実習訓練

 実習訓練当日。

 空は雲一つない晴天で、ルナの予想通りの展開になるのならとても相性のいい天気。風は少しあるが、髪を撫でるようなそよ風で気持ちがいいくらい。

 戒斗と明日香、加里奈の三人は朝から榴ヶ岡学園ではなく、とあるビルの下に集まっていた。三人とも普段の制服ではなく、前日に智恵からもらった例の無駄に高性能の制服を着ている。制服は警察が見ることも配慮してか、三人分全て同じ高等部の制服と同じデザインと色をしている。

 戒斗は家を出る前、普段着ている制服で来るのもありだなと思ってしまったが、それはそれで問題になりそうだと思い留まり、実行することはなかった。

 目の前に建つビルは見た目では十階までありそうな高さをしており、外に出ている看板を見るに警察関連の施設だろうということは推測できる。何のための施設かは定かではないが。

「なぁ、ルナ。集合場所はここでいいんだよな?」

『えぇ、間違いないわ。遅刻とはいい度胸よね』

 聞いていた予定では警察本部前で集合だったのだが、当日になって現在戒斗たちがいる場所に変更すると、智恵を介して通達があった。時間は変更されることなく予定通りであったため、戒斗たちが集合時間に遅れるということはなかった。

 この場所には徒歩で来た訳ではなく、学園側が用意した――智恵が手配した車で学園から三人揃ってこの場所までやって来た。

 場所を変えるのは戒斗たちに負担がないためあまり気にならないが、変更を通達してきた側が遅刻というのは些か問題だと思われる。五分、十分程度なら誤差の範囲内だと割り切れるが、もうすでに予定時刻から三十分弱経過している。明日香はもうそろそろ我慢の限界のようで、顔に苛立ちが見え始めている。

 戒斗が着ているブレザーの下にはショルダーホルダーに仕舞われたハンドガンが二丁セットしてある。後ろ腰の右側にはフックショット、真ん中にはナイフが鞘に入った状態でセットしてあり、いつでも取り出せるようにしてある。予備のマガジンは決闘のときと同じく両手首のホルスターに付けているが、今回はそれぞれ一個ずつしか持ってきていない。

 “実習訓練中は武器などを装備していても構わないが、戦闘時以外は隠しておくか仕舞っておくかしない”という規則があるため、明日香はメイン武器の二振りの打刀を持ってきていない。代わりに学園にお金を支払わせて買った、柄の先頭から切っ先まで三十センチほどしかないかなり短い小太刀二振りを後ろ腰に帯刀してある。勿論、明日香もフックショットは持ってきており、右太もものホルスターにしまってある。

 加里奈はかなりシンプルで右腰のウエストホルスターにハンドガン、左腰にナイフがしまってある。加里奈のメイン武器はハンドガンやナイフではないが、明日香と同様、今回の実習訓練に持ってくることができないため、これほどまでにシンプルになっている。

 警察の人間が遅れているといったことを話していると、不意にビルの前の道路に黒い車が止まった。車は四人乗りの小型車ではなく最大八人は乗れるような大型車で、街中ではあまり見かけない車種だった。

 その車のドアが自動で開けられ、中からスーツ姿の二人の男性と女性が出て来た。

「君たちが榴ヶ岡学園から来た生徒たちかい?」

「……そうだが、あんたらは?」

 戒斗はその二人組に訝し気な視線を送りながら聞かれたことに答えた。不意に目の前に止まった車から現れたものだからつい警戒してしまい、口調が敵意剥き出しのようなものになってしまった。しかし、タイミングと台詞の内容から考えると、実習訓練で合流することになっていた刑事だと推測できる。

「いきなりため口かよ……。まぁ、使えるなら別にいいが……俺は二係の二木。んで、こっちが――」

「春原です」

 戒斗の予測通りこの二人は刑事で、実習訓練で戒斗たち三人に同行することになっている者たちだった。

 二木の口調は開口一番の戒斗の台詞のせいか大分砕けており、学園の生徒である戒斗たちからすればかなり話しやすい。口調や立ち振る舞いから見るに表面的な部分ではなく、内面的な部分や実力を重視するタイプの人間だと考えられる。戒斗のような成績と実力に差がある人からすると、こういった人の方が接しやすく、相性がいい。

 対して春原はスーツをきっちりと着こなしており、表面的な部分を見る限り二木とは正反対で生真面目といった印象。かなり対照的で、よく二人組を組んでいられるなと思えてしまう。

「……よろしく」

「よろしくー」

「よろしくお願いします」

 三者三様の挨拶を返す戒斗と明日香、加里奈。二木が砕けた糖度を取っているため、戒斗は敬語を使わずに素で話した。明日香もそれにつられて素を表で挨拶したが、加里奈は性格的な問題もあってか、丁寧に敬語を使いながら軽くお辞儀もしていた。

「それで、何で場所を変えたんだ?」

「別件に追われていてな。……今から行くとこには関係ないから気にしなくていい」

「……そうか」

 二木の言葉には噓偽りがなさそうに見えるため、間があったのは部外者に話せないことなのだろうと推察できた。そう考え、戒斗は深く追求することはなかった。

 そんな少し静かになった空気を流すように明日香が口を開く。

「それで、これからどこに行くの?」

「ここから二キロほど離れた高層ビルです」

 明日香の呑気な雰囲気でした質問に対しての答えは二木ではなく、そのことにいる春原だった。春原は一歩前に出てきてそう答えた後、「端末を」と言いながら自身が手に持っている端末を操作する。戒斗は言われた通りにルナが映っている端末を春原に見えるように移動させると、そこにご丁寧に位置情報が送られてきた。話の流れ的に今から向かう場所だということはすぐに分かった。

 「んじゃ、行こうか」

 二木は後ろに止めてある車を右手の親指で差した。遅れて来たのに偉そうだなと気持ちを心に閉じ込めながら、戒斗と明日香、加里奈の三人は二木と春原が乗って来た車に乗り込んだ。


 道中、特に問題が起こることなく、警察二人と生徒三人は目的地である高層ビルの前に着いた。

 道中、戒斗と明日香、加里奈の三人は軽く自己紹介をして、ルナについても具体的なところは省きながら説明もした。ルナの今までの言動から、この警官である二人の前で身勝手に起動して話し出すことは分かり切っているための処置であり、保険。

 目的地の高層ビルの周りには数多くのビルが建ち並んでおり、誰がどう見てもここは都心だと言いそうな光景。そんな高層ビルの前には制服姿の警官が入口を塞ぐように並んでおり、ホロウで立ち入り禁止の表示がされていた。

「ここが事件のあったビルです」

「へー、結構大きいんだね……」

「事件が起きたのは何階だ?」

「七階です。私が案内するので、付いて来て下さい」

 高いビルに感嘆を漏らしている明日香を横に、春原は必要な情報だけを話して、門番をしている警官に警察手帳を見せてそそくさと先に行ってしまった。戒斗は感嘆している明日香の背中を軽く押した後、春原の後を追った。その後ろに加里奈と元の様子に戻った明日香、そして二木が続いた。

 学園組の三人の見た目は完全に教育機関の生徒だが、今この場においては警察の関係者ということになっているため、三人の右の二の腕に「警察関係者」と書かれたワッペンを付けている。これは車の中にいたときに二木から渡された物で、絶対になくさないようにと念押しされた。

 ビルの内装は簡素でありふれた雰囲気をしたオフィスのような造りだった。システムやセキュリティはAIが管理しており、紙でできた掲示板や鍵穴は見える限りではない。それ故に、かなり綺麗でシンプルな印象を受ける。

 事件があったという七階に着くと、一階と打って違いフロア全体に鑑識や刑事といった警察関係者があちらこちらにいる。戒斗たちがフロアに入ったとき、彼らからの視線が一気に刺さったが、プロなだけあってその視線はすぐに戻った。

「春原、説明を」

「はい。……今から二時間ほど前、何者かがこのフロアに侵入。その後、偶然ここに来た者が床で倒れている人を発見。被害者は四名。その四名とも酸欠の症状で搬送されましたが、全員命に別状はないそうです」

 一番後ろにいた二木が春原に指示し、春原が手に持った端末を見ながら戒斗たちにここで起きた事件の内容を説明した。性格的な面があるとはいえ、学園の生徒を相手にここまで敬語で話す人はかなり珍しい。大抵は少しは砕けた言葉になるものだが、その片鱗すらも見せてこない。本当に根っからの生真面目なのだろう。

「酸欠……?」

『今の時代だと珍しいわね』

「その犯人が〈幻想師〉だと?」

「推測に過ぎんがな」

 基本的に一般的な家やオフィスの空調システムはAIが管理しており、酸素濃度の低下や人体に有害な物質を感知した場合、自動的に換気を行うプログラムが組み込まれているため、中にいる人が酸欠になることはない。それが今の時代では当たり前となっているため、酸欠で倒れることなど滅多にない。

 つまり、このフロアに侵入した犯人が意図的に引き起こしたと考えられる。そして、それは〈幻想〉によるものだと警察は考えている。〈幻想〉の中には直接的、間接的問わず空気に干渉するものは確かにある。勿論、AIを機能させなくした後、機械などを使って引き起こした可能性もゼロではない。

 短い会話をしながら一行は被害者が倒れていたという部屋まで進んだ。その部屋はそれなりに広いが、調度品がほとんどなく、ここを管理している者がミニマリストに近い感性を持っていると思わせる雰囲気をしていた。人が侵入したとは思えないほど物が散らかっておらず、散らかっていても人が倒れるときにそうなってしまったと思えるほどの散らかり方をしている。

「そんなに散らかってないね」

「犯人に目星は?」

「ついてたら、こんなに人が集まってねぇよ」

 戒斗の度重なる質問に嫌気が差したのか、ぶっきらぼうに二木はその質問に答えた。

 大して散らかっていないということは物盗りの可能性は低い。犯人がここの関係者ならば、セキュリティや空調システムを管理しているAIの無力化が容易。また、そもそもの目的が物理的な物を盗ることではなく、何らかの情報を盗ること、といったことも考えられる。そのため、犯人がここの関係者、あるいは何らかの情報の奪取が目的の可能性も捨てきれない。

 殺人の線も考えられるが、被害者が全員窒息や毒などではなく酸欠で倒れていたということを踏まえると物盗りより可能性が低いようにも思える。本当に殺すつもりならより強力なものを使い窒息死させるか、そもそもそれ以外の方法で犯行を行うはず。

 ということは、現段階で可能性として高いのは犯人がここの関係者、あるいはここに保管されている何らかの情報の奪取が目的、この二つ。

「防犯カメラは?」

「ご丁寧にビルの玄関と裏口、エレベーター、このフロア全て破壊されている」

「周到だね……」

 二木は呆れたように肩を竦めながら天井のある一点を指差した。その先にあったのは二木の言う通り外部から壊された防犯カメラだった。何か鋭いものに突き刺された壊され方をしてしており、それ以外の壊された防犯カメラを見ると、全て一撃で同じ壊され方をしている。

 犯人のあまりの徹底振りに明日香はおろか、加里奈も若干引いている。そして、不意に何か疑問に思ったのか、明日香は同行している刑事二人にその疑問をぶつける。

「そういえば、犯人はどうやって逃げたの?」

「正面玄関は大通りにあるので、裏口だと思います……」

 明日香の疑問に真っ先に答えたのは春原の方だった。歯切れ悪く答えていることから今話した推測は、まだ確証はないのだろう。春原の話した通り、このビルの正面玄関は大通りに向いている。部屋の監視カメラを全て壊した犯人がわざわざ人目に付く逃走ルートを選ぶとは思えない。そのため、春原の推測は筋が通っている。しかし筋が通っているだけで、現実性があまりない。

 このビルは様々な企業がそれぞれフロアを持っている。当然一階も。今日は平日で、犯行が行われた時間には、このビル内にはそれなりに人がいたはず。裏口から逃げるにしても彼らから目撃されることなく外に出るのは至難の業。自分が通るところの防犯カメラを全て壊すような人間が誰かに見られるリスクが高い逃走ルートを選ぶだろうか。

 そんな疑問が頭によぎり、戒斗は春原に訝しげな視線を送る。その視線に気付いた二木が戒斗に向き直った。

「何か言いたいなら、言ってもいいぞ」

「もしかしたら――」

『まだ逃げてないかもしれないわよ』

「っ⁉」

 戒斗の台詞を奪い、ルナが話した内容に刑事二人組は驚き目を見開いた。

「どういうことだっ⁉」

『裏口がある外壁の屋上近くの防犯カメラ、壊されてないわよ』

 鬼気迫る勢いで戒斗の肩を掴んでくる二木を全く気にしない様子で、ルナは戒斗が左手首に身に着けているブレスレット型の端末を介して空中にホロウウィンドウを映し出した。そこに映っていたのは、このビルの裏口を上から見下ろしている映像だった。

「何勝手に防犯カメラにアクセスしてるんだっ!」

『そんなのはどうでもいいでしょう。それより……この映像を見るに、今日の六時から現在時刻まで誰も裏口を通っていないわね』

 再び大声を上げる二木を流れるように完全スルーしてルナは続きを話した。

 ルナは映像をかなりの倍速で流して見せるが、そこに人影は全く映っていなかった。映像が早すぎて見えなかったのではなく、本当に動く影すら映っていない。これは春原の推測を完全に否定する証拠となっている。

 本来、管理者の許可なく防犯カメラにアクセスすることは犯罪なのだが、戒斗たち三人は誰一人苦言を呈することはなかった。代わりに二木が戒斗に向かって怒っているが、これを行っているのは戒斗ではなくルナなので、何を言われても涼しい顔をしている。

 このフロアにいる他の警察関係者は二木の大声を聞き、何だ何だと集まって来た。その視線と戒斗の顔を見て冷静さを取り戻したのか、二木は深呼吸した後、落ち着いた口調で話し出した。

「はぁー、まぁ、いい。それで?犯人はどうやって逃げたんだ?」

「そんなの、窓しか――!」

 戒斗が路地側にある窓の外に目を向けたそのとき、視界の中に動く小さな黒い影が映った。

 その直後、戒斗は走ってその窓まで行き、窓を全開にする。戒斗はその窓の縁に脚をかけ、身を乗り出そうとする。

「お、おい……!何する気だっ⁉」

 突然走り出し、今にも窓から飛び降りそうにしている戒斗を見て、二木は慌ててそれを止めようとする。しかし、その言葉を無視して戒斗はそのまま窓から飛び降りた。そして、その背中を追うように明日香も窓から飛び降りて行った。

「あっ、おい⁉ここは七階だぞっ⁉」

 二木がその言葉を言う頃にはもう戒斗と明日香の姿はなく、止めようとした言葉は空しく部屋に響いた。春原はというと、口を開けていなかったが言葉を失うほど驚いていた。

 その場に残された加里奈は小さくため息をつき、窓から飛び降りた二人を心配していない声で二木と春原に声をかける。

「大丈夫ですよ。ルナがついてますし、それに……」

 加里奈の視線の先には、フックショットを使い近くの建物に乗り移っている戒斗と明日香の姿があった。

「二人とも、この程度で怪我なんてしませんよ」

 加里奈は心配するなと言わんばかりの落ち着いた声で二木と春原を落ち着かせようとする。その瞳には心配ではなく呆れが宿っていた。


 ビルの七階の窓から飛び降りた直後、戒斗は右腰にしまってあるフックショットを取り出し、フックを近くの建物の屋上に向かって射出する。フックは狙い通りの場所に引っ掛かり、戒斗の身体は自由落下から振り子運動に切り替わった。

 屋上に対してワイヤーが九十度を超えたタイミングでフックを外し、慣性の法則に従って戒斗の身体は前方の建物の屋上に投げ出される。戒斗は身体を横に転がし勢いを殺し、数回転がった後即座に身体を起こし、走る姿勢に切り替えた。

 戒斗はそのまま建物の屋上を伝いながら視界の奥にいる黒い人影を追って行く。

(まったく……本当に使うことになるとは……)

 心の中で小言を吐きながら戒斗は建物と建物の間を超えるため、大きくジャンプする。

 〈幻想師〉の身体はそうではない人と比べて丈夫。専門の研究者曰く、「体内にあるエレジーが脳だけでなく、肉体そのものにも影響を及ぼしている結果」ということらしい。そのため、一般人なら怪我しかねない衝撃を受けてもある程度までは耐えられる。また、筋力や敏捷性、跳躍力といった身体的な能力値も一般人より高い。高いと言ってもせいぜい一・五倍前後で、これは個人差がかなりある。

 つまり〈幻想師〉であり、普段から鍛えている戒斗ならこの程度の距離を単純なジャンプで飛び越えることができる。戒斗は苦も無く建物と建物の間を飛び越え、屋上を走り、それを繰り返す。

 明日香も戒斗と同じようにフックショットを使い、戒斗の後を追っている。

 戒斗はふと前を見ると、視界の先で追っている黒いヘルメットに黒い革ツナギを着た人影が建物の下へと消えた。革ツナギは身体に張り付くため体格が外見から見え易いはずだが、戒斗の目に映った人影は外見から性別を判断することができなかった。

「ルナ、ルート検索!」

『言われなくてもやるわよ』

 戒斗はどこにも映っていないルナに向かって叫ぶと、左手首のブレスレット型端末からホロウウィンドウが現れた。そこにはマップが表示されており、右下には小さいルナの仮想アバターが映っていた。

『二十メートル先、左折。戒斗はそのまま屋上を伝って、明日香は下に降りて地面から追いなさい』

「了解」

「分かった」

 戒斗と明日香は何一つ文句を言うことなく、ルナの指示に従い、明日香は建物の突起物やフックショットを利用しながら地面に脚を着け再び走り出し、戒斗は連なる屋上を走り続けた。

 普段ならルナから指示されると、戒斗と明日香の口から文句の一つや二つ出てくるのだが、今はそれが出ることがなかった。普段のルナはからかうことが多いが、こういったシリアスな場面や本当に重要な場面ではそれが決してない。AIとしての能力を最大限生かして戒斗と明日香に協力すること、それが鎖那によってルナのプログラムに刻まれた基盤となるルール。

 明日香の左手首にも戒斗のと同じブレスレット型端末が付けられており、映し出されているホロウウィンドウも同じ。マップには戒斗と明日香の現在地、追っているターゲットの現在地が三次元的に表示されている。

 ターゲットは大通りに足を向けることなく、入り組んでいる路地を使いながら逃走を続けている。迷いなく走っているが、これが想定されていた逃走ルートなのか、はたまたアドリブで逃げているだけなのかは分からない。

 そのままルナの指示に従い、氷上兄妹がターゲットを追いかけ続けることおよそ一分。

『三十メートル先、右折。――っ!その先にバイクがあるわ!』

「チッ!」

 驚きが混じったルナの報告に戒斗は舌打ちをしながらも、今出せる最大速度でターゲットが向かう先に走って行く。

 明日香がルナが指示した角をできるだけ速度を落とさずに曲がると、その先にはターゲットがヘルメットを被り、バイクに跨っていた。左脚はステップの上に乗っており、今すぐにでも発進しそうな様子。

(させない……!)

 明日香は両脚に急ブレーキをかけ、後ろ腰にある小太刀を右手で逆手で抜刀する。小太刀を正面に持っていきながら順手に持ち替え、身体が止まるのと同時に投げナイフのようにターゲットが跨っているバイクの後輪タイヤに向かって投擲する。

 その瞬間、轟音を立てながらバイクが発進した。小太刀は見事に後輪タイヤがあった空間を通りはしたが、その頃にはもう後輪タイヤはなかった。小太刀は空中で何にも当たることなくカランと音を立て、アスファルトの地面に落下した。

 そのすぐ上の屋上に到着した戒斗は右手をブレザーの下の左脇に伸ばし、ハンドガンをホルスターから引き抜く。流れるようにハンドガンを構え、ターゲットに照準を合わせる――が、引き金を引くことはなかった。

 セーフティを解除していなかったという訳ではなく、すでにターゲットが乗ったバイクは車が多く通っている道路に出ていた。戒斗が今引き金を引けばターゲットが乗っているバイクに当たるだろうが、関係ない民間人に銃弾が当たるかもしれないし、周囲への被害が甚大になりかねない。戒斗はそう考え、引き金を引けなかった。

「……ルナ、追えるか?」

『無理ね。ナンバーが登録されてない。街路カメラがあるところまでなら追えるけれど』

「なら、そうしてくれ」

『了解よ』

 ルナはそれだけ言うとホロウウィンドウと一緒に声も消えた。

 戒斗の目はターゲットが逃走した方向を見ており、その目は悔しそうな思いがこもっていた。ハンドガンを握る力が強くなったがそれも一瞬で、構えを解き静かにホルスターにしまった。

 対してアスファルトの上にいる明日香は自分が投擲した小太刀を回収し、鞘に戻した。そのとき、明日香の目に鈍く光る何かが映った。

「ん?」

 明日香は屈み、その何かを拾った。それは金属製のチップと思われる形状をしていた。しかし、明日香が知っている見た目ではなく、一昔前のような見た目をしていた。

「……?何これ?」

 手に持ったその金属製のチップをしばらく眺めた後、何かに使えるかもと思い、明日香はそれをブレザーの内ポケットにしまった。

 戒斗は屋上の柵にフックショットのフックをかけ、クライミングの逆の要領で地面に脚を着けた。フックを引き戻し、フックショットを右腰のホルスターにしまった後、戒斗は明日香の顔を見る。すると明日香は、何ともないような顔をしていた。

「戻ろうか」

「……うん」

 明日香は戒斗の提案に頷き、二人の兄妹は飛び降りたビルへと足を向けた。

 戒斗の後を追う明日香の握る右拳は力んで微かに震えていた。


 戒斗と明日香がビルの七階の窓から飛び降りた直後。

 「はぁー、仕方ない。……春原、ここの管理者に連絡して屋上付近にある裏口を見下ろしている防犯カメラの映像、こっちに寄越すように言っとけ」

 右手で後頭部をかきなながら、二木は呆れたようにため息をつき、春原に上司らしく命令した。春原はそれに素直に従い、加里奈に軽くお辞儀した後、今いる部屋を後にした。

「なぁ、あいつらが出て行ったのは犯人を追いかけるため、でいいんだよな?」

「えぇ、そうだと思います」

「なら、戻ってくるまで待つしかないか……」

 心の底から本当に呆れているようで、二木は今日一番の大きいため息をついた。

 二木と加里奈がいる部屋の外には、もうすでに集まって来ていた人だかりはなくなっていたが、実習訓練一行がこの七階のフロアに入ったときよりも騒がしくなっていた。

 たとえ〈幻想師〉だとしても、七階という高さから命綱なしで飛び降りる人などこの世を探してもいるかどうか。そんな人が間近にいたのだから、平静でいられるはずがない。驚きと心配の声で溢れていたが、戒斗と明日香が別の屋上に着陸している姿を見えていいた人がいるらしく、一分も経たない内に騒々しさがなくなり、各々が仕事に戻って行った。

 そんな中、部屋に一人のスーツを着た男性の刑事が入って来た。

「二木警部補、こちらを――」

 そう言ってその男性の刑事が二木に手渡してきたものは、成人男性の手のひらの二倍はある大きさのタブレット端末だった。そこには何かのデータが折れ線グラフで表示されていた。

「犯行があった時間帯に外部からの干渉があり、一部の空調システムがAIの管理下から外れていました」

「……なるほど。これが原因で酸素濃度低下にシステムが反応しなかったのか」

 今までのぶっきらぼうな態度とは違い、いかにも刑事らしい態度を二木は取っていた。意外と言ったら失礼に当たるかもしれないが、本当にそう感じるとほど二木の態度の変化にギャップがあった。

「それから、こちらも」

 続いて同じ男性の刑事が、今度は透明なビニール袋を二木に手渡してきた。その袋の中には細長い銀色の釘が三本入っていた。

「……これは?」

「壊された防犯カメラに突き刺さっていました。カメラ一つにつき一個ずつ刺さっており、これで防犯カメラを壊したと思われます」

 二木は手渡された釘をビニール袋越しにまじまじと見た後、この部屋にある防犯カメラに目を向けた。離れていると見えにくいが確かに壊れているカメラの中にキラリと光る金属の棒のようなものがある。

「なるほど……どうりで薬莢もない訳だ」

 防犯カメラを覆うガラスと防犯カメラ本体の壊され方から見るに、細長い物体が高速で刺さった結果、防犯カメラが壊れたと考えられた。そのため、二木は最初、防犯カメラをサプレッサーが付いたハンドガンなどで壊したものだと考えていた。

 しかし、このビルの中に薬莢が落ちておらず、不思議に思っていた。それが釘の証拠品を見せられて、ようやく合点がいった。

「釘打ち機を改造したものか、〈幻想〉を使って防犯カメラに当てた、ということですか?」

「ああ、おそらくな……」

 釘を手で投げ高速で飛豹させ、レンズのガラスとカメラを構成する金属を貫通するほどの威力は人間では出せない。それがたとえ〈幻想師〉だとしても。加里奈の言う通り、大工などが使う釘打ち機を改造したものならば数メートル程度は真っ直ぐ飛ぶだろう。空気を操作する〈幻想〉ならば一層簡単にそれができる。

 被害者が酸欠で倒れていたのを考慮すると後者の方が可能性として高いが、まだ断定はできない。

 そこまで話したタイミングで、春原が部屋に戻って来た。

「防犯カメラの映像、すぐに警察本部に送るそうです」

「分かった。……さて、遅いな。もしかして捕まえたのか?」

 春原の報告を聞き、二木は暇を持て余すかのように戒斗と明日香が飛び降りた窓をチラリと見る。するとその数秒後、エレベーターが鳴り、その中から二人が出て来た。

 その姿を見て周りにいた刑事や鑑識が騒めき出す。その騒めきはすぐに二木たちがいる部屋まで伝わり、二木が真っ先に気付く。

「ん?外が騒がしいな……」

 そう言って部屋の外の様子を見に行こうと二木が部屋のドアに近づこうとすると、その前にドアが開いた。そして、そこにいたのは数分前に窓から飛び降りていった戒斗と明日香だった。

「意外と早かったね」

 二人のその姿を見て真っ先に口を開いたのは加里奈だった。

「それで、どうなったの?」

「……逃げられた」

 問い詰める訳でも、怒っている訳でもなく加里奈は優し気な声で戒斗にその後どうなったのか聞いた。それに対して戒斗は小さくため息をつくかのように答えた。

「登録されてないナンバーのバイクで通りに出られたからな、そっから先は……」

「……そう」

 戒斗は肩を竦めながら話し、明日香と一緒に部屋に入った。

「でも、収穫はあったよ」

 落ち込んだ空気の中、明日香は元気そうにブレザーの内ポケットから金属製のチップを取り出した。それは戒斗と明日香が追っていた人物がバイクを置いていた場所で、明日香が偶然拾ったものだった。

 明日香の手の中にある金属製のチップを見て、二木が迫るように明日香に近づいた。

「これは……?」

「追ってた人のバイクの近くに落ちてたもの」

 褒めて欲しそうな態度を取りながら明日香は金属製のチップを二木に渡した。その様子を見て戒斗は微かに微笑んでいたが、加里奈はほんの少しだけ曇った顔をしていた。

 加里奈の目には明日香が空元気、つまり無理して元気そうな、明るそうな雰囲気に他者から見えるように演じているように映っていた。犯人を追っているときに何かしらあったのだろうが、加里奈はそれを知らないし、戒斗の様子を見る限り戒斗も知らないのだろう。何か言葉をかけたいという思いは加里奈の中にあったが、それを実行することはなかった。

「これは……旧式か?見たことがないな」

『それは二十年ほど前に多く流通していたタイプよ』

 受け取った金属製のチップを見つめながら二木が疑問を呟くと、それに答えるようにルナの声が戒斗のブレスレット型端末から聞こえてきた。

「いきなり出てくな……それより、追っていたバイクは?」

『商業地区辺りまで追えたのだけれど、そこから先は見つからなかったわ。そこに行ったら何かしら分かるかもしれないけど』

 ルナがこちらに戻って来たということは犯人を追うのに限界がきた、ということ。戒斗はその結果をルナに聞いたが、犯人を逃がした場所でルナが言っていた通り、結果的に最後まで追うことは無理だったらしい。それでも途中まで追えていたのだから、手掛かりとしては十分なものだろう。

「その場所とバイクの見た目、こっちに送ってくれないか?」

 ルナの金属製のチップの説明よりも、犯人の手掛かりの情報の方に関心が向いたらしく、二木がルナがいるであろう戒斗のブレスレット型端末に向かって話しかけた。刑事として、そちらの情報の方が必要と判断した結果の選択。

『構わないわよ。今、貴方の端末に送るわね。それと……何か報酬は無いのかしら?』

 情報を受け取るため、二木が自分の情報端末を取り出そうとしたとき、ルナから予想だにしない言葉が出てきた。二木はその動作を思わず止めてしまった。その後すぐに立て直し、少し考えてから口を開いた。

「……金銭や情報は無理だが、それ以外なら」

「っ!いいのですか……⁉」

 二木の返答に今まで冷静沈着を貫いていた春原が動揺を見せた。春原の中では、この返答は想定外で、驚くものだったのだろう。

「ああ、構わない。俺らじゃ見つけることすらできなかったんだ。それ相応の報酬はあって然るべきだろ」

 どうやら二木という人物は自分の仕事や階級よりも、筋を通すことを重視している人間らしい。それもかなりいい塩梅で。前者を重視する者ならルナの要求はきっぱりと断っていただろうし、後者を重視し過ぎているのならこの場の指揮を取るほどの階級まで昇進していないはず。その人間性から戒斗の中で二木の評価が上がり、信頼に値する刑事になりつつある。

 知らないところで二木の株が上がっている一方で、二木の言葉と態度に何を言っても無駄だと悟ったのか、春原は大きくため息をついた。

「……はぁー、分かりました。後で課長に怒られても知りませんよ」

「そんなの、構いやしない」

 普段からの苦労が垣間見える春原の小言を、二木は特に気にしない様子で流した。最初、正反対な部類の人間同士がよく付き合っていられるなという印象だったが、こうして見ると相性はいいのだろうと思えてきてしまう。

『それなら、この事件に最後まで関わらせて。この三人を』

「っ⁉そう来たか……」

 二木はルナの要求に目を見開かせ、唖然とした様子で反笑いになっている。見えていないだけで冷や汗が垂れているかのような引き具合をしている。

 春原は無論ながら、当事者である学園組の三人も驚いている。まさかルナがこういった要求を出してくるとは、長い付き合いの戒斗と明日香でさえ思いもしていなかった。

『戒斗、それに明日香。悔しくないの?その気になれば貴方たち二人でも、捕まえられたでしょう?』

「……」

 ルナの真っ直ぐな問いかけに押し黙る明日香。戒斗は表情を一切変えず、悔しさと焦燥が垣間見える明日香の横顔をそっと優しい目で見つめた。

 戒斗はビルに戻るときから明日香の様子がおかしかったのは感じ取っていたが、明日香の中でどういう感情が渦巻いているのか分からなかった。それがルナの言葉によって、戒斗に分かるぐらい表に出てきた。

「……悔しいよ」

 ルナの言葉を噛みしめるように時間をかけ、明日香の口から出てきた言葉がこれだった。犯人に逃げられたという悔しさではなく、自分の力不足や判断不足といった自分自身への悔しさ――自責の念に駆られている。

 そんな今にも潰れそうな明日香の頭にポンと軽く手を乗せる戒斗。その顔には笑みが浮かんでおり、慰めているように見える。自分の頭の上に手が乗っている感触を感じ、明日香は隣にいる戒斗の方を向くと、明日香の顔や雰囲気が少しだけ穏やかになった。

 そんな明日香の様子や兄妹愛を見せられては、二木と春原はルナの要求に対して何も言い返せなくなり、黙ってしまった。加里奈はというと、怪しいながらも少しだけ呆れたような視線を目の前の兄妹に送っていた。

「……分かった。上に言うだけ言ってみる。許可が下りなくても、文句は言うなよ」

 目の前の光景に押された結果、二木の方が先に折れ、ルナの要求を受け入れることにした。この返答に春原はまたしても文句や小言を言うかと思いきや、何も言わず見過ごしていた。明日香や戒斗に何かしら思うところがあったのだろうか。それとも自分の中の何かと目の前の兄妹を重ねたのだろうか。感傷に浸っているようにも見えた。

『なら、交渉成立ね』

 ルナがそう言うと、二木が持っている情報端末が鳴った。

 二木が自分の手の中にある情報端末を見ると、位置情報と数枚の写真が送られてきていた。どうやら二木が要求を呑むまで、自分が持っている情報を渡さないでいたようだ。「今送る」と先に言っておきながらそういうことするのはどうかと思うが、これがルナの常套手段。見返りや利益が自分の手にくることが確定しない限り、自分が持っている交渉カードを相手に渡すことはない。

「……ん、確かに受け取った」

 ルナから送られてきた位置情報と写真を直接目で確認し、二木は情報端末を懐にしまった。

 やっと一段落着いたところで、またしてもルナが新しい情報を話してきた。

『ハッキングのログ、確認できたわよ』

 戒斗は自分が付けているブレスレット型端末に視線を向け、ルナの台詞にツッコもうとしたがそんな気分ではないため、周りに聞こえないほどの小さいため息をついただけで終わった。

「……それで、何が分かった?」

 二木も戒斗と同様でルナに文句を言うのを諦め、話を進めることにした。

『犯人はこの場所以外にある倉庫を探していたみたいね』

「倉庫……?」

 ルナの言葉に思わずオウム返しをしてしまう二木。

 このフロアを借りている企業はIT系。外部に倉庫を持つことがあり得ないとは言わないが、持っているケースはほとんどない。このフロア内に倉庫は存在しており、そこには物を置くことができるスペースがまだ十分にあった。わざわざ経費を使ってまで外部に倉庫を持つメリットが見当たらない。

『ええ、中に何があるかは知らないけれど、確かな情報よ』

 空中に出された数枚のホロウウィンドウにはハッキングのログ以外に、ここの企業が所有している倉庫の位置とその場所が表示されていた。倉庫の数は全部で三つ。いずれもかなり小さい倉庫で、中型のコンテナほどの大きさしかない。

 大きさはともかく、思ったよりも所有している倉庫の数が多かったため、二木は少し顔を歪ませた。これからの捜査が大変というのもあるが、何故同じような大きさの倉庫を複数用意しているのかという疑問が強かった。

 大きい倉庫を一つ借りた方が金銭的にも余裕が生まれるだろうし、何より管理が楽。今ある情報だけで見ているため偏見かもしれないが、二木はデメリットしかないと思えてしまう。メリットがあるとしたら、物理的に隠しておかなくてはならないものを隠している場所を悟られないようにすることぐらいしかない。

『流石に目的の倉庫がどれかは分からないけれど……、そのチップを見たら分かるかもしれないわよ』

「でもそれ、二十年くらい前のものって言ってなかった?」

 チップの中を今確認できるのかというニュアンスで加里奈がルナに問いかける。

 二十年も前のものなら、型落ちもいいとこ。中のデータを確認するだけでもその時代にあった機械が必要になる。だがそんなものはこの場にいる者全員持っていないし、こんな真新しい内装の企業が持っているとは思えない。

 そんな疑問を持っている加里奈を余所にルナは話を続ける。

『そうよ。戒斗――』

「分かってる。チップを」

 戒斗は二木に向かって右手を差し出す。手のひらを上にし、渡して欲しいというポーズを取っている。二木は何も言うことなく懐にしまっていたチップを戒斗に手渡す。

 チップを受け取った戒斗はそのチップを右の手のひらに乗せたまま、左手首の下に持っていく。ブレスレット型端末の小指側に付いている小型カメラをそのチップを向けると、カメラから出たライトでチップが照らされた。

 それから十秒ほど経過し、ルナが再び話し出した。

『位置情報しか入ってなかったわ。暗号化されていたけれど』

「その場所は?」

『そう焦らなくても言うわよ、それくらい。場所は――幻廊府管轄の第三保管庫ね』

「「「「「――っ!」」」」」

 ルナの言葉にこの場にいる全員が驚き、緊張を走らせた。

 幻廊府はこの社会において内閣、国会に次ぐ組織であり、日本に国籍を置いている全て〈幻想師〉を管理している、国内で最も重要と言っても過言ではない機関。〈幻想師〉を育成する機関は無論ながら、自衛隊や警察までにも影響を及ぼすことができる権力を持っている。トップは一人ではなく複数人で成り立っており、組織内の権力は分散しているため、独裁的にはならないようになっている。

 そんな組織が直接管理している保管庫の位置情報がチップに入っていたとなると、この事件は警察の手に余ってしまう。勿論、このチップとこの事件が関係していない可能性もゼロではないが、犯人のバイクの近くに偶然落ちていたというのは話として出来過ぎている。関係性はあると見た方がまだ納得がいく。

「さて、どうしたものかね……。課長は当然として、幻廊府に連絡しないと……。考えただけで疲れてきそうだ」

 この場に張り詰めた緊張を最初に破ったのは二木だった。二木は疲れているような態度で何やらぼやきつつ、遠い先を見ていた。しかしそれも束の間、すぐに態度を戻し、戒斗の手のひらの上にあるチップを取り上げた。

「これは警察こっちで処理する。取り敢えず、……今日は解散で」

 二木はチップを袋に入れた後懐に入れ、手を軽く二回叩いた。

 二木は当初、この事件の説明を学園から来た三人にして、今日は帰らせるつもりだった。実習訓練で来ている以上、何かしらの戦闘に関わらせるべきだが、事件の詳細を聞かずにすぐにそれをやらせるのは二木の理念に反していた。だからこそ、三人をこの事件現場に連れて来た。

 その当初の予定とは違ったものの、今ここでできることはもうなくなってしまったため、学園から来た戒斗と明日香、加里奈はここから帰すべき。二木と春原もすぐにでも警察本部まで戻って報告しなくてはならない。

「分かった」

 二木の心の中を察したようで戒斗は二木の言うことをあっさりと受け入れた。明日香と加里奈も同様に受け入れてこの場を後にしようとするが、すぐにその脚が止まった。

「ねぇ、これはどうするの?」

 明日香が振り向き自身の右腕に付けているワッペンを指差した。事件現場に入るからという理由で渡されたものだが、この場を去るならもう必要ないもの。渡されるとき、なくされては困る言われているため、家に持って帰って管理するなど面倒くさい。

 明日香が言ったことで戒斗と加里奈はそのことを思い出し、明日香と同様その場に止まり、二木と春原の方に振り返る。

 当の二木はワッペンのことなど忘れていたらしく、明日香の台詞に対しての反応が半拍遅れた。

「あ、ああ。……春原に渡しといてくれ」

 戒斗たち三人は二木に言われた通り、ワッペンを右腕から取り、それぞれ春原に手渡した。

「それじゃ、何か進展があったら教えてくれ」

 戒斗はそれだけ言って頭も下げずにエレベーターに向かって行った。明日香は軽く手を挙げただけで、しっかりと頭を下げたのは最後に部屋を出て行った加里奈だけだった。

 そして、さっきまで騒がしかったのが嘘のように部屋の中は静まり返っていた。

 最初からそうだったが、相も変わらず最後まで戒斗がため口だったことをぼやきながら、二木はふと思う。予定を変えてでも氷上戒斗と明日香、岩刀加里奈の三人をこの事件に関わらせて正解だったと。

 実習訓練の話が来たとき、本当は学園から来た生徒たちを警察本部で待機させ、事件があればその生徒たちを連れて現場に向かう、という話になっていた。しかし元々やっていた仕事の延長、今すぐ事件現場に来て欲しいという要請もあり、その予定をすっ飛ばして実習訓練に参加する生徒を道中で拾い、ここまで来た。

 事件の内容を聞いて〈幻想師〉が関与している可能性が高いと判断した、というのも理由の一つ。実際ここまでの証拠や状況から〈幻想〉が犯行に使われたことは確かだと思われる。

「……さて、俺たちも本部に帰るか」

「はい」

 二木と春原はこのフロアにいる人に軽く挨拶だけしてエレベーターに乗った。


 雲が僅かにある青空に煌々と地面を照らす太陽が西に少しだけ動いたとき。戒斗と明日香、加里奈の三人は氷上家のリビングにいた。

 事件現場のビルを出たとき、目の前に今朝学園から集合場所に向かったときに乗っていた車があった。代金を学園に支払わせる前提で、タクシーを捕まえようと画策していた矢先の出来事だった。もしかしたら、戒斗のその思考を読んだ上で智恵が先手を打ったのかもしれない。

 三人はその用意された車に乗り、真っ直ぐ学園に戻った。戒斗と将太の決闘からまだ二日しか経っていないのもあり、騒がしくなるのを避けるために学園の外にある飲食店で昼食を取った後、揃って氷上宅まで来た。入った飲食店はいつものレストランが混んでいたため、別のチェーン店だった。

 余談だが、戒斗たちが学園からの行き来に乗った車には運転手が乗っておらず、搭載されているAIがナビも含め運転している。車に乗る人は行き先を指定するだけで、運転免許がなくてもその場所に車で向かうことができる。今回の場合はその行き先が最初から指定されていた。

 食後にと、用意したカフェオレを飲み、戒斗たち三人は休息を取っていた。スクリーン型の端末の正面にあるソファの左に戒斗、右に明日香、その横の壁に対して垂直に置かれたソファに加里奈が座っている。

「……ふぅ。そういえば、何で犯人はあんなすぐ近くにいたんだと思う?」

 加里奈は午前中のことを思い出し、少し疑問に思っていたことを口にする。それに対して真っ先に反応したのはルナでも戒斗でもなく、明日香だった。

「あれじゃない。火事場泥棒は現場に帰ってくるってやつ!」

 戒斗は明日香の台詞に少しだけ「おぉ……」と思い、右隣に座っている明日香に目線をチラリと送る。ルナに悔しくないのかと問われたときと違い、裏表なく元気そうに見える。そのことに戒斗は兄として安心し、思わず笑みが零れた。

「何笑ってんのー?」

 戒斗が顔に笑みを浮かべているのを見て明日香は愛らしく片頬を膨らませる。

「……いや、別に。珍しく的を射ているな、と思っただけ」

 笑みを零しながら茶化すように戒斗は明日香に追い打ちをかける。明日香は膨らませる頬を片方から両方に進化させ、戒斗の右脚を割と強めに蹴った。戒斗は右ももに痛みが走り思わず身日を閉じ、その痛みを堪える。

 痛みから解放されたところで、戒斗は話を続けようとする。

「そもそも、見つかるのは想定外だったんじゃないか?」

「?どうして見つかるって分かったの?」

 戒斗の台詞に?が出る加里奈。

 戒斗たちがいた部屋の窓は閉じられていて、上下階――六階と八階には警察が確認するため一時的に人払いをしていた。そんな状況で七階の部屋の中にいる戒斗たちの会話を聞き取ることなどできないはず。戒斗の視線が自分がいる方向に向いたからという理由だけで犯人がその場から逃走する、というのは考え難い。

『部屋の中に盗聴器が仕掛けられていたからね』

 加里奈の疑問への答えは戒斗ではなく、スクリーン型の端末に当然のように現れたルナだった。

「盗聴器?警察がいたからそんなもの、見つかっていたはずでしょ?」

『残念ながらそうでもないのよ。かなり小型のものだったし、上手く偽装されていたからね』

 ルナはスクリーン型の端末に何かのボタンのようなものの三次元投影図を映し出した。構造はシンプルで簡易的なものだということが分かる。

『サイズは小指の爪と同じくらい。電源が繋がっている端末に付けて盗聴するタイプね』

 ルナの言う通りなら警察が見つけることができなくても仕方ない――とも言えなくもない。警察なのだから見つけるべきなのだろうが、警察は人間である以上、万能ではない。現場はAIを使って調べていたのだから、AIですら見落としたものを人間が見つけるなど無理がある。

 AIの目を誤魔化すことができていたということは、最新型のものなのだろう。そんなことができる盗聴器など戒斗は聞いたことも見たこともない。そんなものをAIであるルナが見つけたのだから、ルナのスペックは一体どうなっているのたら。

「……壊したんだよな?」

『勿論よ。付いている端末経由で中から壊したわ』

 またバレないようにハッキングしていたという事実が発覚した訳だが、それをツッコむ人間はこの場にはいない。この場にいる三人にとってルナが何の許可なくハッキングするのは当たり前に近いものなので、誰も気にしていない。

「でもさー。盗聴器を仕掛けたなら、何であんな近くにいたの?」

 明日香の疑問はごもっとも。盗聴器は離れた場所から安全に人が話している内容を聞くためのもの。近くにいてはそのメリットを消しているのも同然。

『そんなの、私が知る訳ないでしょう?』

 しかし、明日香の疑問はルナによってバッサリと斬り捨てられてしまった。あまりの返答の早さにあんぐりと口を開けてしまう明日香。ルナが知らないのなら戒斗や加里奈が知る訳もない。

 ルナの辛辣な言葉に呆気に取られている明日香を横目に戒斗は話題を別のものに移す。

「……ルナ、第三保管庫には何があるんだ?」

 事件現場の部屋でルナが言っていた、明日香が拾ってきたチップのに入っていた情報。暗号化されていたらしいが、そうまでして隠されていたのだから、その第三保管庫にはチップを所有していた者、あるいは組織にとって何か重要なものがあると見て間違いない。

 二木が幻廊府に連絡しなければならないとぼやいていたため、戒斗たちの事件の対応への許可が下りれば、二木の方から第三保管庫の中の情報について伝えてくる可能性は少なからずある。そうなるとしても、早め知っておいて損はない。

『先に言っておくけれど、口外禁止よ。……中にあるのは〈アースガルド〉から来た武器ね』

「幻廊府によくアクセスできたわね……」

 前置きがあったものの、さも当然かのように幻廊府が管理しているはずの情報をペラペラと言ってのけるルナに、加里奈は呆れてルナを見る目がジト目になる。幻廊府のセキュリティはかなり強固になっており、一流のハッカーですらハッキングすることができないと言われるほどのものなのだからこの反応は板しかない。

 加里奈は知らないが、ルナを生み出した張本人である鎖那は幻廊府の最高幹部。その鎖那を経由して知り得た情報なのだろうと戒斗は判断した。

『かなり特殊な武器よ。何でも、〈幻想〉の発動の阻害をできるらしいわよ』

「えっ⁉」

「っ!そんなものあるの⁉」

「…………」

 ルナの言ったことに目を見張るほど驚く明日香と加里奈。それに対して戒斗は何一つ顔色を変えることなくカフェオレを飲んでいた。まるで〈幻想〉の発動の阻害をできる武器が存在していることを最初から知っていたかのように。

 驚いている加里奈の視界に自分たちと全く違う反応をしている戒斗が映り、すぐに冷静さを取り戻した。そして、加里奈はその戒斗に訝しげな視線を送る。

「……戒斗、ルナが今言っていた武器について知ってたの?」

 声色も疑いのものに変わって空気が怪しくなる。疑問ではなく疑いが強くなっていることを感じ取り、間に挟まれた明日香はハラハラとし出す。一触即発、とまではいかないものの、それまでの和やかな空気から一変し少しばかりの緊張が走っている。

 その空気の変わり様に物ともせず瞬きを数度するほどの時間考えた後、戒斗はようやく閉ざされていた口を開いた。

「……いや、実際に存在することは知らなかった。ただ……」

「ただ?」

 空気の張り詰め度合いが増し、明日香の顔に冷や汗が浮かび出した。

「ただ、〈幻想〉の大元のエレジーが〈アースガルド〉から来ている以上、〈アースガルド〉にはそれに対抗できる何かしらのものがあると考えられるから、推測はできていた」

 〈アースガルド〉にある兵器や武器はエレジーが存在している環境でできたもの。エレジーを利用するものもあるだろうが、同時にそういったものに対抗できるものも存在している可能性が十分にある。こちらの世界で言う銃火器と防弾性の防具や装甲車と同じような関係性。

 エレジーを利用する兵器や武器に効果があるのならば、エレジーが基でこの世界に具現化している〈幻想〉にも効果があるはず。効果の度合いは違うかもしれないが、その可能性が全くない、ということはないはず。

 戒斗の言ったことを瞬時に理解し少し考えた後、加里奈は再び戒斗に問いただす。

「……それは戒斗の推測?それとも誰かの受け売り?」

 戒斗が話すことの裏には、いつも戒斗の母親である鎖那の影がちらついている。今回もそこに当てはまると加里奈は考えている。今の返答は戒斗らしいと言えばらしいが、その前のルナの言ったことに対しての反応が気にかかる。加里奈はその部分だけ、いつもの戒斗らしくないと感じていた。

「どちらでもあって、どちらでもない。この推測は一部では有名なんだよ」

 戒斗の返答は曖昧であり、真っ直ぐな回答から逃げたようにも感じ取れるものだった。

 そのことに対してまた問いただそうとした加里奈だったが、のらりくらりと躱されそうな予感がしたため、そのための口は噤まれた。

「……そういうことにしておくわ」

 加里奈は諦めと取れる言葉を口にし、戒斗に向ける視線が訝しげなものから優しげなものに変わった。それによって張り詰めていた空気が緩くなり、リビングの通気性がよくなった。その結果、息苦しくなっていた状態から解放されたことで明日香はホッと一息つく。

 加里奈は深呼吸をして気を取り直し、元の話に戻そうとする。

「それで……犯人の目的はその武器の奪取ってことでいいの?」

『その可能性は十分にあるわね』

 それまでの穏やかでない空気を全く気にしていない様子でルナは加里奈の問いかけに答えた。日常的なやり取りではなかったにも関わらず心配の声もなかったのは、ラナなりの気遣いだったのだろうか。

 加里奈に問いただされる前とその最中、そしてその後を通して戒斗は何一つ変わった様子を見せなかった。表情の変化も感情のの起伏もなく、いつもの戒斗らしかぬ態度だった。明日香もそれに気付いていたが加里奈とルナがスルーしたことにより、そのことに対して何か言うことはなかった。

「……でもそれじゃあ、犯人がハッキングで調べた倉庫は何なの?」

 事件現場のビルから学園に帰るまでの車の中で、戒斗たちは状況的に明日香が拾ってきたチップと事件の犯人には関係性があるだろうと話していた。その仮説通りなら、チップは犯人の持ち物であることになる。

 そういうことがあったため明日香の認識では、犯人は第三保管庫に関する目的を達成するために事件があった企業が持っている倉庫の情報を欲していた、ということになっている。しかしそれでは、倉庫のために別の倉庫を襲おうとしているようにしか見えない。

『さぁ?倉庫の中の情報はあそこにあったサーバーにはなかったわ。管理しているところが別なのか、あるいは情報をデータベースで管理していないのか……。予測はいくらでも立つけれど、実際のところは分からないわね』

 明日香は期待を込めてルナに質問したのだったが、その期待は呆気なく空振った。

 今日の実習訓練であったことに関しての話し合いのようなものは、ここで一区切りついた。それからも会話は続いたが全て日常的な話題ばかりだった。


 今日あった事件についての話が一区切りついたときから、およそ三十分前。

 戒斗と明日香、加里奈の三人が氷上宅に着いたとき。

 戒斗のブレザーのポケットにしまってある携帯端末が急に鳴り出し、戒斗はポケットからその端末を取り出した。戒斗は端末の画面を見て一瞬顔を歪めたが、すぐに戻して後ろでまだ靴を履いたままの明日香と加里奈の方に振り返る。

「先に部屋に上がっといてくれ」

「?」

「電話かかってきたから」

 明日香は不思議そうな顔をしたが、戒斗がその手に持っている端末を振って見せたのを見てすぐに理解した。明日香は頷き、二階に上がていく戒斗をチラリと見た後、加里奈をリビングまで案内した。

 戒斗は自室に入るなり机の前に直行し、手に持っている端末を机に置き、机上のモニターに手を伸ばす。モニターの右下に表示されている電話のマークを右手で触れると端末が鳴り止み、モニターが暗くなる。その真っ暗になった画面には中央に“sound only”と表示されていた。

『やっと出たわね!まったく、母親の電話くらいすぐ出なさいよ!』

 モニター越しからの開口一番が、耳がキィーンと鳴るほどの大声で戒斗は思わず顔を顰める。聞こえてきた台詞が少しうざったいというのもあり、戒斗は嫌そうな雰囲気を醸し出し、椅子を引いてモニターから物理的に距離を取ろうとする。

「家に帰ってきた瞬間にかけといて、それはないだろ?」

 氷上家はいざというときに備えて、各々が持っている端末にGPSが入っている。そのため、鎖那は戒斗と明日香の現在地をリアルタイムで把握することができる。戒斗と明日香が自宅に帰って来たタイミングで戒斗の端末に電話がかかってきたのはそのため。もっとも、鎖那のGPSは偶にオフになり、鎖那の現在地が戒斗や明日香からも分からなくなるときがある。本人曰く、「機密事項が多い仕事だから仕方がない」と言っているため反論することができていない。

 実の母親に対してとは思えない口調で戒斗が話したせいか、モニター越しでも分かるほど、物々しさが増したような気がした。

『言うようになったね――』

「っ……それで、要件は?何もないのにかけてきた訳じゃないだろ?」

 第一声の声色が嘘のように感じるほど鎖那の声が低くなり、戒斗は圧倒されかける。それでも何とか冷静さを保ち、戒斗は口調を変えることなく、電話をかけてきた要件を聞き出そうとする。

『……まぁ、そうだね。私も忙しいからね、さっさと本題に入ろうか』

 鎖那は戒斗の言うことにあっさりと頷き、声色が元に戻った。第一声ほどではないが、それでも二人の子どもを持つ母親とは思えないくらい明るい声で話している。幼い頃から近くにいるため、今の鎖那が素の状態なのは理解っている。理解ってはいるが、どうにも裏があるようにしか聞こえない。

 そんなことを頭の隅で考えながら戒斗は鎖那の話に耳を傾ける。

幻廊府うちで管理している第三保管庫。その中には〈幻想〉の阻害をできる武器が幾つかあるんだけど、それを盗られる訳にはいかないんだよね。あー、あと――』

「――ちょっと待て!情報量が多過ぎる……」

 自分たちが知り得た情報を知っているのはともかく、戒斗が知らない情報、それも国家機密に近いものを鎖那がペラペラと言ってきて、戒斗の頭が情報過多でパンクしかける。いくら頭の回転が速いと言っても限度がある。自分の脳の情報処理を何とかするために、戒斗は少しの間無言になった。

 ルナ経由で戒斗たちが知り得た情報を知ったのだろうから、そこは大して問題ではない。問題なのは鎖那がその後に言ったこと。幻廊府の機密情報を身内ではあるが部外者の戒斗に話し、しかもその内容が聞いたこともない武器のことだった。正確に言えば、その武器について戒斗は知っていた。知ってはいたが、それはよくあるネットの書き込みに書いてあり、当時見たとき戒斗は眉唾物だと思っていた。しかし、実際はそれが本当にあった。

『人の話は最後まで聞きなさい!そんな教育をした覚えはないよ!』

「……知らない情報を一度に大量に聞かされる身にもなれ」

 鎖那は話を途中で遮ってきた戒斗に文句を言うが、戒斗はすかさずそれに対して疲れ気味に反論する。身内らしいと言えばらしい言い合いの火を戒斗はすぐに鎮火しようと、鎖那に疑問を投げかける。

「そんな武器、本当にあるのか?」

『あるわよ。保管庫にあるものはほとんど壊れてるけど』

 あっさりと断言してきた鎖那に戒斗は呆れたように顔をやや上げ、数秒目を閉じた。そして思い出した。この鎖那という人物は“躊躇”と言う言葉を知らない、ということを。相手のことや自分の周りにいる人のことを気遣わず、自分が少しでもいいと思ったことはやってのける。そのせいで過去にどれだけ苦しめられたことか。

 つまり、鎖那の言動そのものの理由を気にしていたら精神が疲れ果ててしまう。そうならないようにするためには、こちらも気にしないこと。それしかない。

「……〈アースガルド〉から来たものだから?」

『正解!さすが私の子』

「はぁー。それで、何でそんな情報を教えてきたんだ?」

 今この場において鎖那しか知らないことをヒントなしで戒斗が当てたことが余程嬉しかったのか、鎖那は自慢げに声色を少し上げた。それとも鎖那自身が行った教育の賜物だという認識からくる嬉しさだったのか。

 こういう人間らしいことも時節してくるため、人としての付き合い方がよく分からなくなる。人格が何個もあるのかと思いたくなるほど表面的な感情がコロコロ変わる。これが、戒斗が鎖那のことが苦手な理由の一つ。

 そういったことはともかく、戒斗は鎖那の目的や狙いが知りたい。鎖那が何の理由もなく戒斗が知らない情報を戒斗に教えてくるとは思えない。そんな前例は今まで一度たりともない。鎖那が自分から何かをするということはそれなりの理由があり、その裏に鎖那の真意がある。真意は分からなくとも、理由ぐらいは知っておきたい。

『うーん……。保管庫の防衛中に盗られたときのための保険、といったところかな』

「……」

 鎖那の台詞に戒斗は無言になる。鎖那の口から“保険”という言葉が出てくるということは、それ相応のことが起こる可能性があるということ。鎖那は常日頃から何か行動を起こすときは最低でも一つか二つ保険をかける。ただ、それを自分以外の人に言うことはない。そうではなく戒斗に伝えたということは余程のことであり、戒斗にその保険を担って欲しいということに他ならない。

 武器を盗られた際のための情報だけでは保険として足りない。ならばそれを踏まえた上での全体を通しての保険と考えるべき。

「……つまり、何が何でも敵がすることの妨害をしろ、ということか?」

『まぁ、そういうことだね。――っと、もう時間か。じゃあね!……あ、あとバッチは持ち歩いておいてね!』

「あ、おい!」

 鎖那は言いたいことだけ言って、戒斗が何か言い返す暇もなく身勝手に通話をプツリと切った。後に残されたのは空しい戒斗の声だけ。

 電話をかけ直しても鎖那がその電話を取ることはない。仕方ないという思いで戒斗は小さくため息をついてから、椅子から立ち上がった。下の階のリビングに明日香と加里奈を待たしているため、戒斗は重くなりかけている脚を動かし、自室から出て階段を下りて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る