猿の手の届くところ
かたなかひろしげ
相殺
考古学者の
窓の外、防護服を着た男たちが無造作に遺体を回収している。世界を襲った未知のウイルス『レテ』。それは感染者の記憶を
その発生からわずか二年で、世界の人口は最早三分の一にまで減少していた。治療法は見つからず、隆盛を誇った文明の灯火は今にも消えようとしている。
佐伯は、この滅びゆく世界を救うため、古今東西の伝承を辿り、東南アジアから二つのアーティファクトを掘り当てた。
一つは、『猿の手』。
干からび、黒ずんだその手は、いかなる願いも三つまで叶えるとされる。しかし、それは願った者に「相応の不幸(代償)」を突きつける呪物でもあった。過去の所有者は、金を得る代わりに愛する息子を事故で失い、復讐を願えばそれ以上の惨劇に見舞われた。
もう一つは、『桃色兎の脚』。
悪趣味なほど鮮やかなピンク色をした毛皮の脚。これは持ち主に「最高の幸福」を約束するが、引き換えに所有者の寿命を劇的に削り取る。
「論理的には、これで相殺できるはずだ」
佐伯は震える手で黒縁眼鏡を拭き直した。
彼は考古学者として、論理と己の組み上げた仮説を信じてきた。猿の手が「幸福」を代償として奪うなら、兎の脚がもたらす「過剰な幸福」を差し出せばいい。兎の脚が「寿命」を奪うなら、猿の手で「永遠の命」を願えばいい。
これは、神に対する数学的な挑戦だった。
***
佐伯は深呼吸をし、まず『猿の手』を握りしめた。
「第一の願い。世界を蝕む伝染病を、今すぐ完全に収束させろ」
指が一本、ギチリと音を立てて折れた。
同時に、彼はもう一方の手で『桃色兎の脚』を強く握った。
「桃色兎の脚よ、私に……この絶望を塗りつぶすほどの、最大級の幸福を与えろ!」
さらに、間髪入れずに『猿の手』へ二つ目の願いを叩きつける。
「第二の願い。私の寿命を永遠のものにしろ!」
部屋の中に、不気味なほどの静寂が訪れた。
窓の外で、絶えず鳴り響いていた救急車のサイレンが、ふっと消えた。
「……成功か?」
佐伯は窓に駆け寄った。
街は、黄金色の夕日に照らされていた。窓の外を見ると、驚くべき光景が広がっていた。 咳き込んでいた人々が、一瞬にして静かになったのだ。ウイルスの増殖は完全に止まり、パンデミックは劇的な終焉を迎えた。
ニュース番組を点けると、キャスターが「ウイルスの活動が完全に停止したことが確認されました。奇跡です」と涙ながらに報じている。
佐伯の胸を、かつてないほどの多幸感が満たした。
世界を救った。自分は人類の救世主になったのだ。
心臓が激しく鼓動する。本来なら、世界を救った男になった、というこの幸運の代償として、兎の脚はこの瞬間に佐伯の命をすべて吸い尽くしたはずだ。しかし、猿の手が与えた「永遠の命」が、彼の肉体をこの世に繋ぎ止めていた。
方程式は解けた。
不幸と幸福、死と生。二つの呪いは互いを打ち消し合い、完璧な調律がなされたのだ。
佐伯は歓喜に震えながら、崩れるように椅子に座り込んだ。
これで、人類はやり直せる。
しかしこの時、佐伯は気づいていなかった。「なぜ、ウイルスの活動が止まったのか」という、その凄惨な理由に。
***
───異変に気づいたのは、数日後のことだった。
街にはゆっくりと、しかし足早に、安らかな死が満ちていた。
悲鳴も、苦しみもない。
皆、驚くほど穏やかな、幸福に満ちた死に顔をしていた。
「……待て。何が起きている?」
佐伯は通行人の老人に駆け寄り、脈を取った。
ない。だが、死体は温かい。まるで、極上の眠りについたかのようだった。
そこで彼は、自分が犯した致命的な計算違いにようやく気づいた。
『猿の手』は願いを叶える。だが、そのプロセスは常に最悪の形をとる。
『猿の手』は、「伝染病を収める」という願いを叶えるために、最も効率的で残酷なプロセスを選択したのだ。 それは、「全人類の生物学的な時間を加速させ、天寿を全うさせること」だった。咳などの症状が止まったのは、ウイルス自身が感染者をすぐに殺してしまわないようにするための、必死な自己防衛だ。
ウイルスは、生きた細胞がなければ存在できない。 猿の手は、全人類の時間を強制的に数十年分進めた。それにより、ウイルスは「増殖する前に宿主が寿命で死ぬ」という状況に追い込まれ、絶滅したのだ。
街には、安らかな死が満ちていた。 若者も、子供も、赤ん坊すらも。彼らは『兎の脚』がもたらした「一瞬の極上の幸福感」の中で、本来なら数十年かけて味わうはずだった寿命を数日で使い果たし、老衰して事切れた。
『桃色兎の脚』が与えた「幸福」は、何故か私だけではなく、全人類に共有された。私があの脚を使う時、全人類の幸せを強く心で願いすぎていたからか、それともも私の幸福とは、全人類が幸せになることでしか実現できないことを、あの脚が汲み取ったのか。どちらにせよ人類は苦しむことなく、最高の幸福感に包まれながら、一瞬で寿命を使い果たしたのだ。
赤ん坊も、若者も、老人も。
彼らは「ウイルスが消えた世界」の喜びを噛み締めながら、一気に老衰へと向かった。
「……あ……ああ!」
佐伯は絶叫し、街の中心部へ飛び出した。
出会う者すべてが、穏やかな表情の老人となり、動かなくなっている。
唯一の生存者である佐伯だけが、猿の手によって与えられた「永遠の命」という呪いのせいで、時間の加速から取り残され、寿命を奪われることなく取り残された。
世界からウイルスは消えた。
しかし、それを見届ける「人類」もまた、この世から消え去った。
猿の手は、佐伯が『兎の脚』で得た「救世主としての幸福」を、彼一人が生き残るという「究極の孤独」によって、完璧に相殺してみせたのだ。
───それから、どれほどの月日が流れただろうか。
佐伯は、朽ち果てた東京の街を彷徨っていた。
食料はいくらでもあったが、味はしなかった。永遠の命を持つ彼の体は、栄養を摂取しなくても死ぬことはなかった。怪我をしても瞬時に再生し、病にかかることもない。
夜になれば、文字通りの静寂が彼を包囲する。
話す相手も、記録を読む者もいない。
考古学者が守りたかった「人類の歴史」は、彼という唯一の観測者を残して途絶えた。
「私は……何をしていたんだ」
佐伯は、ボロボロになったリュックから、まだ指が一本残っている『猿の手』を取り出した。
これを使えば、人類を復活させられるだろうか?
いや、ダメだ。この『手』は、そんな奇跡を許さない。
「人間を戻せ」と願えば、きっと腐った死体が街を歩き回るような地獄が生まれるだけだ。
皮肉なことに、猿の手の代償である「不幸」は、この「永遠の孤独」という形で完遂されていた。全ては、呪物としての「格」が、この手の方が上だった、という簡単な事実を見誤った私の誤算だ。
佐伯は、崩れかけた国立博物館の階段に腰を下ろした。
手元には、干からびた『猿の手』と、もう役目を終えてただの毛の塊となった『桃色兎の脚』がある。
彼は、残された最後の一本の指を見つめた。
この願いを使えば、自分は救われるかもしれない。
だが、自分一人が救われたところで、何の意味があるというのか。
彼は、自分が生涯を捧げてきた「考古学」という学問を思った。
それは、過去の遺物から、かつてそこにいた人々の息遣いを感じ取る学問だ。
今、この地球上で、人間の息遣いを知っているのは自分しかいない。ならば、考古学者としての禁忌を犯そう。こんな過去など、未来には無かったことにしよう。
佐伯は静かに目を閉じ、最後の一本の指を折り曲げた。
「第三の願い――」
彼の唇が、微かに動いた。
乾いた猿の手の最後の指が、ゆっくりと、折れた───
猿の手の届くところ かたなかひろしげ @yabuisya
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