手
みかん
第一話
C池という場所がある。
ちらり、と腕時計を見る。二十一時十分と三十四秒。……目的地に向かうのに乗り込んだのが終バスだとは夢にも思っていなかった。
日中の疲れに心地いい揺れが加わって、瞼が落ちてきそうになる。それを太ももを軽く叩くことで打ち消した。僕が睡魔と戦っているのは、連れが爆睡しているからだ。
(顔に落書きでもしてやろうかな)
ちょうど筆記用具がリュックにあるし。
そんないたずら心が芽生えるぐらい気持ちよく寝ている。
『次はC寺前、C寺前。お降りのかたはお忘れ物のございませんよう――』
はっとして顔を上げる。慌てて降りるボタンに手を伸ばし、押し込んだ。静まり返った車内に「ピンポーン」と大き目の音がするも隣の少年は起きない。
バスは緩やかに停車した。
隣にいる幼馴染の顔を軽くはたいて、揺さぶる。おぼつかない足取りの彼の手を引き、僕は降車口へ向かった。
二人分の料金を支払っていると、運転手の人に怪訝そうに声を掛けられた。
「お兄さん達、どちらに?」
まさか「肝試しです」なんて言えず、僕は事前に考えていた言葉を告げる。
「ええと、墓参りに」
想定通り、かなり苦し紛れの言い訳となった。
1
クリアファイルに配布物を入れ、僕は背後を振り返った。
「……
「んー?」
「さっきからペンで背中つつかないでよ」
僕と目が合った彼は、にへらと腑抜けた笑みを浮かべた。
「暇なんだもん」
「そりゃあ、きみからしたらつまらないだろうけど」
僕からしたら、入学直後からの一か月分を取り戻す作業なのだ。
本来、遠野は補講とは無縁だ。どっちかっていうと教える側に立つぐらいの成績。
ひょっとすると内申点稼ぎで講師役を買って出たのかと頭をよぎったのだが、登壇した先生の「なんで学年一位がここにいるんだ」の一言でその可能性はゼロになった。僕の顔を見られても、僕が聞きたいぐらいだ。
開始のチャイムが鳴ると同時に「おやすみ」と遠野は机に突っ伏していた。邪魔しないならいいか、なんて席移動しなかった僕が愚かだった。
最後の授業が終わる五分前に起きた遠野は、あろうことかペンで僕の背中をなぞり始めた。茶々が入ってからの五分は、まったく身が入らなかった。
「ねえ、なんも書いてない?」
「さーあ?」
……書いてるな、これ。
幼馴染の、こういう謎の悪戯行為はよくあるけど、さすがに服に落書きをされたのは初めてだ。呆れて叱る気にもなれない。
とりあえず僕はリュックサックに筆箱をしまい、教科書とノート、それから参考書の三点セットを膝の上に置く。
そして、ニマニマと笑みを浮かべる幼馴染の額に指先を持っていった。当の本人が気づいていないうちに、遠野の頭にデコピンをした。「あでっ」とわざとらしい声がしたけど無視。
「で、そろそろ用件を言ったらどう?」
僕が遠野を睨むと、彼は観念したように肩をすくめた。
「肝試ししない?」
「はあ?」
大きい声が出、ほかの補習していた生徒たちが何事かとこちらを振り返る。僕は顔に熱が集まるのを感じながら、言い出しっぺを睨み、
「行かない」
と即答する。というのもつい二週間ほど前、僕はAヶ丘団地という廃墟に遠野と、ほかに二人のクラスメイトとともに肝試しに行ったのだ。その結果は、遠野の誘いを拒否したことから察してほしい。
「あれ、もしかしてスイ的にはデートの誘いのほうがよかった?」
どうしてそうなるのか。茶化す遠野の耳に手を伸ばし、普段の倍の力を込めて引っ張る。
「いったい! マジで痛い、ごめんなさい! スイの力が必要なんです!」
「……どういうこと?」
疑問と共に手を離すと、遠野は耳をさすりながら答えた。
「あそこ、カップルだと幽霊との遭遇率高いんだよね。スイと行けば運よく幽霊に会えるかなーって」
僕は手元にあった三冊を振りかぶり、遠野の額を目掛けて振り下ろした。
教室中に鈍い音と、幼馴染の悲鳴が響いたのは言うまでもない。
帰り道。蝉の合唱があちこちで聞こえる中、僕はいつもよりも早足で道を歩いていた。背後からは額をさすりながら遠野が追いかけてきている。
信号は赤。仕方なく僕は立ち止まった。遮蔽物がないせいで、真上にある太陽の光が容赦なく降り注ぐ。じりじりと露出している箇所の肌が焼けている感覚がした。
「悪かったって―」
追い付いてきた遠野が、僕の顔を覗き込みながらそんなことをぬかした。
「ダウト。微塵も思ってない」
「スイがかわいいのはホントだし。たまーに女子に聞かれてんじゃん、まつエクしてないのって」
ため息をつき、僕は幼馴染ほうを向いた。ふざけているのは確かなのだろうけど、その真意が知りたかった。
……駄目だ。何を考えているのか、ぜんっぜんわからない。
この暑さなどものともせず、涼しい顔をしている。長袖のワイシャツにスラックス、日傘にサングラス、とどめに首元から下げられたハンディファンと完全防備だからだろうか。
なんだか汗だくになって歩いている自分が馬鹿らしくなってきた。
遠野が差す日傘の下に、身を潜り込ませる。こうすると調子づくのは目に見えているので、軽く足を踏んだ。
「いってぇ!」
「うるさい。普通に近所迷惑」
冷え冷えとした僕の言葉に、幼馴染は上機嫌そうに鼻歌を歌った。
「夜まで時間潰そうぜ」
「はぁ? リュックサックしょったっまま回る気?」
素っ頓狂な声を上げてから、気づく。
「って、なんで僕も行く前提なんだよ」
「だって来るだろ?」
遠野はすっとサングラスを鼻先に下げる。緑と水色を混ぜ合わせた、地底湖みたいな澄んだ瞳が、僕の顔を見つめる。
「駄目?」
そう言って小首をかしげる様に、僕は言葉に詰まった。こういう無邪気な彼の仕草に僕はめっぽう弱かった。
――多分、僕はこういうときの遠野を通して、幼少期の僕を甘やかしているんだと思う。
「いい、けどさぁ」
「けど?」
「女装して、とか言いだすなよ」
「……」手を叩く。「その発想はなかった」
リュックサックに入っている杖で、この馬鹿の頭を殴らなかったのを褒めてほしい。
「で、どこ行く?」
遠野に聞かれ、僕は考え込む。この近辺で、学生が五時間ぐらい過ごせるような場所。できればなるべくお金を掛けず。カラオケは料金が高いし、僕も遠野も歌うのは苦手だ。ファストフード店やファミレスは遠野が偏食だから却下。
そうやってしらみつぶしにした結果、候補はひとつに絞られた。
「ショッピングモールかな」
あそこならいろんな店があるし、カフェ含め休憩場所もある。最悪、映画館で適当に映画でも見ればいい。
僕がそう言うと、遠野は目を輝かせた。
「しょっぴんぐもーる? 何それ、行ったことねー! 行こうぜ!」
……行ったことがない?
思えば、遠野とこうして外出することなんてなかった。
遠野は長期休みに入ると連絡がつかなくなるのが常だったし、休日も遊びに誘われたこともない。家に帰るときだって、僕の家の前で別れてしまう。
夏休みは家族旅行でも行っているんだろうと勝手に想像していたのだが。
(まあ、いいか)
日傘をくるくると回しながら、遠野が上機嫌に歩き出す。僕は慌ててその背を追いかけた。
2
「ショッピングモールで大はしゃぎしてバスで寝るって、子どもじゃないんだから」
僕が呆れて言えば、気まずそうに彼はもごもごと口を動かした。
ショッピングモールに入ってテンションの上がった彼は、全部の店を制覇すると言い出した。ああなると僕の声は届かない。はぐれないようについていくので精いっぱいだった。
「面白かったんだからしかたないだろー」
そう語る顔は、まだ赤い。こんなに無邪気な遠野の姿は久しぶりに見た。だから言葉に嘘偽りはないのだろう。
それならそれでいいのだけれど――
「おごってもらってよかったの?」
そう昼食代や映画代は全部、遠野が支払ったのだ。
「別にいい。ショッピングモールに行くってスイの案に乗ったの、俺だし」
遠野はあっけらかんとそう言った。お金に執着がないのか、あまりにも淡泊な物言いだった。
会計時にちらっと見えた彼の財布の中身は、とても高校生とは思えない現金の量が入っていた。彼の実家は見たこともないし、聞いたこともないけれど、お金持ちなんだろうか。
一応念を押しておく。
「あとで返してって言われても、すぐには返せないからね?」
「だーから、いいってば。そんなこまごまとした金、気にしないし」
念を押した僕に、遠野は面倒くさそうに下唇を突き出す。お年玉でしか手にいられない紙幣一枚を「こまごまとした金」と表現したのに驚きつつ、当人が気にしてないならいいかと僕は結論を出した。
何か思い出しているのか、彼の頬は緩みっぱなしだ。つい、
「また行く?」
なんて聞いてしまう。
「マジ?」フクロウを思わせる素早さで、彼はぐんと首を回した。「行きたい!」
「いいよ。夏休み中だったらどこがいい?」
何気ない問いだったが、遠野にとっては嫌なものだったらしい。風船がしぼむように、見る見るうちに表情が変化した。しょぼくれた大型犬みたいになった彼に、僕は質問を重ねた。
「どっか空いてる日ないの?」
「ねーな」口をへの字にしたまま、彼は続ける。「予定ぎっしり」
「……旅行?」
「まあ、そんなもん」
歯切れ悪く語る彼に、僕はそれ以上聞けなかった。
この幼馴染は、色んなことを隠している。僕はその領域に踏み込む気はない。いずれ彼から語ってくれるのを待っているから。
「――それで、C池ってなんの話があるの?」
僕の問いに遠野は一瞬、まごついたようだった。それでも「肝試し」の手前、話さないといけないと感じたのだろう。彼は、ゆっくりと口を開いた。
「江戸時代? や、明治時代だっけか? とにかくお偉いさんの娘と、身分の低い男が恋に落ちて、周囲の反対を押し切って駆け落ちした。けどどうにもならくなって、あの池に飛び込んだ」
よくあることだろ、と彼は宙を見つめた。
女と男、どっちから提案したんだろう。駆け落ちすることを。これから先どうなるかなんて考えていなくて、本当にただただ「今」が続くと本気で信じていた甘さ。
……その感覚に、覚えがないわけではない。
五歳までの記憶はおぼろげだけど、僕の両隣にはお父さんとお母さんがいるんだと疑わなかった。きっと、彼らだってそんな人並の幸福を信じていたんだろう。
けれど信仰は、簡単に崩れる。そのときの痛みは死んでしまうんじゃないかと錯覚するぐらいだった。
僕はまだひとりじゃなかったけど、彼らはふたりぼっちだった。
でも――
「殺人じゃないか、それ」
呟いた感想、遠野は意外そうに目を見開いた。
どちらから提案したにしても、どんな理由があったとしても、それが叶ったとしても、提案者は相手を殺したも同然だ。「よくあること」と遠野はまとめたが、こんな身勝手に人の命を奪う行為が、よくあってたまるか。
「……驚いた、スイからそんなロマンチックのロの字もない言葉が出てるなんて」
「きみ、僕のことなんだと思ってるんだ」
「十一歳児」
反論しようとしたら、不意に遠野が表情を変えた。まるで電気のオンオフを切り替えたみたいに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます