第2章:間引きの論理
『発車まで、あと3分。乗車率現在、20%』
アナウンスと同時に、けたたましいブザー音が鳴り響いた。それは、平日の朝、駅のホームで何度も聞いた「駆け込み乗車はおやめください」という警告音によく似ていた。 だが、ここで乗り遅れた人間に待っているのは、遅刻の叱責ではない。死だ。
「うおおおおおっ! どけぇッ!」 「離せ! 私が先よ!」
二百人の群衆が一斉に三つの車両へ殺到する。 怒号。悲鳴。そして、肉と肉が激しくぶつかり合う鈍い音。 入り口付近では、早くも殴り合いが始まっていた。力の強い男が弱い者をねじ伏せ、髪を掴んで引きずり下ろす。蹴り飛ばされた中年の女性が、プラットホームのコンクリートに頭を打ち付けて動かなくなった。
(……非効率だ)
その阿鼻叫喚を、宗介は冷めた目で見つめていた。 真正面から突っ込めば、力の強い人間に弾き出される。かといって様子見をしていれば、定員オーバーで締め出される。 宗介はネクタイを少し緩めると、暴徒と化した集団の「流れ」を読んだ。
人の波には、必ず澱(よど)みができる。 入り口の中心は激流だが、その両脇――ドアの戸袋付近には、圧力が分散されるエアポケットがある。
「失礼」
宗介は小声で呟き、殴り合う男たちの隙間に身体を滑り込ませた。 誰かを押しのけるのではない。誰かが押しのけた反動でできた「空白」に、水が流れるように身を置くのだ。 満員電車歴20年。遅延した東西線の地獄絵図に比べれば、この程度の人の波など恐るるに足りない。
足は肩幅に開き、重心を低く保つ。 周囲からの圧力に対し、力で対抗せず、柳のように受け流す。そうして少しずつ、少しずつ、車両の奥へとポジションを確保していく。 目指すは、ドア脇のポール(手すり)だ。あそこさえ確保すれば、テコの原理で自分の聖域を確保できる。
その時だった。
「きゃっ……!」
鋭い悲鳴と共に、宗介の背中に柔らかい感触が激突した。 振り返ると、若い女がうずくまっている。 氷室玲奈(ひむろ・れいな)。派手なメイクだが、肌の白さが際立つ美女だ。彼女は巨漢の男に突き飛ばされ、宗介の足元に倒れ込んでいた。
「おい、邪魔だメス豚! 外でミンチになりな!」
巨漢が玲奈の髪を掴み、外へ放り出そうとする。 玲奈が必死の形相で手を伸ばす。その指先が、宗介のベルトを掴んだ。
「助け……て……!」
涙で濡れた瞳。あざといほどの上目遣い。 宗介の脳内で、瞬時に計算式が走る。
――助ける義理はない。 だが、ここで彼女が引き剥がされれば、その反動で宗介自身の体勢も崩れる。 逆に、この女を「壁(バッファー)」として利用すれば? 彼女を自分の懐側に入れてしまえば、彼女の身体がクッションとなり、外からの圧力を吸収できる。小柄な彼女一人分のスペースなど、誤差の範囲だ。
宗介は無言のまま、巨漢の手首を掴んだ。 力任せに握るのではない。関節の可動域の逆、親指の付け根を鋭く極(き)める。クレーム対応で激昂した客を宥める際に覚えた、護身術の初歩だ。
「痛(つ)ッ!?」
男が一瞬怯んだ隙に、宗介は玲奈の腕を引き、自分の胸元へと強引に引き寄せた。
「ここに入れ。そして、動くな」
耳元で短く囁く。 玲奈は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに状況を理解したらしい。宗介のジャケットを強く握りしめ、彼の身体に密着して震えを止めた。 宗介はドア脇のポールに背中を預け、両足を踏ん張って「壁」となる。 その懐に玲奈を抱え込む形だ。 はたから見れば恋人を守る騎士(ナイト)だが、実際は彼女を「肉の盾」にして、他の侵入者を防いでいるに過ぎない。
『発車まで、あと10秒。定員超過。間引きを開始します』
無慈悲なカウントダウン。 車両からはみ出した人間たちが、半狂乱で中に入ろうとする。 だが、もうスペースはない。
「入れろ! 俺を入れろぉぉ!」
先ほどの巨漢が、宗介たちの前に立ちはだかった。血走った目で、玲奈を引きずり出そうと手を伸ばす。 玲奈が「ひっ」と悲鳴を上げた。 だが、宗介は動じない。 電車のドアが閉まり始める。 プシュー、という排気音。分厚い鉄の扉が、容赦なくスライドしてくる。
「っ……!」
宗介は冷静に、巨漢が踏み込んできた右足のつま先を、革靴の踵(かかと)で踏みつけた。 地味だが、強烈な激痛が走る急所だ。
「ギャッ!」
男が体勢を崩した瞬間、閉まりかけたドアが男の肩にぶつかる。 センサーによる自動開放などない。 油圧式のドアは、万力のような力で男の身体を挟み込み――そのまま、男を外へと弾き飛ばした。
「あ、あ、あああああ――!」
絶叫が遠ざかる。 ドスン、という重い音と共に、ドアが完全に密閉された。
静寂。 車内には、荒い呼吸音だけが充満している。 窓の外では、プレス機が動き出し、乗り遅れた者たちの断末魔が響いていたが、防音ガラスのおかげでそれはどこか遠い世界の出来事のように聞こえた。
ガタン、と車両が揺れ、ゆっくりと動き出す。
「……はぁ、はぁ」
宗介の腕の中で、玲奈が顔を上げた。 恐怖に歪んでいたはずの顔は、すでにスンと落ち着き払ったものに戻っている。 彼女は宗介からパッと身体を離すと、乱れた服を整えながら艶然と微笑んだ。
「ありがと、おじさん。意外と頼りになるのね」
その目は笑っていない。 まるで値踏みをするように、宗介の全身を観察している。 宗介もまた、ネクタイを締め直しながら淡々と答えた。
「勘違いするな。君が一番手近な『盾』だっただけだ」
「ふふ。そういうことにしておいてあげる」
玲奈は悪びれもせず、宗介の隣――ポールポジションの一角にちゃっかりと居場所を確保した。 どうやら、守ってもらうべき弱者(ヒロイン)などではなかったらしい。 宗介は小さくため息をつき、車内を見渡した。
生き残ったのは、およそ60名。 安堵の空気はない。 なぜなら、車内のモニターには、次なる表示が浮かび上がっていたからだ。
『次駅到着まで、15分。なお、本車両の酸素供給量は、生存者数の半分に設定されています』
プシュウウウウ……。 空調の通気口が閉じられる音がした。 安息はない。 ここは、地獄行きの通勤電車なのだから。
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週末デスゲーム出勤 ~42歳社畜、娘の治療費のために地獄と日常を往復する~ RIU @riu48
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