。
戒斗は智恵の返答を聞くや否や、明日香の手を引っ張り退室して行った。一応、戒斗は明日香に「帰るぞ」という言葉をかけていたが、明日香は人形のように力が抜けた状態のまま戒斗に連れ行かれた。
戒斗と明日香が部屋にいなくなったことでルナもモニターから消え、部屋の中は一気に静かになった。智恵と加里奈の視線は部屋のドアに向けられており、二人とも心配そうな目をしていた。
「明日香……」
自分のことで一杯一杯になっていたとはいえ、親しい友人の様子の変化に気付けなかったことへの無力感が加里奈の中に募ってきた。それと同時に明日香への純粋な心配も心の中にあった。
北館の裏、一部の教師しか使うことがない武器や弾薬などを保管している倉庫。人が寄り付かず影ができており、人に見られたくないときに使うのに適した場所。
戒斗はその場所に手を繋げたまま、明日香を連れて来た。ここに来るまでの間、明日香の様子は悪くなっていなかったが、良くなってもいなかった。
戒斗は明日香のブレザーのポケットからインカムを取り出し、それを左耳に付ける。その後自分の端末を取り出し、画面を操作する。すると、明日香の左耳に付けたインカムからバラード系の曲が流れ出した。このインカムの遮音性が高く、すぐ近くにいる戒斗にもその曲は一切聞こえてこない。
その曲が流れ出して最初の方は変化がなかったが、時間が経つに連れて明日香の表情が和らいでいった。纏っていた雰囲気が穏やかになり、気持ちや感情が落ち着いていっていることが分かる。
それからしばらくして心の中の整理が完了したようで、ずっと閉じたままだった明日香の口が開かれた。
「……ありがと」
ついさっきまで感情が荒ぶっていたせいか、明日香は珍しく照れ臭そうに頬を赤らめ目線を戒斗の顔に合わせようとしなかった。そんな可愛らしくもある一面を微笑ましく思いながら戒斗は明日香の頭を撫でた。
「――そりゃ、どうも」
明日香は自分の頭を撫でている戒斗の手の温もりを感じ、嬉しそうに小さく笑みを零した。いつもならすぐに払い除ける戒斗の手の感触を大事そうに感じている。恥ずかしさからなのか、嬉しさからなのか、明日香の頬の赤みはまだ消えていなかった。
本調子、とまではいかないが元気になった明日香の姿を見て、戒斗は内心ほっとしていた。
病気でもないにも関わらず、明日香の様子が今回のようにかなり悪い方向に変化することは過去に何度かあった。それでもここ数年は安定しており、そのようなことになることはなかった。それが今さっき、目の前で起きたのだ。兄として心配になるのは仕方がないこと。
そうなった原因は言わずもがな、桐葉と『月』の席にある。
『月』の席というのは戒斗と明日香の母親である鎖那のことを指す言葉で、公には本名は公開されていない。そのため、この関係性を知っている人間は数えるほどしかいない。その幼少期に過酷な訓練を受けさせ、トラウマのようなものを植え付けた鎖那が、今までずっと深くまで干渉してこなかった学園のことに深くまで関与してきた。嫌気が差すのは無理もない。
そして、桐葉は昔その訓練で明日香の相手をしていた。つまり、さっきまでの明日香はトラウマが呼び起されていた結果の状態だったということ。
(……理解ができない。明日香が桐葉のことをどう思っているかは知っているはず。こうなることは分かり切っていただろうに…………。
鎖那は自身の目的のためならば、法の範囲を超えないことを何でもする。自分以外の存在を利用してでも。そして目的や理由のないことは絶対にしない。一つ一つの言動には必ずそれ相応の理由が付随してくるはず。だが、今回の桐葉を使うという選択の理由が戒斗には分からない。
(情報がない状態で考えても時間の無駄か……)
戒斗は考えることを一時的に諦め、その疑問を頭の隅に追いやった。
その間ずっと戒斗の左手は明日香の頭を撫でており、一度も止まっていなかった。明日香の様子は時間と共に良くなっていき、戒斗が思考を放棄したタイミングでは昼寝から目が覚めたくらいの元気さがあった。
「……もう退けていいよ、この手」
明日香は自分の頭の上に置かれている戒斗の左手を両手で退かそうとする。その両手には大して力が入っておらず、無理矢理退かそうとする気配がない。
「あ、あぁ、悪い悪い」
意識を頭の中からこの世界に戻した戒斗は明日香の頭をまだ撫でていたことに気付かされ、すぐに左手を退けた。発した言葉と違い、戒斗が悪びれていないことに明日香は少し不貞腐れていたが、すぐにそれは収まった。
明日香は左耳に付いているインカムを外し、背中を倉庫の壁から離し、戒斗の正面に立つ。
「さ、帰ろ――!」
明日香はまだ赤みが引いていない頬に引けを取らない笑顔を戒斗に向け、くるりと身を翻した。すっかり元気さを取り戻した明日香は、そのまま戒斗をその場に置いて行く雰囲気を漂わせ、スキップしながら前へ進んで行った。
そんな姿の明日香を見て小さく笑みを零しつつ、戒斗はその後ろを歩いて追いかけて行った。
煌々と輝く太陽からの日差しが最も強くなり、一日の中で一番暖かく感じる頃。雲が少しばかりかかった空の下にある街中の道路を走る一台の六人乗りの黒いワゴン車。
そのワゴン車の中に警察の二木と春原、学園に所属している生徒の戒斗と明日香、加里奈がいる。運転しているのは春原で、助手席に二木が座っている。春原の後ろに戒斗、その後ろに加里奈、二木の後ろに明日香が座っている。残った一席には戒斗が加里奈に貸したスナイパーライフルが入っている鞄と明日香の打刀が入った鞄がシートベルトで固定されている。
五人が乗っているワゴン車にはAIが搭載されており、実習訓練初日に戒斗たちを送迎していた車と同じく自動運転が可能。しかし何かしらこだわりがあるのか、春原はその機能を使用せず、自らの手で運転している。
「えっ⁉警察は参加しないの⁉」
ワゴン車の中に明日香の驚きの声が響く。一時的とはいえ、三日前に病んでいるような様子になっていたとは思えない元気な声だった。
その密閉された空間では大き過ぎる声に押されつつも二木は、バックミラーに映っている明日香の姿を見る。席から立ってはいないものの、今にも身を乗り出しそうなそんな様子をしている。
「あ、あぁ……、ここから先は幻廊府の仕事だからな。だから、保管庫の防衛には参加しない」
明日香から残念そうなオーラが出ているが、それを気にすることなく二木は前を見ながらそう答えた。運転しているのは春原であるため別に前を見続ける必要はないのだが、二木は断として顔を後ろに向けようとしていない。
便利なAIを使わない春原、意地のようなもので後ろを向こうとすらしない二木。傍から見れば似た者同士なのかもしれない、この二人は。しかしそんなことは、二人の後ろにいる生徒三人は気付いてすらいない。
二木の返答に疑問を感じた加里奈は気持ちばかりに身を乗り出した。
「でも、今一緒に向かっているじゃないですか?」
「あー、それは……。一応、今回の実習訓練の現場監督は俺になってるからな。それに、犯人の捕縛は警察の仕事だからな」
当然と言えば当然の加里奈の疑問に二木は少しバツが悪そうに答えた。加里奈とそれを黙って聞いていた戒斗は、二木が答えるまでに間があったことに引っかかりを覚えたが、そのことに特に触れることはなかった。虎の尾を踏むかもしれないといった理由ではなく、只々、自分たちには言えないことなのだろうという考えが真っ先に浮かんだからの判断である。
二木としてもその判断はありがたいことだった。実際に今回の警察と幻廊府の取り決めに関して、部外者には伝えることができないものばかりだった。
次に狙われる第三保管庫は幻廊府が管理している場所のため、追っている事件の延長戦とは言え警察が介入することが難しく、幻廊府からは関与するなと言われている。さらに、実習訓練に参加している生徒を全員寄越して欲しいと要求してきた。それらのことについての話し合いは裏で行われ、表には出てこない内容になった。
話し合いの結果は見ての通り、第三保管庫の防衛には警察に所属する人員を配置しない。その代わりに、戒斗たちの実習訓練の監督と犯人の捕縛などの事後処理のために二木とその部下一名――春原の幻廊府までの同行を許可する、といった内容に落ち着いた。
「今回は正面から戦うことになるんだろ?前と同じ装備でいいのか?」
二木が幻廊府と話し合いをしたときに聞いた話では、第三保管庫の防衛では隠れることなく正面で戦うことで守るらしい。そうなると倉庫の防衛で戒斗が使っていたようなハンドガンとナイフのみでは、かなりキツイ戦いになってしまう。
しかし、今見る限りの装備はそのときとさして変わっていない。戒斗のことを心配して言ったのだが、その心配は杞憂だと言わんばかりに戒斗は受け流すように二木の方を見もしてない。
「問題ない。必要なら向こうで借りればいい」
「……そうか。ならいいが……」
戒斗の言葉にはしていないが心配無用と言っているような態度をバックミラー越しに目にし、二木がそれ以上の言葉を言うことはなかった。
それから一時間ほど経過し、五人が乗ったワゴン車は幻廊府の裏手に回り、複数ある裏口の内、奥の方にある裏口の前に着いた。
幻廊府の建物は巨大で、建っている敷地も広大。カタストロフィの被害によって更地になった場所に建てたため、都市圏でありながらこれほどまでの建物を建設することができた。その大きさ故、入口は幾つもあり、一般人専用から関係者専用、幻廊府所属専用などといったものがある。
戒斗たちが通されることになった入口はそんな入口の中でも幻廊府が発行したパスでしか入れないところ。そのパスは幻廊府の最高幹部しか発行できない代物ときた。わざわざそんなところから戒斗たちを中に入れるということは、智恵の言う『月』の席の独断ということはどうやら本当らしい。そうでないなら、関係者専用の入口から入れればよかったはず。余程他の勢力――幻廊府内の『月』の席以外の勢力に干渉されたくないのだろう。
戒斗たち五人を入口で待っていたのは明日香のトラウマである桐葉ではなく、戒斗と明日香が知らないスーツ姿の女性だった。外でずっと立たされていたところを見ると少し可哀そうに見えてくるが、五人とも特に何も言うことはなかった。
「榴ヶ岡学園所属氷上戒斗様、氷上明日香様、岩刀加里奈様、そして警察のお二人、お待ちしておりました。どうぞこちらに」
首から幻廊府のマークと富士という名前が入ったカードをかけている女性は軽くお辞儀しながらそう言い、背中側にある入口のドアをロックを解除し、内側へ開けた。まだ成人すらしていない生徒相手にこの対応は仰々しく思えてしまい、加里奈は少しばかりたじろいていた。一方の、先頭に立っていた戒斗と明日香はそんな反応を少しも見せることはなかった。
そして、入口に立っていた富士は戒斗たち五人を入口から通した後、何も言わぬままその前を歩いて案内をし始めた。その態度に思うところはあったが、五人とも何食わぬ顔をしてその後を大人しくついて行った。
案内人である富士は歩き方からして、それなりに鍛えられているということがすぐに分かったが、意識の割き方に戒斗は少し違和感を感じた。ボタンを掛け違えているようなそんな違和感を。
それからしばらく誰も言葉を発することなく歩き、五人は幾つもある部屋の中の一室に通された。部屋の中はソファが向かい合うように置かれ、その間に透明なガラス版を使ったテーブルが置かれている。壁には大きなモニター以外に絵画や置き物が最低限飾られてあった。この部屋を管理している人の好みや性格がよく分かる装飾の仕方だった。
「それでは、しばらくこちらでお待ちください。担当の者を呼んできます」
「……桐葉っていう人以外で」
戒斗は言うべきかどうか逡巡したがそれも一瞬で、すぐに答えが出た。これから戦闘が控えている中で、明日香の様子が三日前のような状態になってしまったらたまったものではない。
「……かしこまりました」
何かしら文句が洩れたり態度が変化するかと思いきや、案内をした富士は少しの間があったものの、あっさりと戒斗の要求を受け入れた。その後、軽く一礼をしてから部屋をスタスタと出て行った。
明日香と加里奈は同じソファに座り、自分たちの鞄を壁に立てかけた。戒斗はその向かいのソファに座り、二木と春原はソファに座ることなくその近くで立っている。この部屋にあるソファが小さく五人全員が座るスペースがないというのもあるが、この場においては戒斗と明日香、加里奈の三人がメインであることが理由。
二木と春原はポーカーフェイスで一言も発さずに真面目な警備兵の如く静かだった。戒斗と明日香も静かで表情も変わっていなかたが、何もしていない訳ではなく、情報端末を見て、そこに映っているものを読んでいる。
この場で唯一はしゃぐいでいるのは加里奈だけで、傍から見れば浮いている状態。はしゃいでいると言っても別に騒ぎ立てている訳でもなく、目をキラキラと輝かせ視線があちらこちらに動いている。全ての〈幻想師〉のトップであり、憧れでもある幻廊府に初めて訪れたという事実が原因なのだが、戒斗と明日香はその兆しが一切見られない。因みに、加里奈のこの様子は幻廊府に入ってからずっと続いている。
戒斗たちを案内した富士がこの部屋を出てから五分も経たずして、金属製の部屋のドアが横に開かれた。
戒斗の要求が無事通ったようで、開かれたドアから部屋に入って来たのは桐葉ではなく、全く違う男性だった。スーツ越しでも分かるほど鍛え抜かれた筋肉、それでいてがたいがいい訳ではなく、身体全体がすらりと伸びている。付いている筋肉量が多少違うが、この場では戒斗が一番近い体格をしている。
「お待たせしました。榴ヶ岡学園の生徒三人は私に付いて来てください。……申し訳ありませんが、残りのお二人はこの部屋で待機してください」
細身で筋肉質な男性は軽く一礼した後そう言って部屋を出て行こうとしたが、視界の端で二木が脚を少し動かしたことを確認し、その歩みを止めた。
「……分かりました」
二木は渋い顔をしながら男性のお願いを受け入れた。こうなることは事前の話し合いで決まっていたことだが、二木という一人の人間としては少し気に入らなかったようで、心の内では感情が軽く暴発していた。
二木が動きを止め、自身の要求の返事を最後まで聞いてから、細身で筋肉質な男性は部屋の外へ再び歩き始めた。学園組の三人は言われた通り、壁に立てかけてあった鞄を持って男性の後を追って行った。その頃には加里奈の興奮も収まったようで、真面目モードに入っていた。
部屋に残された二木と春原はそれぞれ別のソファに座った。春原の様子に変わりはないが、部屋に二人以外いなくなったということで、二木の様子がいつも通りの少しだらしないものになった。
戒斗たち三人が細身で筋肉質な男性に連れて行かれたのは、地下にある武器庫だった。
武器庫にはあらゆる種類の銃から手榴弾、刀剣などが保管されてあった。それら全て新品同様で傷一つなく、高値で取り引きされるような高価な代物ばかりだった。中でも一際目を惹くのはトランス鉱石を使った銃弾。銃弾そのものが透き通るような鈍い青色をしており、銃弾という事実を置き去りにする美しさがそこにはあった。
「今回の戦闘では、こちらにある武器を使ってもいいとのことですので、どうぞご自由に選んでください」
ここまで案内してきた男性の言葉に戒斗たち三人は耳を疑った。指名依頼である以上何かしらの補助や補填があると考えていたが、まさかこれほどの物を貸すとは完全に想定外だった。物によっては特殊武装隊ですら一部の隊員しか使っていないような物もあるというのに、『月』の席――鎖那は一体何を考えているのか分からない。
もしかしたら貸し出すだけして損傷したらこっちに不利なことを要求してくるかもしれない。独断という我がままを通してきたのだ。相手に実子がいるからという理由を含めてもそれくらいはやってくる可能性はある。そう考え戒斗は確認のために質問することにした。
「傷つけたり、壊れたりした場合は?」
「弁償する必要はございません。今回は全てこちらが負担します」
増々気味が悪くなってきた。
鎖那の辞書には優しさという単語がない。つまり、自分が納得できるだけの見返りがない限り、自分以外の者に対して善意を見せることなどあり得ない。仮にあったとしたら、それは鎖那を語った偽物ということになる。
そんなことを知る由もない加里奈は、目の前に吊り下げられた善意という名の餌に嬉しくなり、どれを使おうかと目を輝かせて悩み出している。そして、そんな加里奈を明日香は哀れみの目で見つめている。戒斗はというと、現在よりこれから起こる未来のことを考えて、武器庫にある武器を使ってもいいのだろうかと悩んでいる。
「代償……こっちに求めるものは?」
「流石、あの人の子どもだ。……話が早くて助かります。我々が要求するものは、今回の戦闘で〈幻想〉を行使することだけです」
男性の最初の台詞は小言で口がほとんど動いておらず、問いかけた戒斗ですら聞き取れなかった。その部分だけ声が小さかったことを考えると、大して重要ではなかったのだろうと戒斗は判断し、その部分については追及することはなかった。
「それだけ?」
戒斗の質問に対しての返答が少し意外で、質問した本人ではない明日香が思わず聞き返した。明日香にとってその要求は全く苦ではなく、そもそも今回の戦闘では〈幻想〉を使うつもりだった。だから少し不思議そうな顔をしている。
しかし、質問した本人である戒斗はこの要求は明日香に対してのものではなく、自分に対してのものだと推察した。明日香と加里奈の〈幻想〉は戦闘で活躍できるもので、使うための条件は一切ない。それに対して戒斗の〈幻想〉は使うためには条件があり、都市ではそれを満たすことが難しい。それにも関わらず使えとと言うのならば、その条件を満たす準備ができているということになる。つまり、要求と言っておきながら援助していることに他ならない。
損傷の責任を追及しないで使用する武器を貸し出すことに対する代償としてはあまりにも軽過ぎる。そう感じたのは戒斗だけではなく、明日香も加里奈もだった。まだ何か隠しているのではないのかと心の内で身構えていたが、結局それは杞憂に終わることになった。
「――はい。私が聞いているのはそれだけです」
明日香の深掘りしようとする問いかけに、細身で筋肉質な男性はそう答え、それ以降無言になった。これ以上自分の口から言えることはないと言っているような雰囲気を感じさせる立ち姿をしている。
鎖那にしては求めてくるものが軽過ぎて気味が悪い。しかし、それを今この場で言ったところでどうしようもない。戒斗と明日香は目を合わせ頷き、話を続けるのを諦めることにした。加里奈もそんな二人を見て、何も言わずに武器を物色し始めた。
それからしばらくの間、武器庫には無言の時間が続いた。戒斗と加里奈は銃や銃弾をメインで見ていたが、明日香は刀剣ではなく軽量の籠手や脛当をメインで見ていた。明日香が使っている打刀はオーダーメイドという点を除いてもかなり高価で性能も高く、それはこの武器庫の中の刀剣も例外ではない。そのため、明日香は置かれている刀剣を一瞥してから一切見ていない。
最終的に――
戒斗はトランス鉱石を使った銃弾が使える六発式リボルバーと予備の銃弾十二発。
明日香は軽金属製でかなり動かし易い籠手と脛当。
加里奈は暗視スコープが付いた中距離用のスナイパーライフルとトランス鉱石を使った銃弾二マガジン分。
三人はこれらを借りることにした。
その後、戒斗たち三人は細身で筋肉質な男性に引率され、また別の部屋に連れてかれた。各々が借りると決めた武器や防具、弾薬は保管記録との参照が必要だとかで三人の手から一時的に離れている。
戒斗たち三人が通された部屋には椅子以外置かれておらず、壁一面の半分以上の大きさのホロウウィンドウが壁に映し出されていた。
「今回守る第三保管庫の周囲の説明の前に、話しておくできことがあります――」
細身で筋肉質な男性がそう言い、一拍空けてからその後に続く台詞を話し出した。
「――これから先で知り得た情報には守秘義務を要求します。これは貸し出した武器などに対する追加の要求ではなく、国が定めた幻廊府秘密保護法に基づく処置です」
この処置に関しては三人と大まかなと認識している。幻廊府の内部は情報的にも物理的にも秘密で包まれている。大まかな所属している人数や階級、仕事内容などは公開されているが、それらの具体的な情報は公開されていない。幻廊府が言うには、〈幻想〉や国家機密になっている〈門〉を扱う仕事が多くあるため、組織としての情報を多く公開することができないらしい。
そして、幻廊府秘密保護法はそういった情報を知り得た場合、その情報の概要を含め外部に漏らすことをしてはならない、という法。当然、当人の親族や身内もその外部に含まれる。
そのため、話を聞いている三人とも何も文句を言うことなく無言を貫いている。その態度を同意と受け取り、男性は話を本題に移した。
「では、周辺にある構造物について説明します。……この一番大きな建物が防衛目標である第三保管庫で、裏口は存在しません。保管庫を中心に周囲の四隅には防犯用のアラートの核が設置されています。これら全てを破壊、または無効化しなければ、展開された不可視のレーザーは消えません」
ホロウウィンドウに映し出された二次元の地図を指差しながら男性が淡々と説明していく。それらを真面目に聞きながら戒斗はどういう配置が適切なのかを、加里奈は狙撃するならどの場所がいいのかを考えている。明日香はというと、話を聞きはしているが、何かを考えている訳ではない。明日香の仕事は敵を倒すことであって、作戦を考えることではない。そういったところは全て兄である戒斗に任せきっている。
目の前の三人が真剣に話を聞いていることを確認しつつ、男性はさらに話を続ける。
「――そして、これらは全て地下にあります。真上の地上には同じようなものがありますが、それは全てフェイクです」
「え……⁉」
この情報には驚きを隠せず、話半分に聞いていた明日香は思わず腰を浮かせてしまう。戒斗と加里奈も同様に驚き、身体がピクリとしてから身体も思考も一時停止した。
(俺の〈幻想〉を使えと言ってきたのはこれが理由か……。確かに、地下なら条件は満たせる。…………自分の庭で、自分の成長兵器の性能テストか……。本当に、どういう思考をしているんだか……)
地下ならば邪魔者が入ってくる可能性は低く、環境に依存せずカメラなどで映像を記録できる。本人たちの同意なしでその記録を取ることが目的であり、損傷の責任を追及せずに武器などを貸し出すことに対しての本来の対価。直接言われていないが、親と子という関わりがある戒斗だからこそ分かること。
目的に付随する理由は、鎖那が人の手を使いながらも手塩に掛けて育てた戒斗と明日香の今の戦闘力を把握ためだろう。戒斗が榴ヶ岡学園に入学してから、そういったことはなくなったからと考えられる。これほど大掛かりの舞台でやるものではないと思うが。
そして、これは確固たる根拠がなく推測に過ぎないが、他の理由として幻廊府内の他の勢力へのけん制が挙げられる。普段傍観者を気取る鎖那自身が動いた結果、得られるものが一つだけとは考え難い。
「地上からの入口は幾つある?」
「それも一つだけです」
すぐに意識を現実に戻した戒斗はその答えを聞き、再び意識が現実から離れ深い思考に入る。しかし、今回はそれは一瞬で、すぐに現実に戻った。
「……明日香と加里奈は地上、俺が地下。で、タイミングを見て加里奈は地下に移動っていうのがベストだな」
「タイミングの合図は?」
「任せる。明日香の様子を見ての判断でいい」
「分かった」
戒斗が今さっき考えたであろう配置に対しての会話が戒斗と加里奈の間で淡々と行われた。明日香はただ攻撃するだけなので、特に戒斗に対して聞くことがないため、二人の会話を聞いているだけになっている。
そんな戒斗と加里奈の配置に関しての会話を目の当たりにした男性は内心驚いていた。地上と地下があるという情報を含めて、防衛する場所の地理はついさっき教えたばかり。それにも関わらず、タイミングによって変えるという配置をすぐに考えつき、それに対しての会話もスムーズに行えていた。とても一高校生にできることではなく、戦術面の座学を教え込まれている一、二年目の戦闘員ですらこんなことはできない。
加里奈の聞いたことを即座に理解し、流れるように質問できるという点は評価できる。しかし、それ以上に戒斗への評価が高く、それが霞んでしまう。
(さすがあの方の子ども、といったところでしょうか。……高校生にしておくのが勿体ない)
男性が心の内で戒斗のことを驚きつつも感嘆していると、不意に目の前から声がかかってきた。
「襲ってくる敵の数は?」
「現段階では把握できていません」
「なら、消耗を避けた戦い方をしないとな……」
不意に質問されたが、男性は動揺することなくタイムラグなしでその質問に答えた。内心は……といったこともなく、どんな状況でも適切に対応できるように鍛えられているせいで、鎖那の元にいる者は自然とこういうことができるようになっている。
〈幻想〉はエレジーがないと使えない。つまり、〈幻想〉を使うと体内のエレジーを消耗するということ。襲って来る敵が何人か分かっていない状況での、消耗避けるというのは体力や弾薬だけでなく、このエレジーも含まれている。
「では、スナイパーである岩刀さんには先に、調整と狙撃ポイントの把握に行ってもらいましょうか」
「!はい、分かりました」
一通り作戦が決まったことを察した男性はしっかりとした理由付きで、加里奈に退室を求めた。三人の内で一番準備に時間がかかるのはまごうことなく加里奈であるため、それに対して特に不満を抱くことなく加里奈は言われた通りに席を立った。
「じゃあ、現地で――」
加里奈は後ろ向きで手を振りながらそう言い残し、部屋の外に立っていた戒斗たちを最初に案内した富士の後ろを追って行った。そうして一人減った部屋の中には、何か言いたいけれど言えないような静けさがあった。
「……それで、わざわざ身内だけを残した理由は?何か伝言でもあるのか?」
その静けさをすぐに破ったのは、脚を組み直した戒斗だった。その顔にはさっきまでの真剣さはなく、刃物のような鋭さがその身に纏っている。目つきも鋭くなり男性の方をじっと見つめている。
「……はい、その通りです」
全てを見透かされたような目を向けられ、男性は驚きと納得が混じったような顔をした後、執事のような礼儀正しい様子に切り替わった。
「バッチの機能を解放したから戦闘の際に使って構わない、とのことです。それによって生じた被害はこちらが負担するので存分に暴れていい、とも」
その言葉を聞き、戒斗と明日香は自分のブレザーの内ポケットに手を伸ばした。そこには請求を智恵にしてルナが購入したリストにあったバッチで、ルナ曰く鎖那が勝手に追加したもの。鎖那に持ち歩いておくように言われたため、今日までずっと肌身離さず持ち歩いていた。それは明日香も同様で、戒斗に言われてからずっと持ち歩くようになっていた。
バッチに備わっている機能を解放し、それを使えと言っているということは、バッチそのものはどこかから購入したものではなく、鎖那が用意したものということになる。つまり、鎖那は最初から実習訓練の場所が、最終的に幻廊府の第三保管庫の前になることを知っていたことになる。
鎖那がそのことを知っていてあえて伝えなかったことに、戒斗は沸々と怒りがこみ上げてきたが、その過程で怒りよりも重要な気になることができたため、一度深呼吸をしてその怒りをゆっくりと沈めた。
「……その機能は〈幻想〉の使用に役立つものなのか?」
「そう伺っています」
男性は戒斗の様子の変化に気付いていたが、絶対に触れないように質問に答えるだけにした。目の前の高校生は自分の上司の子どもなのだということを再認識して。
この男性が言っていることが鎖那の言葉なのだとしたら、戒斗が〈幻想〉を使うための条件は地下で戦うこととバッチを使用すること。条件が増える分には戒斗としては一向に構わないが、一体どこまで先の未来が見えているのかという不気味感が全身を伝っていく。
「――そうか……」
鎖那に伝言を頼もうとしたが、今回のことについて聞いたところで、はぐらかされることは目に見えている。聞くこと以外をしたとしても結果は変わらない。そのため、鎖那に対して何かしら行動を取るということを諦め、戒斗は小さくため息をついた。
そんな男性と戒斗のやり取りを明日香は黙ったまま遠目で見ていた。話に鎖那の名が出てきたが、大きく感情や様子が変化することはなく、胡坐をかいてゆったりのんびりしていた。身体をゆっくりと左右に揺らし、これから数時間後に戦闘がかもしれないとは思えないほどの可愛らしさがそこにはあった。
「ねぇ、話が終わったなら、私たちも早く行こ?」
そして、とうとう暇を持て余した明日香が少しだけ静かになったタイミングを見計らって声を上げた。
その声を聞き、明日香の方を向いた戒斗と男性の目には、自分が選んだ装備を早く着けたいという欲求でうずうずしている明日香が映った。身体は変わらず左右に揺れているが、その往復にかかる時間が徐々に短くなっていることが分かるほどになっていた。
「……お二人に残ってもらった要件は以上ですので、我々も参りましょうか、戒斗様、明日香様」
明日香の様子を見かねた男性は、左手を腹に当て右手を後ろに下げ、戒斗と明日香に向かってお辞儀をした。明らかに敬意がある人に向かってする行動を前に、二人は何も反応することなく席を立った。
「では、こちらに」
男性は戒斗と明日香より先にその場を動いてドアの前まで移動し、ドアを開けその横で待機した。戒斗と明日香はその開けられたドアを通り先に部屋を出て、その後から男性は部屋を後にした。
戒斗と明日香は男性に連れられ借りた装備を身に付けた後、用意された車で幻廊府から離れた場所にある第三保管庫まで移動した。加里奈は戒斗と明日香よりも一足先にその場所に着いており、狙撃の準備がすでにできていた。
戒斗が部屋の中で言った配置通り、明日香は地上の入口の前に、加里奈はその明日香をカバーできる高所に、戒斗は地下の第三保管庫の前にいる。
時刻は五時を回り、空は赤く燃え上がり、日が西の空に落ちかかっている。その光が明日香が身に着けている籠手と脛当の金属部分に当たり、キラリと眩しい反射光を放っている。
『――まぁ、説明はこんなところかしら』
「……うん、何となく分かった。お兄ちゃんにも伝えたの?」
『ええ、勿論。ただ、戒斗のは明日香のものとは仕様が違うから、同じ説明じゃないけれど』
明日香が身に着けているブレスレット型の端末の上に出ているホロウウィンドウには、同じく明日香が左胸に付けているバッチについての詳細情報が映っていた。バッチは軽金属製で握り拳の半分ほどの大きさしかなく、付けていることを忘れるほどの軽さをしている。
明日香はそのバッチが付いていることを左手で確認し、展開されているホロウウィンドウを閉じた。両腰に帯刀している打刀の在りかを、感覚を確かめるかように両手それぞれで鞘、鍔、柄の順で触っていく。
「――それで、いつ襲ってくるの敵さんは?」
『鎖那の見立てだと、少なくとも日が完全に落ちてからね』
明日香とルナの会話は右耳に付けているインカムを通してしているため、ルナの声は外に聞こえない。何も知らない人が見ると独り言をぶつぶつと呟いているようにしか見えない。
この通話には明日香とルナしかおらず、戒斗や加里奈には聞こえていない。独りぼっちに近い状態だが、明日香はそれを感じさせない堂々とした姿勢で突っ立ている。
「なら、まだ少しあるね」
明日香はそう言ってからその場に座り込んだ。脚を内股開きにして座り、打刀の鞘がコツッと石畳に当たる。両手を下腹部に持っていき手のひらが上でそれぞれの指が交差するように組み、左右の親指の原を触れ合わせる。両目を瞑りゆっくりと深呼吸をし、心を落ち着かせていく。次第に意識が外側から内側に集まっていき、その意識が全身を伝っていく。
集中力を高める座禅のようなものを行い始めてから、明日香の心拍と呼吸が一定のリズムで行われていた。その様子を見て珍しく気を利かせてか、ルナは明日香に何も言わず音を立てずに通話を切った。
明日香が集中力を高めるルーティンを行っている頃。
その地下に広がる空間に建っている一戸建ての三、四倍はある建物の前に戒斗が一人ポツリと立っていた。左耳にはインカムが付いており、ブレザーの下にはハンドガンが二丁セットされたショルダーホルスターを身に付けている。武器庫で借りた六発式リボルバーはというと、右腰に付けたホルスターにセットしてある。
戒斗の後ろに建っている第三保管庫の周囲には、防犯用のアラートの核がある直方体型の建物が等間隔に四つ建っていおり、その天辺には白く光るランプとまだ何も光っていないランプが付いている。それ以外に第三保管庫の外壁と天井部、床にランプが等間隔に設置されており、地下でありながら地上のような明るさがある。
『こんな広い空間にたった一人なんて……寂しかったかしら?』
「誰が泣き堪えてる子どもだ。……それで、説明は?」
何の前触れなく左耳に付けているインカムからルナの声が聞こえてきたが、戒斗は驚くことなく軽くあしらってみせた。
『真ん中にあるスイッチを押して、いつも通り唱えれば起動。それから十秒ほどで効果が出るわ』
「ディレイが長いな。もう少し何とかならなかったのか?」
『構造上の問題だから仕方ないのよ。それに、タイムラグなしにできてしまったら、この場所は欠陥構造じゃない』
相も変わらず小言や文句が飛び交う戒斗とルナ。明日香と違い、戒斗はホロウウィンドウを展開しておらず、ルナの説明を耳だけで理解している。ルナの説明も明日香に聞かせているときと違い、詳細を省いてかなり簡潔に説明している。
ルナがこういった省いた説明をしているのは、戒斗の理解力の高さを知っているからというのもあるが、戒斗が鎖那の思惑を推測できている、と経験則からの精度の高い推測をしているのが主な理由。実際、戒斗はバッチの機能についてすでに理解しており、頭の中ではバッチを起動してからのことを考えている。
「因みに、この保管庫はどれくらい耐えられるんだ?」
『設計上はシェルターと同等の耐久性を持っているはずだから、戒斗の〈幻想〉にも耐えられるはずよ』
「設計上は、か……。まぁ、責任は追及されないって話だから、そんなに気にすることでもないか」
戒斗はバッチを右手の指先でいじりながらルナとの会話を続けていく。会話の内容は少しばかり物騒なものだが、お互いの話し方が落ち着いているせいか、日常的な会話をしているように聞こえてしまう。
バッチは六角形の形をしており、真ん中に深紅の小さい球体が填め込まれている。その深紅の球体が天井部の明かりに照らされ、キラリと純粋な赤色に輝く。
『そうね。万が一、戒斗の〈幻想〉が原因で保管庫が壊れたとしても、戒斗の責任にはならないわね』
「含みがある言い方だな」
『あら、そうかしら。気のせいだと思うわよ』
「……はぁー。それで、想定される敵の武装は?」
しらばっくれるルナにこれ以上追求したところで労力の無駄になると思い、戒斗はこの話題の会話を続けるのを諦めることにした。そして話題を挿げ替えるように、今回の作戦に関係がある話題に無理矢理変えた。
ルナは戒斗のその選択に嫌な声色一つせずに、質問答えた。
『この前のとさして変わらないわね。違うとすれば、今回は主戦力を送ってくるはずだから、それなりに注意することね』
「主戦力……〈幻想師〉か。……明日香と加里奈には?」
『勿論、すでに伝えたわよ』
前回の倉庫の防衛戦で戦った敵はヘルメットを着けていなかったものの、防弾チョッキやアサルトライフルなどの武装をした状態だった。練度の方も中々のもので、鎖那の手によって鍛えられた戒斗や明日香でなかったら、快勝ではなく苦戦を強いられていた可能性は十分にあった。それほどの戦力が主戦力ではないとすると、考えられる可能背が最も高いのは戒斗の言う通り〈幻想師〉が加わった部隊。
襲ってくる敵の人数にも依るが、〈幻想師〉を含んだ場合でも前回と同様に五人程度なら問題なく対処できる。しかし、人数が一個分隊――十人前後――にもなると流石に苦戦は免れない。しかも、今の配置では戒斗と明日香が〈幻想師〉がいる相手と一対多をすることになってしまい、事前情報があるのとないのとではかなりの差がある。
戒斗はルナの返答に対しての言葉を発することなく、口元の端に少しばかりの笑みを零した。その笑みはルナの根回しの良さへのものか、明日香と加里奈の実力に対してのものか、あるいは――――これからの戦いへの高揚感からか。
その後も戒斗が言葉を発することなく、白く照らされている地下空間には物音一つしない静寂が広がっていた。
燃えるように赤く空を染めた光を放っていた煌めきを地平線が飲み込み、空を照らす光を失った大空に夜の帳が訪れたときから数刻過ぎた頃。
夜空に一つ大きく存在する月の明かりが届きながらも光を持たない黒い影が四つある全く同じ構造の建物の内、北西方向にある建物の屋上にあった。その黒い影――黒いマントを羽織った加里奈は屋上に突っ伏し、スナイパーライフルのスコープを片目で覗き、ただひたすらに視界に敵が映るを待っている。
加里奈が今構えているスナイパーライフルは幻廊府の武器庫から借りた暗視スコープが付いている中距離用のスナイパーライフル。戦闘を行う時間帯が夜であること、交戦距離が短く遠距離では援護の狙撃が難しいこと、そしてタイミングを見て地下にいる戒斗の援護にも行かなくてはならないこと。それらを踏まえて戒斗から借りた方ではなく、こちらを使うことに決めたのだった。
加里奈がこの場所で狙撃の準備が完了してからすでに三、四時間は経過しており、身体が固くなってきている。にも関わらず、加里奈の身体はその間ピクリとも動かずにいた。そんな我慢が報われるかのように、左耳に付けているインカムから何時になく真剣なルナの声が聞こえてきた。
『――来たわよ。南西方向、近接四、中距離七、遠距離一、計十二』
ルナの声に反応するように加里奈は目を細め、明日香は静かに立ち上がった。地下にいる戒斗は保管庫の外壁にもたれ、目を閉じたまま一切動きを見せない。
(遠距離がいるってことは、私対策かな……。監視……はルナが気付くだろうし、一体どこから情報が漏れたのやら……)
心の中でそうぼやきながらも加里奈は、明日香がいるフェイクの保管庫に接近してくる敵影を暗視スコープ越しに目視する。ルナの言う通り、アサルトライフルではなくナイフやバスタードソードといった近接武器を持っている敵が四人いた。ルナの言う中距離はアサルトライフルを持った敵であり、全員同じような装備をしていた。
そして、遠距離は背中に銃身が長いライフルを背負った敵だった。スコープ越しとは言え距離が離れているため正確な長さまでは分からないが、頭の頂点から膝下まであることからスナイパーライフルなのは間違いない。その敵は重さが十キロを超えるスナイパーライフルを背負っているとは思えないほどの身軽さで走っており、その進行方向は明日香がいる中央のフェイクの保管庫ではなく、その四隅に建っている建物の内の一つ。加里奈がいる建物ではないものの、このまま屋上まで登られたら明日香だけでなく、加里奈自身も危険に晒される。
しかしだからと言って、その狙撃手を真っ先に落とすと、明日香とその奥にいる戒斗への負担が大きくなってしまう。二人とも接近戦タイプであり、明日香に至っては武器が打刀しかないため超近距離線しかできない。それを考えると、アサルトライフルを持った敵を一人でも減らすべき。
(さて、どっちを狙った方が勝率が高いか……)
中衛の一人を最初に倒すとその間に狙撃手が視界から消え、動きが把握できなくなる。そうなった場合、明日香も加里奈も狙撃を警戒しながら戦わなくてはならなくなり、加里奈は屋上から降りなくてはならない。そして、加里奈が再度斜線を通すにはそれなりの時間を要することになる。
逆に狙撃手を最初に倒すと弾道から加里奈がいる位置がバレ、狙撃ポイントを変えなければならない。その間、加里奈への警戒で多少人数が割かれるだろうが、明日香が残りの敵を同時に相手しなくてはならない。
どちらを取っても大小様々なメリットとデメリット、リスクとリターンが現れてしまう。ならば、最大のメリット、リターンがある選択のデメリット、リスクをなくせばいい。
最初に誰を狙うかを決めた加里奈は目を鋭くし、スコープ越しに見える敵が射程に入るまでじっと待つ。その目は獲物を狙う肉食動物のようにギラリと光っており、絶対に当てるという強い意思が感じられる。
『射程まであと五、四、三、二――』
「――
加里奈が空気に溶けるほど小さな声でそう呟いた瞬間、その手に持つスナイパーライフルが闇夜に消えた。黒い銃身に月明りが当たらなくなったからではなく、文字通り見えなくなった。
それでもスナイパーライフルは確かに存在している。加里奈の右手と右肩に堅いものが当たっている感覚が何よりも証拠。スコープ越しに目に映る景色も変わっていない。
『――一、ゼロ』
「――――っ」
加里奈の右の人差し指が手前に引かれ、見えないスナイパーライフルの引き金が引かれる。同時に、銃口から放たれる一発の不可視の銃弾。音も、光もなく放たれたその銃弾は空を真っ直ぐ貫きながら進み、地を走っている狙撃手の眉間を貫いた。
そして、その狙撃手は眉間に深紅に染まる赤い華を咲かせながら、全身から力が抜けるように慣性のまま前へと崩れ落ちていった。
何の前触れなく自分たちの後ろを走っていた仲間の一人がいきなり地面に倒れたことに驚き、残りの十一人の脚が止まる。しかし、数多くの実戦を経験した者たちだからか、即座に死因が狙撃によるものだと判断し、その場から離れ散り散りに走り出した。それでも進行方向は変わっておらず、明日香が正面にいる中央の建物に向かっている。
生き残っている十一人の顔には少しばかりの汗が浮かび、焦燥や動揺が浮き彫りになっている。一体どこから狙撃されたのか――と。
第三保管庫を襲ってきている敵視点、狙撃の銃声も、銃弾の軌道も、銃口から発生するマズルフラッシュもなく、狙撃されたという認識がすぐにできなかった。サプレッサーが付いており銃声が聞こえなくとも、この暗闇ではマズルフラッシュは確実に視認できる。それがなかったため、狙撃への警戒が今までにないほど難しくなっている。
「遠距離ダウン。あと十一」
感情がこもっていない声でそう言いながら、加里奈はスライドを手前に引き、薬室に残っていた薬莢を排莢する。すぐにスライドを奥に押し、薬室に再度弾を装填する。スコープを覗き直し、次の標的に照準を合わせる。
小さく開けた口で息を吸い、十分なタイミングで口を閉じ息を止める。次の瞬間――
「――っ」
再び音も光もなく発射された不可視の銃弾。
隊列を為さず各々が十分な間隔を取りながらバラバラに走っている敵の中で、最も明日香と距離が近い敵の眉間にその銃弾は吸い込まれていった。
不可視の銃撃を食らった敵は額の中央に小さい穴が開き、次の瞬間、全身の力が抜け、前へと崩れ落ちた。それと同時に、手に持っていたアサルトライフルは筋肉の制御を失ったせいで、自然現象のように地面に落ちた。
この不可視の銃弾による狙撃は初めてではなく、二度目。認識できない狙撃が確実にくると分かっていれば、味方がいきなり倒れたときの対応にも動揺など走らない。
味方が追加でもう一人の息の根を加里奈によって止められたが、敵は脚を止めることなく、ただひたすらに走り続けている。倒れた味方の亡骸に視線を送ることもせず、ブレることなく見ているのはこの場で一番大きい建物。まるで味方、あるいは仲間の命を何とも思っていないかのように。
その中でも二人だけ進行方向が僅かに逸れた。その方向はやはりと言うべきか、加里奈が狙撃している屋上がある建物がある方向。音も光もなくとも同じ場所から二度も狙撃されては、進行方向と身体に穴が開いた方向、物体がすぐ傍を高速に飛んでいく感覚から狙撃ポイントがある程度割り出せてしまう。そこから狙撃できる場所に絞り込めば、この場で二人亡き者にしたスナイパーの現在地が分かってしまう。
その二人の動きを屋上からスコープ越しに見ていた加里奈は、焦ることなくすぐに立ち上がり、その屋上から逃げるように走り出した。
「しばらく援護できないから、後は任せたわよ――」
黒いマントを身に纏い、闇夜に消えていく加里奈の声は落ち着いており、走っているにも関わらず息が全く上がっていない。そしその声は「自分はやるべきことを取り敢えずこなしたから貴方たちも頑張って」とでも言っているようにも聞こえた。
『大丈夫、任せて!』
『……次の出番はないかもな』
言葉に込められた意味を感じ取ってすらいない明日香と、理解した上で皮肉の言葉を返した戒斗の構図が無線の中でできていた。何の心配も要らない声を聞き、逃走中でありながら加里奈の口元には微かに笑みが浮かんでいた。
目の前に迫り来る八人の武装した集団。近接武器を持った者が三人、それ以外の五人はアサルトライフルを持っている。その内、刃渡りが一メートルほどのバスタードソードを持った者二人と、明日香が倉庫の防衛のときに使っていたような柄が短い小太刀と刃渡りと柄の長さが同じのナイフを持った者一人が比較的先頭を走っている。
その集団が向かっている先には、中央の建物の入口を塞ぐように明日香が自然体で突っ立ている。両腰にある打刀の柄に手をかけておらず、すぐに攻撃を仕掛けようとはしていない様子。しかし、その姿は辺り一帯が月明りに照らされているとは言え暗く、遠くからでは肉眼で認識することが難しい。
第三保管庫を襲ってくる敵がアサルトライフルなどの銃火器で武装してくることは最初から分かっていたこと。明日香にはたとえ見えたとしても、遠距離にいる敵への攻撃手段がない。そのため、建物の外壁や周りの地面に立っている人工灯で明日香やその周辺を照らされてはたまったものではない。その対策として、人工的な明かりは全てつけていない。
つまり敵からしてみれば、目的の建物の前に人が立っていることを認識するには少なくとも、その人物との距離が五十メートルほどになるまで近づかなくてはならない。暗視ゴーグルを付けていれば別だが、そんな高価で足がつくようなものを所属不明――警察視点の話――のテロリストが命を落とす確率が高い戦場に持ってきている訳がない。
実際、現在進行形で明日香がいる方向に走っている敵は暗視ゴーグルをつけておらず、肉眼で月明りに照らされた景色を見ている。それは加里奈がいた場所に向かって走っている残りの二人も同じこと。
『光源が月明りしかないから、明日香を視認するには最低でも五十メートルの距離まで近づかなくてはならないわね』
「あとどれくらいで、その距離になるの?」
『およそ四十秒、といったところかしら』
「オッケー」
内容はともかく、すでに戦闘状況は開始しているとは思えないほど呑気な声が明日香の口から出ていた。倉庫の防衛のときと同じく、手足の震えなどの緊張による身体的変化は一切見られない。今回の件に鎖那が噛んでいるせいか少し浮かない顔をしつつも、その目は鋭く輝いていた。
余ってる時間を利用し、明日香は余裕ある態度で軽くストレッチしていると、待っていた言葉が右耳から聞こえてきた。
『あと十秒』
「……スゥ――――、フゥ――」
ルナの言葉を聞き明日香は身体を動かすのを止め、しっかりと地面にあるコンクリートを踏みしめ自然体になる。目を閉じ、長い深呼吸してから目を開くと、そこにはギラリと赤く輝くものがあった。揺るぎない意思と覚悟がある、そんなものが。
風の音、草木が揺れる音、建物から微かに聞こえる機械音、それらが明日香の耳から消え失せる。聞こえるのは自分の鼓動と呼吸音、そして前方から聞こえてくるコンクリートや地面を蹴る足音。
思考がクリアになり、これから始まる戦闘に関係ないノイズが全て消え去る。視界は通常の状態より狭くなるどころか広くなり、視界に映るもの全てが認識できるようになった。
『――三、二、一、ゼロ』
ルナのカウントダウンがゼロになった直後、真っ暗に広がる景色の中、明日香の視界に動く黒い影が映った。それは都会の街頭モニターほどの大きさの静止画の中で豆粒ほどの点が微かに動いた、それほどのものだった。しかし、今の明日香がそれを認識できないはずがなく――。
「
明日香が小さくそう唱えると左胸に付けたバッチが赤く光り、数歩前のコンクリートでできた地面が手前に動き、そこから黒い金属版が出てきて明日香の前に立ちはだかった。金属版は一センチほどの厚さをしており、それが明日香の後ろに建っている建物の入口を塞ぐように半円状に展開されている。高さは明日香の身長を優に超え、背伸びしてもまだ高さに差がある。
そんな金属版が展開されたと同時に、明日香から五十メートル離れた先から五つの星が光り出した。その光から飛び出した鉛弾は真っ直ぐ飛んでいき、突如として現れた金属版によって防がれた。飛来してくる幾つもの金属が金属にぶつかり、数え切れない火花が散り、白くもあり赤くもある華が咲くと散るを繰り返す。その五つの星は絶え間なく光り続けながら徐々に徐々にと、明日香がいる方へと近づいて来る。
さらに、不意を突くように明日香に対して真横から高速で接近してくる三つの影があった。月明りしかない暗闇では眩しいはずの光に照らされることなく、その影は黒に染まったままだった。
静かだった夜に響く銃声と甲高い金属音。その音にかき消されながらもピンッという小さい音が確かになった。それも二つ。
「――せーのっ!」
いつの間にか明日香の両手にはそれぞれ軽金属製の缶が握られており、それらを僅かに力が入った声とともに投げた。左手にあったものはアサルトライフルを現在進行形で撃っている敵に向かって、右手にあったものは上空に向かって。
マズルフラッシュと銃声が一時的に止み、それと同時に明日香の左右から襲い掛かる三つの影。襲い掛かる敵は明日香が何かを投げたということは動きを見てすぐに分かったが、その何かまでは見えておらず、それが機能し出す前に攻撃してしまえばいいと判断していた。――しかし、それは大きな誤算だった。
月光によってキラリと照らされたバスタードソードとナイフの刃が展開された金属板に迫った瞬間、明日香の頭上で眩い光が放たれた。光源はついさっき明日香が頭上に投げた閃光手榴弾。放たれた白い光は辺り一帯を覆い尽くし、空闇に包まれた夜を真っ白な昼へと変えた。
明日香が投げた閃光手榴弾は特別仕様になっており、閃光のみで聴覚や三半規管を狂わす大音量の爆音は発生しない。その代わり、閃光の明るさを極限まで上げているため、食らったら簡単に視力が戻らないようになっている。明日香の、できた隙は一瞬たりとも逃さない、という戦闘スタイルに起因した特注品である。
明日香の次の動きを警戒するために目を開いていた近接武器を持った三人はその光を回避できず呑まれ、視界が何も映らない白に染まった。それでも本能が今の状態が危険と判断し、即座に前進から後退へ切り替え、明日香から距離を取るように大きく後ろに跳んだ。
視界が白く塗り潰されたのはアサルトライフルを撃っていた五人も同じで、何も見えていないながらも身体に染み付いた動きのように大きく散開した。その中の二人はアサルトライフルや腕で閃光をギリギリ遮ることができていたため地面に脚が着くや否や、アサルトライフルを構え直し、狙いを定めて引き金を引こうとした。
しかし、その引き金はすぐに引かれることはなかった。さっきまでアサルトライフルを撃っていた五人がいた場所に飛んできて、足元まで転がってきた缶から勢いよく灰色の煙が吹き出した。灰色の煙は上へ昇るのではなく水平方向に広がり、散開した五人全員の身体と視界を覆い尽くした。視覚的にも物理的にも視界を奪われてしまい、為す術がなくなってしまった状況。
咄嗟に閃光を食らっていない二人が他の三人を無視して煙幕から出ようとするが時すでに遅し。それまで金属板の影に隠れていた明日香は、煙幕がスモークグレネードから出た頃には飛び出しており、その二人が動こうとしたタイミングで煙幕の中に入っていた。
明日香は自らが炊いた煙幕に入った瞬間、左手で右腰に帯刀している打刀を抜刀し、そのまま軌道を反らすことなく一閃。明日香から一番近くにいた閃光をまともに食らった敵の一人の首に鋭く速い斬撃が走りその場で崩れ落ち、たった一撃で絶命した。血しぶきが舞い、明日香の左袖の一部が赤く染まるが煙幕のせいで、明日香はそのことに気付いていない。
血の色すら認識できない視界の悪い煙幕の中、斬撃を当てた敵が絶命したことを視界の端に捉え、明日香はすぐにそこから離れる。斬撃を食らったときの呻き声、血肉が斬れる音だけで明日香の居場所を特定した敵の弾幕が、さっきまで明日香がいた空間を通り過ぎた。その弾幕はすぐに止み、その間ずっと動き続けていた閃光を食らっていない二人は煙幕の外に出ることができた。
煙幕の中にいる人数が減っても明日香がやることは変わらない。
『――二時の方向』
右耳から聞こえるルナの声に従い、明日香は地面に着いた右脚の方向をその方向に変え、一気に速度を上げる。視界に人影らしきものが映った瞬間、さらに速度を上げ、打刀の間合いに入る。脚を止めるがそれまで加速していた慣性を殺さずに、右から左に打刀を振るう。銀の刃は正確に喉元を捉えており、またしてもたった一撃で一人の命を刈り取った。
敵二人の命を絶ったが、それで止まる明日香ではない。すぐさま姿勢を低く保ちながら百八十度反転し、さっきまで真後ろだった方向へ走り出す。それと同時に明日香の頭上を数発の銃弾が通り過ぎ、髪の毛を掠め僅かに焼ける。姿勢が低くなかったら銃弾が胴体に当たっていたであろうという可能性が頭によぎることなく、明日香の真っ直ぐな視線は銃弾が飛んできた先に向いている。
煙幕の中にいる最後の一人は、自分に向かって高速で迫って来ている明日香にリコイルを上手くコントロールし当てようとするが、明日香の身体に、得物に当たることはなかった。高速に動いていたからというだけでなく、アサルトライフルでは当て難い動きを明日香がしていたからというのもある。一発だけ明日香の顔に当たりかけたが、それを感じた明日香が先に顔を左に傾け、皮膚を掠めることすらなかった。
明日香は見えている敵に近づきながら、打刀を握っている左手の握り方を僅かに変える。そして刃を外側に、切っ先を進行方向に向け、その状態で左の肘を曲げ左半身ごと後ろに引き、突きの構えを取る。
その明日香の構えは次に繰り出す攻撃を容易く予想できる。明日香にアサルトライフルを撃っている敵は撃ちながら後退するのを止め、その場にどっしりと構えた。それでもなお撃ち続ける敵。
明日香が打刀の間合いに入る直前、アサルトライフルの引き金が軽くなり小さくカチッと鳴る。敵はマガジンが空になったアサルトライフルを明日香に向かって投げつけ、流れるような動作で右肩に付いた鞘に納まっていたナイフの柄にに左手をかける。
明日香は目の前に飛んできたアサルトライフルを身体を僅かに反らすだけで回避し、自分の間合いに入った瞬間、左腕に圧縮していた力を解放し、打刀による突きを繰り出す。溜と自身の筋肉、そして身体を高速で動かしていた分の慣性を乗せた一撃。
その切っ先が敵の喉元を捉える直前、敵は上半身を左斜め後ろに反らし、ギリギリのタイミングで回避することに成功する。それでも切っ先は皮膚を掠めたようで敵の喉元には小さい裂傷ができ、そこから赤い血が垂れ流れる。
敵は突きを回避したことを認識し、かなり無理がある姿勢から右脚を地面と擦れる音を立てながら後ろに下げ、無理矢理状態を起こそうとする。それと同時に左手で握っていたナイフを抜き、お返しと言わんばかりに明日香の喉元に向かって振り下ろす。明日香が回避行動を取ったとしても確実にナイフの刃が皮膚に当たる、完璧なタイミングでのカウンター。
しかし、明日香はその反撃を最初から読んでいたのか、打刀の軌道を突きから上段斬りへ無理矢理切り替えた。ナイフと打刀の刀身同士がぶつかり、暗い煙幕の中に輝く火花が散る。その火花はすぐに消えることなく散り続け、金属同士がぶつかる甲高い音が響き続ける。
明日香は重心が前へ傾いた前傾姿勢、ナイフを持った敵は上体を起こしかけている姿勢。お互いに鍔迫り合いしながら維持し続けるにはきつい姿勢だが、それでもお互い引くことはせずに得物を奥へと押し続ける。
そんな状態がずっと続く訳もなく数秒経過したとき、敵の脚が僅かに動き、一瞬だけ隙ができた。ほんの一瞬、されど一瞬。明日香はその一瞬の隙を見逃すことなく、空いている右手で左腰に帯刀しているもう一振りの打刀を抜刀する。打刀を抜きざまに左下から右上へと下段からの斬り上げを繰り出そうとするが、敵は同じく空いている右手の手のひらで柄の頭を押さえつける。
「っ!」
隙ができた瞬間の攻撃だったにも関わらず、刃先が身体に届く前に止められてしまい、明日香の顔に少しだけ驚きの感情が現れる。相手の実力を舐めていたということはなく、明日香は最初から本気で戦うと決めていた。ただ相手の実力が想定よりも、倉庫の防衛で戦った相手の実力よりも上だったということ。
明日香はその驚きの感情をすぐに内側に引っ込め、本気の顔つきに戻った。視線を敵の顔から外さずに、敵の右手に押されながらも、今さっき抜刀した打刀の持ち方を順手から逆手に変えた。
その瞬間だけ、敵の右手は逆方向からの抵抗がなくなり空を切る。押さえつけられていた力がなくなれば打刀は自由になり、好きな軌跡を生み出すことができる。
明日香は逆手に持ち替えてすぐに打刀を真横に振るう。打刀は押さえつけられていた右手右腕ごと胴体を鮮血を走らせながら斬り裂き、できた大きな傷口から血しぶきが舞い、切り離された右腕が地面にごとりと落ちる。
敵は胴体を裂かれた影響で吐血し、口の両端から真下に血でできた歪な線が垂れる。ナイフを持っていた左から力が抜け拮抗状態が崩れ、明日香の左手の打刀の刀身がナイフを弾きながら敵の左肩に当たり、そのまま真下に振り下ろされた。傷口の大きさは右手の打刀でできたものとほとんど同じだが、重傷を負った後にできた傷口のせいか、そこから出る血しぶきはさほど大きくなかった。
そして、刃がこぼれたナイフが地面に刺さり、血まみれの絶命した身体が仰向けになって崩れ落ちた。その亡骸の下には、この場で朽ちた者たちが生み出した中で一番大きな血の池ができていた。
時間とともに広がっていく赤い池を一瞥し、明日香はそこから離れようとしたとき、不意に後ろから微かではあるが風を切る音が聞こえてきた。物体が高速で飛んで来るような音ではなく、風そのものが勢い任せに飛んで来るようなそんな音。
明日香はとても自然現象とは思えない音を聞き、脊髄反射でその場から飛び去り、煙幕の外に出た。明日香の背後には弾痕が無数に刻まれた金属板が静かに立ったままあり、その近くには閃光によって一時的に視界を奪われていた近接武器を持った敵三人の姿はなかった。チラリチラリと周囲を見渡しても目の前に広がる煙幕以外に不自然なものは見当たらない。
(――三人は奥に行かれちゃったかな……?まぁ、でも……作戦通りだし、いっか……!)
明日香は敵の一部を戒斗のいる地下へ行かせてしまったという事実に気付いたにも関わらず失態とは思わず、むしろ呑気な雰囲気でその事実を受け入れていた。口元にも笑みを浮かべており、大した問題だと思っていないことが分かる。
元々作戦の立案段階で、戒斗は加里奈の援護があるとはいえ、明日香一人で迫ってくる敵全てを対処できるとは思っていなかった。それは敵に〈幻想師〉がいてもいなくても変わらない。そもそも、アサルトライフルを撃ってくる複数の相手に打刀のみで応戦することは土台無理な話。多少取り逃したとしても問題ないように、戒斗は自分自身を地下に配置した。そういったことを含めた作戦、配置だった。
明日香は取り逃した敵のことは戒斗に任せることで頭から外し、まだ生き残っている煙幕の向こうにいる敵二人のことを考える。先程の風切り音がした奇襲は一体何だったのだろうか、と。
煙幕の中にいる最後の敵の鼓動が完全に止まった瞬間の奇襲で、あまりにもタイミングが完璧過ぎる。だがそれよりも考えるべきことは、奇襲に使った攻撃手段について。飛び去る明日香の視界の端に映っていたのは、地面に広がった血だまりに透明な何かがぶつかり、地面が抉れるとともに、血が周囲に散ったという事象。
聞こえてきた音と飛んできたものが透明だったということを踏まえると、攻撃に使ったものは空気ということになる。つまり、〈幻想〉による攻撃。しかし、それ以外に分かることがなく、対策を考える段階にも入ることができない。明日香はそんな思考をしながら独り言のような言葉を口にした。
「空気の塊……?だけど……」
『大体正解ね。圧縮した空気を飛ばしたのは事実だけれど、その圧縮率が問題ね。今の攻撃だと……当たっていたら骨まで逝っているわね』
「怖いこと言わないでよね……」
明日香の疑問に答えるかのようにルナがインカム越しに明日香に対して話し出した。緊迫している状況なのを理解しているようで、いつものような皮肉さがそこにはなかった。そんなルナの声を聞いたおかげで少しだけ明日香の心拍数が下がり、周囲を警戒しながら呼吸を整えた。
「……こっちにいていいの?三人はお兄ちゃんの方に行ったはずでしょ?」
『問題ないわ。その三人は中の迷宮もどきに苦戦しているようだから、まだ時間の余裕はあるわね。それに……私の必要性が高いのは明日香の方でしょう?』
明日香が逃した敵三人が向かった場所と現在地は俯瞰視点を持っているルナが確実に知っているはず。明日香の考えはあくまで推測に過ぎなかったが、そのルナが明日香の言葉を否定しなかったということは、それが事実であるということ。その事実確認ができて、明日香の眉がピクリと動いた。
明日香の背中側にある建物――第三保管庫の偽物――の内部構造は明日香はおろか、戒斗や加里奈も知らない。その先の地下にいる戒斗が知らないのは、ルナの最短ルートの案内付きで第三保管庫の前まで行ったため。内部構造は侵入者対策でかなり複雑に入り組んでおり、地図なしでゴールまで行くには相当の時間を要する、らしい。無論、そこに辿り着くまでパスが必要な扉が複数個あるというのを踏まえないでの話しだが。
「耳が痛いことを言ってくるね……」
さり気なく言ったルナの言葉に明日香は思い当たる節が幾つもあったようで、少しだけ顔を引き攣らせた。それでも戦闘態勢は崩れておらず、明日香の意識は周囲に散開している。
そんなこんな話していると効果時間が切れたらしく、明日香が放った灰色の煙幕が徐々に薄れていき、明日香によって命を絶たれた三つの亡骸が月明りに照らされ、見えるようになった。それらの周りに広がる赤い小さな池には、不気味でありながら美しい紅の月が浮かんでいた。
そんな見惚れてしまうかもしれない月や地面に転がっている亡骸に目もくれず、明日香はその奥にいる二つの黒い影を見ていた。二つの影、もとい二人の敵はともにアサルトライフルを持っており、片方は銃口を明日香に向け構えているが、もう片方は武器すら構えておらず片手を翳しているだけ。その手のひらは明日香がいる方向に向いているが、明日香には何ら影響が出ていない。
ただ、その身体の周りには夜だからこそ分かる微かに光る粒子がオーラのように存在していた。光源にもならないその光る粒子は身体から漏れ出て、すぐに空気へと消えていっている。
(あの光は〈エレジー〉……。つまり、あっちが私を攻撃してきた〈幻想師〉ってことかな……)
〈幻想〉は使うと少なからず身体の周りにエレジーが漏れ出る。個人によって差は出るが、その漏れ出るエレジーは少量に抑えることができる。加里奈のように周囲からほとんど見えなくなる人もいるが、大抵の場合、明日香と相対している敵の〈幻想師〉のように少し離れていても視認できるほどまでしか抑えることができない。
もう一人の敵の周囲には〈エレジー〉が漏れ出ていないが〈幻想師〉ではないと判断するのは時期尚早。まだ〈幻想〉を使っていないだけかもしれないし、使っているが加里奈のように〈エレジー〉が外から見えないだけかもしれない。
そんな思考が頭によぎったが、戒斗のように思考を巡らせながら戦うという器用なことは明日香にはできない。そういうことは全部ルナに一任して戦うことが明日香のスタイルであり、最も力を発揮できる環境。
明日香は目の前の二人に対してのみ集中し、周囲のことや建物の防衛のことを考えず、その二人が使う武器や間合いを警戒して、両手にある二振りの得物を構え直す。そして、遠いどこかで甲高い金属音が聞こえた瞬間――
「――っ!」
明日香は抉れるほど地面を強く蹴り、〈幻想師〉へ一気に間合いを詰める。右の逆手に握った打刀を右上段に振り上げ、間合いに入ると同時に振り下ろそうとしたとき、明日香の中の警鐘が強く鳴り響いた。勘としか言い様がないものだが、確実に自分の命の危機を伝えてくる聞こえない音。
「っ⁉」
思考するよりも早く脊髄反射でその警鐘に従い、明日香の身体は踏み出していた左脚を使い、前へではなく右斜め後ろへ瞬時に跳び後退した。数瞬前まで明日香の身体があったその空間に、目に見えない圧縮された空気の塊が〈幻想師〉の右手から高速で飛んで行った。
両脚が地面を滑り、着地してから数メートル後ろのところでようやく明日香の身体が止まった。明日香が左後ろをチラリと見ると、その先にあった地面に五センチほどの深さのクレータができていた。そんなものはさっきまでなかった。つまり、先程の明日香がギリギリで避けた〈幻想師〉の攻撃による跡。ルナの言う「当たっていたら骨が折れている」という表現は比喩ではなく、文字通り事実だったということ。
その事実を目の当たりにし、明日香は驚愕とともに〈幻想師〉への警戒度が数段高くなった。恐怖という感情はそこにはなく、むしろ全身を流れる血が沸騰するように熱く燃え上がり、顔に不敵な笑みが浮かんだ。命を懸けた戦いの最中のその笑みは、実戦経験があるはずの敵二人を戦慄させるほどのもので、その二人の背中に冷たいものが走り、本能が明日香のことを危険だと告げた。
完全にゾーンに入っている明日香の視界にはその変化は映っておらず、再び地面を蹴り敵への接近を試みる。今度は〈幻想師〉の方ではなくアサルトライフルを構えている方。さっきの攻撃で最低でも深手を負わせたかったが、そもそも攻撃が当たらなかったため、再度攻撃を仕掛けても二の舞いになってしまう。ならば、この戦況で一番邪魔なアサルトライフルを構えている方を先に潰すのが得策。
その狙いに気付いたアサルトライフルを構えている敵はすかさず明日香から距離を取り、〈幻想師〉は明日香に対して右の手のひらをトラッキングする。そして、一秒も満たない時間が経過した後、アサルトライフルの銃口から銃弾が発射され、〈幻想師〉の右の手のひらから空気の圧縮弾が再度放たれる。
『――二時方向、足元』
明日香は〈幻想師〉の方を一切見ずに、アサルトライフルを構えている敵だけを見て斜め左前へ進行方向を変え、それと同時にさっきまで明日香の脚があった場所にクレータができあがる。片足が地に着いた後、すぐに進行方向を戻し、着弾地点を見向きもせず、アサルトライフルを構えている敵に一気に迫る。
アサルトライフルの銃口から発射される銃弾はまるで明日香のことを避けるかのように、明日香の身体や服に掠りもしていない。決して撃っている人間の練度が低いという訳ではないが、それが事実であり現実。アサルトライフルを構えている敵はそのことに焦りを覚え始め、照準が狂い始めて精度が徐々に落ちていく。引き金を引く力が強くなり、アサルトライフルを支える腕や肩が強張り始めた。
明日香が間合いに入る直前、アサルトライフルの引き金がカチリと鳴り、薬室とマガジンに入っていた銃弾が尽きる。この事実で撃っている人間の焦りは消えることなく逆に加速していき、引き金を繰り返し数度手前に押し込む。カチリカチリと鳴り続けるが、今まで使っていた攻撃手段が使えなくなったという事実が変わることはない。
慌てて右肩の上に納めているナイフに左手を伸ばすが時すでに遅し。そんな大きな隙を明日香が逃すはずがなく――。
明日香の持つ二振りの打刀の刀身に深紅の炎が走る。右後方にいる〈幻想師〉が再び明日香に向かって右手を翳し、空気を圧縮し始めているがそれよりも速く、炎を纏った二振りの打刀を右から左へと振る。順手で握った左の打刀と逆手で握った右の打刀が胴体を正確に捉え、敵が持っているアサルトライフルごと斬り裂かれた。
二つの裂傷から鮮血が舞い、噴水の如く血が吹き出す。斬られたアサルトライフルの斬り口は溶けた金属のように赤く光る。
二つの切っ先が敵の身体を離れた瞬間、息次ぐ暇もなく明日香は後方に飛び去った。直後、胸と腹を斬り裂かれた身体と果物のように斬られたアサルトライフルがまとめて左へ大きく吹き飛んで行った。距離を取った場所からでも分かる骨が折れる音が聞こえ、生死を確認するまでもなく確実に絶命したのだと分かった。死因が出血か殴打かは定かではないが。
明日香はそんな亡骸に目もくれず、着地してすぐに態勢を立て直し、次に来る攻撃に備え、〈幻想師〉の方を向く。加里奈を追っていた敵二人を除けば、地上にいる敵は目の前にいる〈幻想師〉一人だけ。一騎打ちだからと言って油断はしない。じりじりと〈幻想師〉に近づくことはせず、距離を保ちながらゆっくりと右へ移動していく。
『空気弾を撃ってくる敵の〈幻想〉が分かったわよ。――大気そのものの操作ね』
「大気の操作……?」
〈幻想師〉への視線を逸らすことなく、意識も逸らすことなく、明日香はルナの言葉に耳を傾ける。ただ明日香は器用ではないため、二つのことを同時に行うことが得意ではない。そのため、意識の割き方が半々とはいかず、せいぜい七:三くらいになっている。勿論、七の方が敵の警戒に割いている割合。
そのことを重々承知しているルナは可能な限り分かり易いように話しているが、実際はそう簡単にはいかない。オウム返ししてくる明日香に対して聞こえない程度でため息をしつつ、ルナは文句を言うことなくは話を続ける。
『……さっきから撃ってくる空気弾は大気を高密度に圧縮して、高速で撃ち出しているものね』
「特に変わったことはないじゃん」
『そうでもないわよ。高密度に圧縮した分、本来そこにあった大気はなくなって一時的に真空になる。つまり、撃ち出しの音が聞こえないのよ』
大気の操作と大気を圧縮した空気弾という言葉から簡単に連想できてしまうルナの説明に明日香は疑問を浮かべたが、その疑問はすぐに消えた。
ルナの説明を例えを使いながら説明すると――一辺が一メートルの立方体の中にある空気を一辺が一センチの立方体サイズまで圧縮すると、一辺が一メートルの立方体の中には一辺が一センチの立方体サイズの空気以外何もなくなる。つまり、そのなくなった部分は真空になる。
しかし実際は一辺が一メートルの立方体の壁などなく、真空になった部分はすぐに周囲の大気から補填される。それでも一時的、少なくとも空気弾が撃ち出されるタイミングではその周りは真空になっているため、本来そのときに出る音が周囲に伝わらない。
ただでさえ見えない攻撃が音も聞こえないとなると、対応が非常に難しくなる。近接攻撃をする明日香にとっては致命的なハンデになりかねない。
「なるほどね……」
明日香はルナが言いたいことを理解し、その厄介さに冷や汗が一粒タラリと垂れる。今までは自身の勘やルナのアシストでどうにかなっていたが、これから先、全ての攻撃を同じ様に避けられる保証はどこにもない。
(……――ってなると……長期戦は無理だね。やるなら、短期決戦しかない……!)
両手に握る二振りの打刀をそれぞれ握り直し、横への移動を止め脚を止める。一対一の状況だからこそ、目の前に立っている〈幻想師〉以外のことを一切考えず、集中力を極限まで高める。敵の〈幻想師〉の一挙手一投足を、身体から漏れ出すエレジーの変化を見逃さぬよう。
敵の〈幻想師〉は明日香のその変化に気付いたが構えを変えることなく、ただ明日香の次の動きを警戒するためだけに四肢の動きに視線を集中している。得物や〈幻想〉を含め、明日香には中遠距離への攻撃手段がない。この短い戦闘時間の間にそのことはすでに敵の〈幻想師〉にバレている。だからこそ、四肢以外に警戒して見るべきところはない。
お互いに何も動かさず、何も起きない状況が数秒続いた頃。明日香の視界が僅かに歪み始めた。乗り物酔いのような吐き気はなく視界が歪んだからか、バランス感覚が少し崩れ、身体が横に傾きかけた。
思考が鈍化し、これから何をすべきなのか、何を警戒しているのか、といったことが朧げになっていく。それが時間とともに進んでいき、手足の力が抜けていく。
『明日香!』
「……――っ‼」
耳がキーンと鳴るほどの音量で耳元から自分の名前を呼ぶルナの声が聞こえ、明日香は咄嗟に我に返り、反射的に後ろに大きく飛ぶ。本能が、身体に刻まれた感覚がこれは危険だと叫んでいる。
着地後、胸が地面に触れるかどうかの高さまで伏せると、そのすぐ上を透明な何かが高速で通り過ぎて行った。明日香の髪を吹かすだけしてそれが身体には当たらなかったが、もし当たっていたらという考えが脳裏によぎり、背筋がぞっとして冷や汗が垂れる。
「はははっ……あっぶな……!」
『死にかけたのに軽いわね』
「……いいでしょ別に。それで……、今のは?」
攻撃が過ぎ去ったのを確認し、明日香はゆっくりと立ち上がり、敵の〈幻想師〉の方を見る。敵の〈幻想師〉はさっきまでと構えは変わっておらず、一切動いていない。ただ身体の周りにエレジーが漂っていることから、今の明日香の身体に起きたことと飛んできた攻撃は〈幻想〉によるものだとということが分かる。
視界の歪みは元に戻ったが、バランス感覚はまだ完全には直っておらず、動作に出ていないだけで立ち眩みが若干する。ゆっくり深呼吸をすることで、それはだんだんと改善されていく。
『さっき言った真空の部分が明日香がいるあたりで起きかけていたのよ。反応が遅れていたら酸欠で気絶、最悪窒息死していたわね』
「…………」
明日香はいつもと違うルナの声色に違和感を覚えながらも、ルナの話を聞き逃さないように意識して聞いた。その声は焦りや心配、自責の念が感じられるほど、人間味が強く感じられるものだった。皮肉さもなく、平和な状況だったら鳥肌が立っていたかもしれない。
ルナのその変化も気になるが、今はそれを考える状況ではない。目の前に立っている〈幻想師〉の倒し方を考えるべき。
さっきの不意打ちも踏まえて今分かることは、空気弾は手のひらからだけでなく、任意の空間からも生成、発射することができるということ。〈幻想〉による攻撃が空気弾しかないが、それ以外に攻撃方法がないのかは定かではない。後者は警戒するしか取れる選択がないため、問題は前者。
任意の空間は一体どこまでなのか。視認できる範囲内なのか、自分を中心とした半径数メートルの範囲内なのか、あるいはその両方が重なった範囲内なのか。予測は幾つも立つが、現段階では正解が分からない。
「あと何発撃たせたら分かる?」
『最低三回、多くて五回、といったところかしら』
「オッケー……」
返事をしながら意識がルナから離れていき目の前に集中していったせいで、言葉の後半が消えかかっており、目つきが鋭くなった。ルナとの短い会話を終え、走り出す明日香。安全マージンで徐々に近づこうとはせず、敵の〈幻想師〉の正面に向かって真っすぐ突き進む。
その動きには迷いが一切なく、見えない攻撃を受けるかもしれないという不安を感じさせない。そんな異常な様子に少しだけ怖気づいたのか、月明りに照らされた敵の〈幻想師〉の顔には汗が数滴浮かんでいた。だからと言って攻撃を止めるということはせず、翳している右腕を中心に〈エレジー〉が外に漏れ始める。
敵の〈幻想師〉の周りにエレジーが漏れ始めた瞬間、明日香は走っている速度を上げ、敵の〈幻想師〉へ一気に迫る。空気弾が撃ち出されるよりも早く打刀の間合いに入り込み、振り下ろされる逆手で握った刀身が燃え上がる左の打刀。
空気弾の生成・発射が間に合わないことを悟った敵の〈幻想師〉は後ろに飛び去り、明日香の斬撃を辛うじて回避することに成功する。しかし、回避に意識を持っていかれたせいか空気弾の制御が離れ、明日香には飛んで行かず、見当違いの方向へ飛んで行った。
高速で接近してくる攻撃を回避したことに少しばかり安心している敵の〈幻想師〉だが、明日香の攻撃は休むことを知らない。
逆手での斬撃で身体が左に捻られていたことと打刀を振り下ろした慣性を利用し、右脚を中心にその場で一回転。その速度を緩めることなく、後退した敵の〈幻想師〉を追いかけ、再び攻撃を仕掛ける。
態勢の立て直し方、絶対に攻撃を当てるという意思。それらを見て何を思ったのか、敵の〈幻想師〉は片手で持っていたアサルトライフルを明日香に投げつけた。流石にその行動は明日香の頭にはなかったため、明日香の反応が一瞬遅れる。火炎を纏った打刀で斬ろうとしたが、まだ中に銃弾が入っていることを思い直し、左の籠手でアサルトライフルを外側に弾く。
たったコンマ数秒の出来事だったが、実戦を経験している者にとって態勢を立て直すのに十分な時間。右肩の鞘から抜いたナイフと腰に差さっていたショートソードを両手に構え、続く明日香の攻撃に備える。それと同時に、再び身体の周囲にエレジーが漏れだし、空気弾を準備する。
明日香が自身の間合いに入る直前、その空気弾のチャージが完了し、明日香の胴体目掛けて撃ち出される。発射店は明日香から見て数メートル離れた真左。すでに攻撃モーションに入っている明日香にはそれを回避することができない。――本来なら。
『――――っ』
「っ!」
ルナが耳元で何かを話そうとしている。しかしそれが明日香に届くことはなく、明日香の意識は目の前のことに集中していた。
音はないが、自身に突き刺さる殺気と本能を頼りに空気弾が飛んで来ると察し、上段に構えていた左の打刀の動きを急停止させる。重心がかかっている右脚にあらん限りの力を込めて前進を止め、慣性に逆らいながら上体を大きく後ろに反らす。無理矢理動き態勢を変えたせいで身体の節々が軋み、少し痛むがそんなことは気にしない。
撃ち出された空気弾は正確に明日香の胴体を捉えていたが、明日香が上体を後ろに反らしたことにより、何もない空間を通り過ぎていく。後数瞬回避が遅れていたら、間違いなく空気弾は明日香の胴体に直撃していた。それ程ギリギリのタイミング。
明日香は自分の胸の上を何かが通り過ぎたのを感じた直後、勢いをそのままに両脚を地面から離した。脛当を含めた両脚が赤く燃え上がり、深紅の脚は吸い込まれるように敵の〈幻想師〉の左腕に直撃し、肉が焼ける音と骨が折れる鈍い音が鳴る。それともに敵の〈幻想師〉が左手で持っているナイフが下へと落ちていく。
それだけでは飽き足らず、明日香は着地と同時に右の打刀で敵の〈幻想師〉に斬りかかる。その斬撃に、敵の〈幻想師〉は咄嗟に右手で構えていたショートソードで防いだが、蹴り上げにより仰け反ったままで勢いのある攻撃を防いだため、身体は大きく後ろに吹き飛ばされる。吹き飛ばされながら数度身体を地面に打ち付けたが、逆手に持ち替えたショートソードを地面に突き刺したおかげでブレーキがかかり、それ以上身体が地面にぶつかることはなかった。
明日香の両脚に纏っていた炎はゆっくりと消えていき、その足元には敵の〈幻想師〉が持っていたナイフが突き刺さっていた。そのナイフを見向きもせずに避け、できた隙を逃すまいと明日香は再び敵の〈幻想師〉に接近しようとしたが、ルナの声に呼び止められる。
『――真上よ!』
その声に条件反射したかのような速度で明日香は後ろに跳び、数メートル後ろに移動した。直後、さっきまで明日香がいた場所にはクレータができていたが、今までのものより小さく歪な形をしていた。空気弾のチャージ時間が足りなかったのか、それとも攻撃を食らったせいで途中で制御が離れたのか。どちらにしても、今の空気弾だったら頭以外に当たっても差してダメージになり得ない威力だった。
ルナに解析を頼んでからこれで三発目の空気弾。解析を終えることができるとルナ自身が言っていた最低回数に達した。
「今ので三回だけど、何か分かった?」
『おおよそでいいのならね。生成するのにかかる時間は一秒強、範囲は自身を中心に半径十メートル前後。今の失敗例を見るに、一度に生成できる弾の数は一つが限界のようね。――少なくとも戦闘中は』
まだ完全には解析しきれていないということを念頭に起きながら、ルナは今の段階で分かっていることを淡々と語った。自分が話していた“最低三回”という言葉を明日香が聞いていなかったことにルナは呆れていたが、それを感じさせない言い回しだった。
「再発動は?」
『細かい時間までは分からないわ。ただ、明日香に当てるために意識を割いていたようだから――』
「回避してから一秒くらいは飛んで来ない、ってことでしょ?」
『そういうことになるわね。……』
この後に明日香がやることが言わななくても分かってしまい小さくため息が出るルナ。折角、明日香にも理解できるように分かり易く説明したにも関わらず、それに返ってきた言葉が脳筋に聞こえる言葉だったのだから無理もない。
しかし、それ以上ルナが何か言うことはなかった。今伝えられる情報は全て伝えた。ここから先の戦闘は明日香自身がどうにかするものであり、口出しすべきものではない。
明日香は両手の得物をそのままに、自然体に構えながらゆっくりと吹き飛ばされた敵の〈幻想師〉へと近づいて行く。その姿は堂々としており、秘めた意思や強さを感じさせるものだった。
その先にいる敵の〈幻想師〉はすでに吹き飛ばされた態勢から立ち直っており、右手でショートソードを正面に構えていた。左腕はというと、手首から先が本来曲がるはずのない方向に曲がっており、使いものにならない状態になっている。確実に骨が折れているはずだが、その痛みがないかのような雰囲気で立っており、自分の命を懸ける覚悟を感じさせる何かがそこにはあった。
明日香は一歩、一歩とゆっくりと歩いて行き、敵の〈幻想師〉との距離が十二メートルほどになった瞬間、姿勢を低くし走り出す。その行動には回避という二文字はなく、どうぞ撃ってきてくださいと言わんばかりに真っ直ぐ突き進んでいる。
『――正面』
敵の〈幻想師〉の周囲に〈エレジー〉が漏れ出し、目の前に存在する空気が一気に集まっていくのが微かに肌で感じられる。後一秒もしたら空気弾が自分に向かって飛んで来ることは分かり切っているが、明日香は進行方向を変えようとはしない。ただ、ひたすらに真っ直ぐ走り続けている。
敵の〈幻想師〉はそんな臆することなく自分に向かって突っ込んで来る明日香に対して何とも思わず、空気弾を目の前の
敵の〈幻想師〉のショートソードを握る力が強くなった瞬間、不可視の空気弾が撃ち出される。瞬く間にその空気弾は明日香の目の前まで飛んで行き、今まで通り進行方向を変えて避けようとしないことに、敵の〈幻想師〉は空気弾が明日香に直撃することを確信した。
空気弾は明日香の腹部に直撃する軌道を描いているため、半身を反らして避けるといったことはできない。かと言って、止まるなり無理矢理避けるなりしたら、空白の一秒の間に攻撃を加えることができない。だからこそ、明日香が取った行動は――
「――っ⁉」
明日香が取った回避行動に敵の〈幻想師〉は驚き、思わず目を見開いてしまった。それもそのはず、明日香が取った行動は前へのスライディングだった。さっきまで腰があった辺りに頭の頂点がくるため、空気弾は当たることがない。しかし、スライディングではその後に取れる行動は制限され、大きな隙となる。
敵の〈幻想師〉は見開いた目をすぐに戻し、明日香の真後ろに再度空気弾を生成しようとする。それと同時に、ショートソードを上段から明日香に向かって斬りつける。
明日香は右の逆手で持っている打刀でそれを受け止め、火花が散る鍔迫り合いに持っていく。お互い片手で持っている得物での鍔迫り合いだが、体重や体格に差があるからか、少しずつ明日香の打刀が押されていく。
「っ……!」
それでも押しつぶされないよう、明日香は今出せる力全て出して必死に抗おうとする。刃と刃の間に散る火花が大きくなり、明日香の視界の半分が白く光り始めたとき、その視界が微かに揺れ始めた。
(!これは……空気弾の……。でも、それはさっき食らった――!)
明日香は意識を無理矢理気合で覚醒させ、右の打刀を僅かに奥にずらし、鍔迫り合いから受け流しに切り替える。打刀の刀身の上をショートソードの剣身が滑り、火花とともに甲高い金属音が響き始める。身体を左回転させながら重心が寄っていた左脚で地面を蹴り、浮いた再び炎を纏った右脚の裏で敵の〈幻想師〉の腹部をまるで地面かのように強く蹴る。その瞬間、敵の〈幻想師〉の脚は地面から離れ、火花を散らしている右手で握っていたショートソードが上へ弾かれる。
そして、空中という何もできない場所に追いやられた敵の〈幻想師〉の胴体に、身体の回転の勢いを乗せた二つの烈火に包まれた刃が当たり、真横に薙ぎ払われる。二つの深紅の軌跡が月明りしかない暗闇の中を照らし、周囲が夕方や夜明けほどの明るさになる。しかしそれも一瞬で、すぐに視界の悪い夜に戻った。
明日香の両脚が地に着いたと同時に、敵の〈幻想師〉の亡骸が明日香の背中側に仰向けの状態で地面に崩れ落ちた。亡骸からは血が外に流れておらず、今さっき明日香が付けた斬撃の跡には大きな火傷ができあがっていた。
「――はぁ……、はぁ……、はぁ…………」
しゃがんでいる明日香の顔から大粒の汗がポタリポタリと地面に落ち、土を湿らせる。両手それぞれに握られた打刀の刀身には深い深い赤色をした血が付いており、美しい銀色を汚している。その血も汗と同じく一滴ずつ地面に落ちているが血だまりができるほど垂れていない。それは勢いよく薙ぎ払ったためであり、明日香と敵の〈幻想師〉の亡骸の周りには扇状の血の跡ができていた。
自分が倒すべき五人を倒し切ったことに明日香は喜びの笑みを浮かべていいるが、かなりの体力と精神力、〈エレジー〉を消耗したため、その笑みの裏には疲弊が隠れている。最後の攻撃を空気が薄い状態で行ったためというのもあり、脳に酸素が足りていなく、頭の片側がズキズキと痛む。
「後は任せたよ、リーナちゃん、お兄ちゃん……!」
明日香はそう言いながら二振りのの打刀を地面に突き刺し、それを頼りに立ち上がった。その視線の先は明日香の盾の役割を担っていた金属板の奥にある偽物の第三保管庫があった。
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