異能三人衆に囲まれて、少女は今日も笑う

神明紅葉

第1話

第一話 月宮邸の姫として


 その夜、月はひどく澄んでいた。


 雲ひとつない空に浮かぶ白銀の円は、まるでこの世界すべてを見下ろしているかのようで、桜花(おうか)は思わず視線を落とした。


 見られたくない。

 自分なんて、見られる価値はない。それが、彼女の当たり前だった。


 夜の山道は静かで、風に揺れる木々の音だけが耳に残る。裸足の足裏に伝わる冷たさも、もう慣れてしまった。痛みは、怒鳴り声より優しい。


 桜花は、振り返らなかった。


 振り返った先にあるのは、理由もなく叱られ、閉じ込められ、疎まれた家。

 「お前は要らない」と、言葉にされる前から分かっていた場所。


 だから、ここへ来た。


 ――月宮邸。


 月を名に持つこの屋敷は、異能者を束ねる名家。

 そして今夜、彼女は“連れて来られた”。


 否。

 正確には、「迎えに来られた」のだ。


「寒くないか」


 前を歩く男が、足を止めて振り返った。月城綾人。

 薄茶の髪をうなじで結い、おなじ薄茶の瞳を持つ青年。月宮家当主にして、異能者たちを束ねる剣。


 桜花は、その瞳を見るのが少し怖かった。

 優しすぎる視線は、いつも後で裏切る。


「……だいじょうぶ」


 小さく答えると、綾人はそれ以上追及しなかった。ただ、夜着を羽織らせてくれる。


 拒まれない。

 試されない。


 それが、逆に怖かった。


 やがて、月宮邸の門が見える。


 高く、静かで、堂々とした和の屋敷。

 門に刻まれた月の家紋が、今夜はやけに大きく見えた。桜花は、足を止めた。


「……ここ、ほんとに……」


 喉が震える。


 ――入っていいの?

 ――出て行けって、言われない?


 その問いに、綾人は迷いなく答えた。


「ここは、お前の帰る場所だ」


 桜花の胸が、きゅっと縮む。


 信じたら、壊れる。

 期待したら、痛くなる。


 そう分かっているのに、綾人の言葉は、拒絶を前提にしていなかった。門が開く。


 内側から現れたのは、二人の男だった。


「お帰り、綾人。……その子が?」


 扇子を手にした銀髪の青年――風翔が、柔らかく笑う。


「随分小さい姫君だな」


 白銀の髪、静かな碧の瞳――氷月は、桜花を見てそう呟いた。


 姫。


 その言葉に、桜花は思わず目を見開いた。冗談だ。

 からかわれている。


 そう思ったのに。


「紹介する」


 綾人は、はっきりと言った。


「俺の妹だ。……月城桜花」


 世界が、一瞬、止まった気がした。妹。

 月城の名。


 与えられるはずのないもの。


 桜花は、何か言おうとして、声が出なかった。

 胸の奥が熱くなりすぎて、息が詰まる。


「……いいの?」


 やっと絞り出した声は、情けないほど小さかった。


 綾人は、桜花の前に片膝をつき、視線を合わせる。血の繋がりなんて関係ない」


 薄茶の瞳は、揺れていない。


「俺が、お前を妹として迎えると決めた。それだけだ」


 風翔が、肩をすくめて言う。


「当主が決めたなら、もう決定事項だね」


「月宮邸の姫、か。……悪くない」


 氷月も、否定しなかった。


 桜花は、混乱していた。


 拒まれない。

 条件を出されない。

 試されもしない。


 そんなこと、知らない。


「……もし」


 桜花は、怖い問いを口にした。


「……わたしが、悪い子でも?」


 泣かないように、唇を噛む。


「言うこと聞かなくて、迷惑かけて……それでも?」


 綾人は、少しだけ目を細めた。


「悪い子なら、叱る」


 胸が、ひゅっと冷える。


「だが、捨てはしない」


 その一言で、何かが決壊した。桜花の目から、ぽろりと涙が落ちる。

 声を上げる前に、綾人の腕が、そっと背中を包んだ。


 強くない。

 でも、逃がさない。


「……泣いていい」


 桜花は、初めて、人の前で声を上げて泣いた。


 夜が更け、桜花は用意された部屋に案内される。柔らかな布団。

 閉まらない扉。

 見張りではなく、見守る気配。


 部屋を出る前、綾人は振り返った。


「明日から、お前は月宮邸の姫だ」


「ここでは、誰もお前を閉じ込めない」


 桜花は、小さく頷いた。


 でも、心の奥では、まだ思っている。本当に?


 ――いつまで?


 だから、きっと。


 明日、少しだけ試してしまう。


 それでもこの人たちが、手を離さなかったなら。


 そのときは、

 「妹」でも、「姫」でもなく――

 ただの自分として、ここにいていいと、思ってみたい。


 月明かりが、桜花の髪を静かに照らしていた。

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