第5話

第五話 閉じ込められた夜


 暗い。


 何も見えない。


 桜花は、膝を抱えて小さくなっていた。


 蔵の中は、夜になると一層冷える。

 昼間は土と木の匂いがするだけの場所が、夜には息をするみたいに軋む。「……さむい」


 声は、すぐに闇に吸われた。


 返事はない。


 それでも、声を出してしまうのは、

 ――誰かに聞こえるかもしれない、と期待してしまうから。


 期待してはいけないと、分かっているのに。


 桜花は、まだ幼かった。


 何歳だったのか、覚えていない。

 ただ、母の背中がとても大きく見えた夜だった。


 ――どうして、怒られたんだろう。


 それが、分からなかった。


 昼間は、何もしていない。

 物を壊していない。

 声を荒げてもいない。それなのに。


「うるさい子ね」


 その一言で、すべてが始まった。


 母は、桜花を見なかった。

 まるで、視界に入っていないみたいに。


「邪魔なの」


 声は低く、感情がない。


 桜花は、何か言おうとして、口を開いた。


「……ごめ――」


 最後まで言えなかった。


 腕を掴まれ、引きずられる。


 畳の上を、足が擦る音。

 柱に肩をぶつけた痛み。


「……いたい」


 そう言った瞬間、母の手が止まった。桜花は、少しだけ期待した。


 ――言いすぎたって、思ってくれた?

 ――ここで、やめてくれる?


 でも、母は振り返らなかった。


「それが、何?」


 その声は、冷たかった。


「あなたが痛いかどうかなんて、関係ないでしょう」


 蔵の前で、立ち止まる。


 古い扉。

 重くて、内側からは開かない。


 桜花は、ここを知っていた。

 悪い子が入れられる場所。


 ――でも。


「……わたし、なにか、した……?」


 必死に聞いた。


 理由が知りたかった。


 理由が分かれば、次は気をつけられる。

 次は、怒られない。


 母は、ようやく桜花を見た。


 その目には、苛立ちしかなかった。


「いちいち理由が必要?」


 扉が、開く。


「生きてるだけで迷惑なのよ」


 その言葉が、胸に刺さる。


 桜花は、声が出なくなった。押し込まれる。

 暗闇。

 扉が閉まる音。


 ――がちゃん。


「……っ」


 桜花は、扉にしがみついた。


「ごめんなさい……」


 何が悪かったのか分からないまま、謝る。


「いい子にするから……」


 声が、震える。


「……だれか……」


 でも、返事はない。


 外は静かだった。


 母は、もうそこにいない。


 桜花は、扉を叩いた。


 小さな拳で、何度も。


 でも、痛くなるだけで、扉は開かない。


 やがて、叩く力もなくなった。


 冷えた床に座り込み、膝を抱える。


 ――どうして?


 ――どうしたら、怒られなかった?答えは出ない。


 だから、桜花は考えた。


 自分が悪い子だからだ。


 そう思えば、理由ができる。


 理由があれば、耐えられる。


 悪い子なら、閉じ込められても仕方ない。

 嫌われても、当然。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


 怖い。

 寂しい。

 苦しい。


 でも、それを外に出すと、もっと怒られる。


 桜花は、ぎゅっと唇を噛んだ。


 泣くのを、やめた。


 ――泣かない子になろう。


 ――怒られない子になろう。


 ――期待しない子になろう。


 その夜、桜花は、

 「理由なく捨てられる世界」を覚えた。


 そして同時に、

 「理由があれば、まだ耐えられる」と学んだ。


 だから。


 後になって、彼女は試す。


 怒られる理由を、自分で作る。


 理由があれば、捨てられても納得できるから。


 月宮邸で、悪戯をした夜。

 逃げ出した夜。


 桜花の胸にあったのは、

 あの暗い蔵と、閉まる扉の音だった。でも。


 今は違う。


 叱られても、扉は閉まらない。


 逃げても、追いかけてくる人がいる。


 それを、まだ完全には信じられないけれど。


 この夜の記憶は、

 静かに、少しずつ、上書きされていく。

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