第4話

第四話 あの人が怒った理由


 夜は、すでに深かった。


 月宮邸の一室。

 灯りは落とされ、障子越しに月光だけが差し込んでいる。


 畳に座る三人の男は、珍しく口数が少なかった。


 沈黙を破ったのは、風翔だった。


「……久しぶりに聞いたね」


 扇子を軽く閉じ、天井を見上げる。


「綾人の、あの声」


 月華は、うなじで束ねた漆黒の髪を揺らしながら、静かに答えた。


「怒鳴ったわけではない」


 真紅の瞳が、細くなる。


「だが、あれは本気だった」


 氷月は、壁にもたれたまま腕を組み、吐き捨てるように言った。当たり前だろ。……あれは“躾”じゃない」


 一瞬、空気が張りつめる。


「“恐怖”だ」


 風翔が、苦笑する。


「言い方」


「事実だ」


 氷月は目を伏せない。


「桜花が境界を越えた。

 しかも、逃げた」


 その言葉に、月華が小さく息を吐いた。


「……逃走は、綾人の逆鱗だ」


 風翔は、扇子で自分の肩を軽く叩いた。


「理由は分かるけどね。

 あの子、叱られる前に逃げる癖がある」 氷月の視線が、鋭くなる。


「だから、だ」


「……氷月?」


「あのまま“何も言わずに許す”選択をしていたら」


 氷月は、低い声で続けた。


「桜花は“怒られないために消える”癖を、捨てられなかった」


 月華が、静かに頷く。


「……絲で縛るより、重い選択だったな」


 月華の異能――絲は、拘束と制御の象徴だ。

 だが、今夜の綾人は、力で止めなかった。言葉で、正面から叱った。


「綾人は、怒ったんじゃない」


 風翔が言う。


「“怯えさせた”」


 氷月が即座に続ける。


「“止めた”んだ」


 月華は、目を閉じた。


「……どちらも正しい」


 そして、静かに言葉を落とす。


「綾人は、“桜花が死ぬ可能性”を見た」


 沈黙。


 風翔の表情から、軽さが消える。


「境界の外は、桜花の異能を嗅ぎつける“もの”がいる」捕まれば、二度と戻らない」


 氷月の声は冷たい。


「だから、綾人は怒った」


「姫だからでも、妹だからでもない」


 月華が、真紅の瞳を開く。


「“生きていてほしい存在”だからだ」


 風翔は、深く息を吐いた。


「……普通の親なら、怒鳴るか、閉じ込める」


「でも、綾人は違う」


 氷月が口を歪める。


「逃げ道を塞いだだけだ」


「“逃げても追いかける”って、叩きつけた」月華は、小さく笑った。


「怖い兄だ」


「だが」


 氷月が続ける。


「桜花は、逃げなかった」


 三人の脳裏に、あの光景が浮かぶ。


 泣きながら、綾人の袖を掴んで離さなかった小さな手。


 風翔は、少しだけ微笑んだ。


「成功だね」


「……ああ」


 月華は、立ち上がり、障子を開けた。


 月が、綺麗だった。


「桜花は、初めて“怒られても残れる場所”を知った」


 氷月は、最後にぽつりと言った。


「……綾人は、覚悟を決めたんだ」姫を迎えたんじゃない」


「“家族”を引き受けた」


 その言葉に、誰も否定しなかった。


 遠くの部屋で、かすかな寝息が聞こえる。


 月宮邸の姫は、今夜は逃げなかった。


 それだけで、十分だった。

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