第2話

第二話 姫の初日と、小さな悪戯


 朝、目を覚ましたとき、桜花は一瞬、息を止めた。


 見知らぬ天井。

 柔らかな布団。

 閉じられていない襖。


「……ゆめ?」


 小さく呟いて、指先で布団を握る。

 ちゃんとある。消えていない。


 昨日の夜、月城綾人に「妹だ」と言われたこと。

 泣いて、抱きしめられたこと。

 ここは閉じ込められない場所だと、言われたこと。


 全部、まだ胸の中に残っている。


 けれど。


 ――朝になったら、変わるかもしれない。


 昨日は夜だった。

 今日は、昼だ。


 昼は、ちゃんとできない子が叱られる時間。 桜花は、そっと布団から降りた。

 長い栗色の髪が背中に流れ、ゆるいウェーブが肩に触れる。

 桜色の瞳は、不安で揺れていた。


 着替えを探していると、襖の向こうから控えめな声がする。


「……桜花様、起きていらっしゃいますか?」様。


 胸が、きゅっと縮む。


 呼ばれ慣れていない呼び方だった。


「……はい」


 返事をすると、女中が二人、静かに入ってくる。

 その手には、淡い色の小袖と帯。


「本日は“姫としての初日”でございますので」姫。


 またその言葉。


 桜花は、逃げ出したくなる気持ちを、必死で抑えた。

 姫なんて、すぐにできるものじゃない。

 ちゃんとできなかったら――怒られる。


 着替えを終え、髪を整えられても、桜花の表情は固いままだった。


 朝食の間、綾人は対面に座っていた。眠れたか」


「……はい」


 本当は、何度も目が覚めた。

 追い出される夢を見た。


 けれど、それを言う勇気はなかった。


「無理に喋らなくていい」


 綾人はそう言って、桜花の皿に料理を取り分ける。優しい。

 優しすぎる。


 桜花は、その手元をじっと見つめていた。


 ――いつまで?


 食事の後、庭を案内される。


 桜がまだ残る庭。

 池に映る月の名残。


 風翔と氷月も一緒だった。


「姫の初日だし、緊張してるよね」


 風翔は扇子を揺らしながら、屈んで視線を合わせる。


「失敗しても怒られないから」


 それが、桜花には一番信じられなかった。怒られない、なんて。


 氷月は、少し離れた場所から静かに見ている。

 何も言わない。でも、目は逸らさない。


 ――みんな、見てる。


 桜花の胸が、ざわついた。


 ちゃんとできてるか。

 姫として、合格か。


 不安が、じわじわと膨らんでいく。だから、やってしまった。


 庭の端。

 結界を示す細い房飾り。


 昨日も見た、異能の印。


 桜花は、誰にも気づかれないように、そっと指を伸ばした。


 少しだけ。

 ほんの少し、ずらすだけ。


 ――もし、怒られたら。


 ――もし、叱られたら。


 それで分かる。

 ここが、本当の居場所かどうか。房が、わずかに揺れた。


 空気が、ひやりと変わる。


「……あ」


 しまった、と思った瞬間。


「桜花」


 低い声。


 綾人だった。


 桜花は、びくりと肩を震わせ、振り向く。胸が締めつけられる。


「……ごめんなさい」


 反射で言葉が出た。


「わるいこと、しました……」


 怒鳴られる。

 叩かれる。

 姫なんて無理だって、言われる。そう思って、目を閉じた。


 ――けれど。


「理由を、聞いてもいいか」


 その声は、静かだった。


 桜花は、そっと目を開ける。


「……どうして、触った」


 綾人は怒っていない。

 でも、真剣だった。


 桜花の喉が震える。


「……ほんとに……」


 言葉が、途切れる。


「……ほんとに、ここにいていいのか……」小さな声。

 でも、必死な声。


 その瞬間、風翔が小さく息を吸った。


「……なるほどね」


 扇子を閉じ、少しだけ真面目な顔になる。


「試したんだ」


 氷月が、静かに頷いた。


「……捨てられないか」


 桜花は、何も言えず、俯いた。


 綾人は、しばらく黙っていたが、やがて桜花の前に膝をついた。桜花」


 名前を呼ばれる。


「試してもいい」


 胸が跳ねる。


「だが、危ないことは、俺が止める」


 綾人は、桜花の手をそっと取った。


「お前は、守られる側だ」


 風翔が、軽く笑う。


「悪戯する姫も、悪くないと思うけどね」ただし」


 氷月が続けた。


「結界は、本当に危ない。……次は、触る前に呼べ」


 叱責ではない。

 排除でもない。


 注意と、約束。


 桜花の胸が、じん、と温かくなる。


「……おこらないの?」


 恐る恐る聞くと、綾人は即答した。怒らない」


「……きらいにならない?」


「ならない」


 迷いのない声。


 桜花の目に、また涙が滲んだ。


 ――まだ、怖い。


 ――でも。


 今日の悪戯は、失敗じゃなかった。桜花は、そっと綾人の袖を掴んだ。


 小さく。

 でも、確かに。


 姫としての初日は、

 「叱られなかった日」として、桜花の中に刻まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る