第3話 結い髪ひとつ、距離がほどけ

夕餉の膳が運ばれ、汁物の湯気が立ちのぼる頃、紗世はほっと息をついていた。


今日一日、尼の説法に香袋作り、そしてなぜか即席美容師まで務めることになるとは思わなかった。


その矢先だった。


「紗世、今日ね。」


母が、待ってましたと言わんばかりに箸を置いた。


「昼間、真砂の髪をずいぶん可愛らしく結ってあげたそうじゃないの。」


「……もう、そんなに早く伝わるの?」


思わず口をつくと、母はにこにこと楽しげだ。


「女房たちの噂は早いのよ。

 “左右を編んで後ろでまとめ、布で飾る”ですって?

皆、真砂を捕まえては見せてもらっているらしいわ。」


「捕まえてって……。」


脳裏に、四方から侍女に囲まれ、ぐるぐる回される真砂の姿が浮かぶ。


「でも母上、あれは大したことじゃ……。」


「いいえ、大したことよ!」


母は即座に否定した。


「髪は女の命。

しかも“結い方”一つで、可愛らしくも、奥ゆかしくも、華やかにもなる。ああいう工夫は、都でも好まれるわ。」


母はキラキラとした目で言った。


 ――好まれる。


その一言に、紗世は少しだけ胸を張りかけ、すぐに気づいた。


(あ、これ調子に乗ると危ないやつだ。私は優雅にお貴族ライフを楽しみたいからね、面倒事は避けたいんだよねぇ。)


そのとき、廊下の方から足音がして、御簾が開いた。


「戻ったぞ。」


 父、和泉守・藤原兼成である。


「おかえりなさいませ。」


母と紗世が揃って頭を下げると、父は膳につきながら母の顔を見て、すぐ察したように言った。


「……また何か楽しそうな話か。」


「ええ。それがですね。」


母は待ってましたとばかりに、昼間の飾り髪の話を語り出した。


真砂がどれほど褒められたか、侍女たちがどれほど騒いだか、少々盛り気味で。


父はふむふむと聞いていたが、やがて顎に手を当てた。


「なるほど。それは今、都でも受けが良さそうだ。」


「都でも?」


紗世が反応すると、父は少し声を潜める。


「ああ。今な、都では“美しさ”に殊のほか目の高いお方が話題でな。」


「……目の高い?」


「身なり、香、振る舞い、文、そして女房の装いまで、よくご覧になるそうだ。」


母が目を輝かせる。


「まあ……それは、さぞ大変でしょうね。」


「だから皆、工夫を凝らしている。その方に見初められれば、この上ない誉れだからな。」


父はさらりと言った。


「“光る君”と呼ばれるほどのお方だ。」


 ――ぴしり。


 紗世の中で、何かが音を立てて止まった。


「……ひ、光る……君?」


 声が、少し裏返った。


 父は不思議そうに紗世を見る。


「どうした。名を聞いたことでもあるのか?」


 紗世の脳内は、今や大騒ぎだった。


(光る君。

 帝の御子。

 臣籍降下。

 顔が良すぎて人生イージーモード。

 平安時代最大級のフィクション爆弾――)


「……い、いえ。」


 必死で平静を装う。


「ただ……ずいぶん、派手な呼び名だなと。」


父は笑った。


「それほど噂になるお方なのだろう。

帝の御子にして、臣籍に下ったお方だそうだ。」


 ――確定。


紗世は、汁物を口に運びながら、静かに悟った。


(……ここ、ただの平安時代じゃない……


これ、源氏物語の世界だ……!)


母はまだ楽しそうに言っている。


「紗世の飾り髪、もし都で流行ったらどうしましょう。」


紗世は引きつった笑みで答えた。


「……流行らないと、いいですね。」


 心の中で、全力で祈りながら。


(私、今――

 とんでもない物語の序盤に立ってない?)



翌朝。


紗世は、昨日より少しだけ早く目を覚ました。


(……流行らないといいですね、じゃなかった。)


布団の中で天井を見つめながら、昨夜の両親の言葉を思い出す。


――「流行るわよ。だからこそ、色々試してみなさい。」


――「才は使ってこそだ。」


(完全に背中を押された……。)



そうして朝の身支度を終える頃には、もう腹は決まっていた。


 

午前中。


中庭に面した明るい部屋には、侍女や使用人が入れ替わり立ち替わり集まっていた。


「次、こちらでよろしいですか?」


「若の御方、私は少し髪が多くて……。」


「結い目、あまり引っ張らないでいただけると……。」


 ――完全に、即席美容処である。


(昨日は一人だったのに、どうしてこうなった。)


とはいえ、手は自然と動いていた。



左右を分け、編み込み、後ろでまとめる。


結び目は低く、重心を落として崩れにくく。


髪の量が多い者には太めの三つ編み、細い者には数を増やす。


「……うん、いい感じ。」


 口に出した途端、周囲がざわついた。


「まあ!」


「鏡、鏡を!」


「いつもと同じ顔なのに、違って見えます!」


(顔は同じだよね、うん。)


内心で突っ込みつつ、紗世はふと思った。


(そういえば……。)


現代にいた頃、家に余裕はなかった。


高価な遊びも、流行の服も縁遠い。


だから遊びといえば、もっぱら――


(友達の髪、いじってたなあ。)


ネットで見たヘアアレンジ動画をスマホ片手に真似しては


「これ無理じゃない?」


「え、できた!」


と笑い合っていた。


その延長線が、まさか千年前で役に立つとは。


(しかも、平安時代って全員ロングヘア前提。)


これは、楽しい。


むしろ、試せる幅が広すぎて困るくらいだ。


(ポニーテールは無理だけど、編み込み天国だよね、ここ。)


ただし、一つ問題がある。


(……ゴムがない。)


結ぶのはすべて、紐。

しかも絹や麻で、滑る。


だからこそ、昨日も編み込みを多用したのだ。


(構造で固定するしかない。)


数人を仕上げたところで、紗世は顎に指を当てた。


(……だったら)


(アクセサリー、作れないかな。)


現代で言うヘアアクセサリー。


ゴムがなくても、装飾で視線を散らせば、多少の不揃いは気にならない。


視線が、壁際に立てかけられた簪に向く。


(あれの先に……。)


香袋の余り布。


昨日使った、少し色味のある裂。


(飾り切りして、房みたいにして……。)


簪の先に結びつければ、揺れる飾りになる。

結び目も隠せるし、見た目も華やぐ。


「……いけるかも。」


小さく呟いた瞬間、近くにいた侍女が目を輝かせた。


「若の御方、今の“いける”とは?」


(聞かれた。)


 紗世は一瞬迷い、そして笑った。


「うん。もっと可愛くできそう、って思って。」


 その言葉に、周囲の視線が一斉に集まる。


(……あ。)


(これ、止まらない流れだ。)


 胸の奥で、小さくため息をついた。



ひととおり髪を結い終えた頃、部屋には妙な静けさが落ちていた。


編み込みを整えられた侍女たちは、鏡を覗き込みながらそわそわしている。


そして、次に誰が口を開くべきか迷っている。


――そんな空気だった。


「……若の御方。」


恐る恐る声を出したのは、年若い侍女だった。


「こちら、結い目を少し引いてもよろしいでしょうか。」


「うん、お願い。」


紗世が頷くと、侍女は紗世の結い目に手を伸ばしかけた。


だが、指先が髪に触れる寸前で、はっとしたように動きを止める。


 ――主君の身に、気軽に触れるわけにはいかない。


「……若の、御方。」


言い直し、さらに一拍置いてから、改めて手を添えた。


そのあまりに律儀な様子が可笑しくて、紗世は思わず笑ってしまった。


「ねえ。」


その一言で、部屋中の視線が集まる。


「みんな、呼びづらそうじゃない?」


侍女たちは一斉に固まった。


「い、いえっ。」

「そのようなことは……。」

「恐れ多くも……。」


否定の言葉が重なるが、どれも歯切れが悪い。


紗世は腕を組み、少し考える素振りをしてから言った。


「ここ、お屋敷の中だよね。お客様もいないし、いるのは身内と、いつもの皆だけ。」


侍女たちは互いに顔を見合わせる。


「髪を結ってもらうたびに“若の御方、若の御方”って言われると、なんだか……くすぐったいっていうか。」


正直な感想だった。


「だからさ。」


紗世は、にこっと笑った。


「この部屋にいる間だけでいいから、名前で呼んでくれていいよ。」


 ――一瞬。


時が止まったかのように、誰も動かなかった。


「……な、名前、で……?」


 年配の侍女が、震える声で確認する。


「ええと……それは……。」


「だめ?」


軽く首を傾げると、全員がぶんぶんと首を振った。


「だ、だめなど、とんでもございません!」

「ただ……恐れ多く……。」

「もし他の方に聞かれたら……。」


「その時は、ちゃんと“若の御方”に戻して。」


 即答だった。


「使い分ければいいだけでしょ?」


そのあまりにあっさりした言い方に、侍女たちは言葉を失う。


「……それに」


 紗世は少し声を落とした。


「呼ばれるたびに、距離がある気がするの。

一緒に髪を結ってるのに、それはちょっと寂しい。」


沈黙。


やがて、真砂が一歩前に出た。


「……では」


唇を噛み、意を決したように。


「紗世……さま。」


一瞬、空気が張り詰める。


そして――


「うん。それでいい。」


紗世は、心から嬉しそうに笑った。


それを合図に、部屋の緊張がふっとほどける。


「で、では……。」

「紗世さま、こちらを……。」

「紗世さま、この結い目は……。」


次々と名前が呼ばれ、紗世は思わず肩をすくめた。


(うん……思った以上に照れる。)


けれど同時に、胸の奥が少し温かくなる。


(この世界で、ちゃんと“人として”呼ばれてる感じがする。)


紗世は簪を手に取りながら、くすっと笑った。


「じゃあ続き、いくよ。

 今日は――もう一段、可愛くするから。」


 侍女たちの顔が、ぱっと明るくなった。

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六条御息所様!光源氏ごときに生霊飛ばさないでください!〜現代女子が源氏物語に転生したら修羅場だった件〜 山桜桃(ゆすら) @yusura1980

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