第3話

第三話 叱られる覚悟


 悪戯は、小さなものから始まった。


 庭の石を一つ、池に落とす。

 廊下の飾り紐を、少しだけ結び替える。

 女中の足音が聞こえるたび、胸がどきどきした。 ――でも。


 誰も、怒らなかった。


「危ないから、次は呼んでね」


「それは姫の通り道だよ」


「転ぶと怪我をする」


 注意はされる。

 叱責は、ない。


 それが、桜花(おうか)を追い詰めた。


 ――どうして?


 ――どうして、捨てないの?


 6歳の心は、優しさの使い方を知らない。

 優しさは、必ず裏切るものだと、身体が覚えてしまっている。


 だから、もっと。


 もっと試さなければ。


 今日の悪戯は、少しだけ大きかった。屋敷の裏手。

 結界の境界に近い場所。


 立ち入りを禁じられている区域。


 桜花は、そこに立っていた。


 胸の奥が、ざわざわと騒いでいる。

 ――ここに行ったら、きっと怒られる。

 ――ここに行ったら、姫失格って言われる。でも。


 そうならなかったら?


 何をしても怒られないなら、それはそれで怖い。

 存在を見られていないということだから。


「……すこし、だけ」


 自分に言い聞かせるように呟いて、桜花は境界を越えた。


 空気が、ひやりと冷える。


 同時に、胸の奥が熱を帯びた。


 ――来る。


 嫌な予感。


 桜花は、反射的に走り出した。


 月宮邸の敷地を抜け、林へ。

 枝が頬をかすめ、足元の石につまずく。転びそうになりながら、必死に逃げる。


 ――怒られる前に。

 ――捨てられる前に。


 逃げてしまえば、傷つかなくて済む。


 そう、思っていた。


 しかし。


「桜花!!」


 雷のような声が、夜を裂いた。


 初めて聞く、綾人の声。


 怒りを含んだ、鋭い声。


 桜花の足が、止まった。怖い。


 でも、逃げたい。


 震える脚に力を入れ、再び走ろうとした瞬間――


 視界が、暗転した。


 気づいたとき、桜花は地面に倒れていた。

 足首が痛い。枝に引っかかったらしい。


 涙が、勝手に溢れる。


「……やっぱり」


 ほら。

 罰が来た。


 叱られて、閉じ込められて、追い出される。そう思って目を閉じた、そのとき。


 誰かが、桜花を強く抱き寄せた。


「……馬鹿者」


 低く、震えた声。


 月城綾人だった。


 抱き方は、優しくない。

 逃がさない力がこもっている。


「どれだけ……どれだけ心配したと思っている」


 怒っている。


 でも、手は離れない。


 桜花は、声を絞り出した。


「……ごめんなさい」


「違う」


 即座に否定される。


「謝る前に、言うことがあるだろう」


 桜花は、混乱した。


 叱られる。

 なのに、いつもの順番じゃない。


「……いなく、なろうとした」


 やっと言えた言葉。


「きらわれるまえに……」


 綾人の腕が、さらに強くなる。


「誰が、嫌うと言った」


 怒鳴るようでいて、声は震えていた。誰が、捨てると言った」


 桜花は、泣きながら叫んだ。


「だって……!」


 声が裏返る。


「どんなことしても、怒らないから……!」


 静寂。


 綾人は、一度、大きく息を吐いた。


 そして、桜花を地面に座らせ、正面から目を合わせる。薄茶の瞳は、怒っている。

 でも、それ以上に――必死だった。


「いいか、桜花」


 低く、はっきりとした声。


「俺は、怒る」


 胸が、ぎゅっと締まる。


「危ないことをしたら、叱る」


 やっぱり、と桜花は思った。でも。


「それでも」


 綾人は、続けた。


「捨てない」


 その言葉は、刃のように真っ直ぐだった。


「逃げたからといって、見放さない」


「試したからといって、手を離さない」


 桜花の呼吸が、乱れる。


「……じゃあ、なんで……」


 なんで、怒るの?


 綾人は、少しだけ目を伏せた。


「怒るのは、家族だからだ」


 その言葉で、何かが壊れた。


 桜花は、声を上げて泣いた。


 叱られた。

 でも、閉じ込められていない。抱きしめられている。


 怖いのに、安心してしまう。


 それが、初めてだった。


 遅れて、風翔と氷月が駆けつける。


「……これは、叱られるやつだね」


 風翔は苦笑しながらも、目は真剣だった。


「よく戻ってきた」


 氷月は、そう言って桜花の頭にそっと手を置いた。


 月宮邸に戻る道すがら、桜花は綾人の袖を握っていた。


 離すと、消えてしまいそうで。


 綾人は、それを振りほどかなかった。その夜、桜花は知った。


 叱られることは、

 見捨てられることじゃない。


 そして――

 月宮邸から逃げた日が、

 初めて「帰ってきた日」になった。

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