ポイズン・エクソシズム

埴輪庭(はにわば)

大霊能時代

 ◆


 霊務省の建物は霞が関の他省庁と比べると妙に古めかしく、どこか陰鬱な空気を漂わせている。もっとも、ここで働く職員たちにとってはそんな雰囲気など気にする暇もない。なにしろ日本国内の訳あり物件──いわゆる呪物不動産の管理から凶悪犯罪者のまで、およそ人間が担当するにはあまりにも荷が重い仕事が山積みだからだ。


 大佐貫 鰐オオサヌキ ガクは書類の山に埋もれながら、今日で三十七回目になる溜息をついた。霊務省執行課に配属されて七年。すでに二百人以上の凶悪犯罪者を処理してきたベテランだが、今回のケースはそんな彼をしてタフな案件であった。


 机の上に広げられた資料にはおびただしい数の犯罪記録が綴られている。被害者数八十六名。いずれも皮膚をすべて剥がされ、内臓を摘出された状態で発見された。食われただとかそういう痕跡はない。単純に死体で遊んでいるのだ。


「朽木誠司、四十二歳──」


 大佐貫は犯人の顔写真を睨みつけた。穏やかな笑みを浮かべた、どこにでもいそうな中年男。この写真だけを見せられたら、近所のおっさんと区別がつかないだろう。人を見た目で判断してはいけないとはよく言うがここまで来ると詐欺のレベルである。


「大佐貫君、朽木の件はどうなってる?」


 課長の声に振り返ると、禿げ上がった頭を汗で光らせた男が立っていた。霊務省執行課課長、鬼塚和雄。彼もまたかつては現場に出ていたタフな男だが、三年前に悪霊に片腕を食われてからは内勤に回された。空っぽになった右袖がだらりと垂れ下がっている。


「まだです。今週中に最初の物件にぶち込む予定ですが」


「急げよ。上からせっつかれてるんだ」


「分かってます」


 課長が去った後、大佐貫は再び資料に目を落とした。


 霊務省が設立されたのは今から十二年前だ。当時、壊滅的な打撃を受けたのは不動産業界である。住宅価格は暴騰し、人々は限られた安全な物件を奪い合うようになった。世界中で悪霊、怨霊、死霊が跋扈ばっこするようになり、日本国内だけでも不動産物件の実に十八パーセントが足を踏み入れただけで死亡する可能性のある呪物と化し、世はまさに大霊能時代と呼ばれていた。

 

 そんな中で生まれたのがという発想だった。


 きっかけは七年前のある除霊案件だ。入ったら遅くとも三日以内には百パーセント死ぬとされる呪いの家に、見たら一週間後に必ず死ぬ呪いのビデオが持ち込まれた。犯人は悪戯目的ではなく、両方の呪いに囚われた少女たちを救おうとした若い祓い屋だった。


 祓い屋はビデオに着目したのだ。観たら一週間後に死ぬということは、一週間の間は呪いで死ぬことはないということである。悪霊というのは案外にルールを重視する所があり、祓い屋はそこにつけこんだ。


 入って遅くとも三日以内に死ぬ魔域に、観たら一週間後に死ぬビデオの呪いに囚われた者をぶちこめばどうなるのか──結果は望外の大成功。


 二つの呪いは互いに相殺し、少女たちは無事に生還。この事件は霊能研究者たちの間で大きな話題となった。


 政府はこの事件に目をつけた。


 もともと凶悪犯罪者の処理には頭を悩ませていたのだ。大霊能時代の到来以降、国内の犯罪発生率は異常な上昇を見せていた。殺人、強盗、放火、性犯罪——あらゆる凶悪犯罪の件数が十年前の実に四倍以上に膨れ上がっている。霊務省の調査機関によれば、物質界と霊界の境界線が曖昧になりつつあり、その影響が人間の精神にも及んでいるのではないかという仮説が立てられていた。悪霊の瘴気が染み出し、人々の心を蝕んでいる。そう考えなければ説明がつかないほど、この国の治安は悪化の一途を辿っていた。


 裁判には金がかかる。刑務所の維持費も馬鹿にならない。そもそも刑務所はすでに満杯で新設しようにも土地の大半が呪物不動産と化している現状では建設すらままならない。死刑執行となれば人権団体がうるさい。だったら悪霊に殺してもらえばいいじゃないか。呪物不動産の浄化と凶悪犯罪者の処理が同時にできる。さらにさらに、お得な事に、凶悪犯を放り込んだ呪物物件の活動が控えめになるのだ。例えば周辺地域に呪いをまき散らしたりしないようになり、まさに一挙三得の名案であった。 


 最初の数年は順調だった。凶悪犯罪者たちは次々と呪物不動産に送り込まれ、そして次々と死んでいった。悪霊たちは人間の血肉を貪り、犯罪者たちは断末魔の悲鳴を上げながら命を散らす。物件は浄化され、犯罪者は消え、税金は節約される。誰もが満足する素晴らしいシステム──のはずだった。


 ◆


 問題が生じたのは三年ほど前からだ。悪霊たちがようになったのである。


 最初は信じられなかった。霊務省の職員たちは報告を受けても冗談だと笑い飛ばした。しかし現実は残酷で送り込んだ犯罪者が五体満足で物件から出てくるケースが増え始めた。調査の結果、悪霊たちは犯罪者の持つ邪悪さに怯え、物件を放棄して逃げ出していたことが判明した。


 ある研究者はこう報告している。


「悪霊は人間の恐怖や苦痛を糧とする存在だが同時に人間の悪意にも敏感である。通常の人間であれば、悪霊は容易に恐怖を与え、捕食することができる。しかし一定レベルを超えた邪悪さを持つ人間に対してはむしろ悪霊の方が恐怖を感じてしまう」


 と。


 結果、政府は悪人の処理の際には執行官を付き添わせるようになった。犯罪者が物件から逃げ出した場合や悪霊に見逃された場合に備えて。万が一の事があった場合は執行官自らの手で始末をする事になっている。銃で撃ち殺すのだ。合法的に。


 ただし、執行官による直接処理には面倒な事後処理が伴う。顛末書の作成だ。なぜ悪霊による処理が失敗したのか、なぜ直接処理に至ったのか、状況の詳細な説明と正当性の証明。書類は軽く五十枚を超える。それを全部、担当の執行官が一人で処理しなければならない。


 だから執行官は皆、犯罪者が素直に呪い殺されることを祈っている──悪霊様どうか頑張ってください、と心の中で手を合わせながら。


 大佐貫がこの仕事を続けているのは給料がいいからだ。危険手当込みで年収は六千六百六十六万。同年代のサラリーマンなど比較にもならない。多少の精神的負担には目を瞑れる金額だった。


 ◆


 そうして執行日当日。


 大佐貫が最初に朽木を連れて行ったのは杉並区にある一軒家だった。十二年前に一家五人が惨殺された物件で悪霊危険度はAランク。過去に送り込まれた犯罪者八名全員が侵入後三十分以内に心臓を握り潰されて死亡している。


 護送車から降りた朽木は手錠をかけられたまま物件を見上げた。


「へえ、なかなか立派なお宅じゃないですか」


「黙れ。さっさと入れ」


 大佐貫は背後から銃口を突きつけ、朽木を玄関に向かわせた。扉が開くと同時に、濃密な死の気配が漏れ出してくる。生者を拒絶する、冷たく湿った空気。普通の人間なら足がすくんで動けなくなるはずの、圧倒的な悪意の塊。


 朽木はゆっくりと家の中に入っていった。


 大佐貫は玄関の外で待機する。執行課の規定では物件内部への侵入は禁止されている。犯罪者を送り込んだ後は外部モニタリング機器で経過を観察するのが基本だ。


 タブレット端末に映し出された赤外線映像では朽木がリビングらしき部屋に入っていくのが見えた。その瞬間、映像が激しく乱れる。悪霊の干渉だ。音声だけは拾えており、何かが床を這いずる音、壁を叩く音、そして──


「やあ、こんにちは」


 朽木の声だった。挨拶するような、陽気な調子であった。


「ずいぶん大勢いらっしゃるんですね。賑やかで結構じゃないですか」


 映像が回復し始めた。朽木は部屋の中央に立っていた。周囲には黒い靄のようなものが渦巻いていたがそれは明らかに朽木から距離を取っている。近づこうとしては弾かれ、また近づいてはまた弾かれ、を繰り返しているようだった。


 三十分が経過した。朽木は無傷だった。


 一時間が経過した。黒い靄は薄くなり始めていた。


 二時間後、朽木は自分から玄関に歩いてきた。手錠をした両手を上げながら、にこやかな笑顔で。


「終わりましたよ、大佐貫さん」


「何が終わったんだ」


「ここのお化けさんたち、みんな逃げちゃいました。僕とは相性が悪かったみたいです」


 大佐貫は舌打ちした。これで直接処理か。五十枚の顛末書が頭をよぎる。いや、まだだ。別の物件を試せばいい。


 その夜、大佐貫は三時間かけて経過報告書を書いた。


 連続で呪物物件を訪れる事は推奨されていない。執行官の精神的負担を考えての規則である。


 ◆


 そして翌日。


 次に試したのは練馬区の廃病院。七年前に入院患者三百人以上が一夜にして全滅した曰く付きの施設で悪霊危険度はSランクに分類されている。過去に侵入した者は例外なく全身の血液を抜き取られた状態で発見されてきた。


「病院ですか。僕、注射とか苦手なんですよね」


 朽木は軽口を叩きながら、錆びついた正門をくぐった。


 大佐貫はモニタリング機器を設置し、経過を見守る。映像には暗い廊下を歩く朽木の姿が映っている。天井から何かが滴り落ちてきた。赤黒い液体——血だ。壁には無数の手形が浮かび上がり、床からは腐敗した手が這い出してくる。


「わあ、本格的だなあ」


 朽木は感心したように呟いた。足元の腐った手を踏みつけながら、悠々と歩いていく。手術室らしき部屋に入ると、メスやら鉗子やらが宙に浮かび、一斉に朽木に向かって飛んできた。


「おっと」


 朽木は身をかわす——必要すらなかった。刃物類は朽木の手前で動きを止め、カタカタと震えた後、床に落ちた。


「刃物は僕の専門分野なんですよ。あなたたち程度が僕を傷つけられると思います?」


 その言葉と同時に、病院全体が震えた。悲鳴のような音が響き渡り、窓ガラスが次々と割れていく。悪霊たちが逃げ出そうとしていた。


 四時間後、朽木は再び無傷で出てきた。廃病院は完全に静まり返り、悪霊の気配は跡形もなく消えていた。


「困りましたねえ、大佐貫さん」


 朽木は手錠を掲げて見せた。


「どこに連れて行っても、お化けさんたちが逃げちゃうんです。僕ってそんなに怖い顔してますかね?」


 大佐貫は答えなかった。背中に冷たい汗が流れていた。


 その後も大佐貫は様々な物件を試した。どれも致死率百%を謳う優良厄あり物件だったのだが──すべて駄目だった。


 大佐貫は報告書の山に埋もれながら、頭を抱えた。このままでは朽木を処理できない。処理できなければ、直接処理──この手で朽木を射殺するしかない。


「あと一か所だけ」


 大佐貫は地図を広げた。


 都内に残る最凶の呪物物件──通称「自殺団地」。


 正式名称は都営坂島団地。高度経済成長期に建設された大規模集合住宅だが入居開始からわずか三年で百名以上の自殺者を出した。原因は当初、建築構造の問題とされた。しかし霊的調査の結果、この土地には江戸時代から続く処刑場の跡地が含まれており、数千人分の怨念が地中に染み込んでいることが判明した。


 団地は封鎖され、以後四十年以上にわたって放置されてきた。その間にも悪霊は増殖を続け、今では建物全体が一つの巨大な呪物と化している。危険度はSSランク。過去に送り込まれた犯罪者十二名は全員が十分以内に精神崩壊を起こし、自ら命を絶っている。


 ちなみにこのランクは高野グループという霊能結社が格付けしている公的なものだ。本社は和歌山県の高野山に置かれ、千二百年の歴史を持つ真言密教の流れを汲む組織である。


 大霊能時代の到来以降、世界各国の霊能団体と連携し、呪物不動産や心霊スポットの危険度を数値化するシステムを構築した。保険会社が物件の災害リスクを査定するように、高野グループは霊的リスクを査定する。その格付けは国際的な基準として認められており、不動産取引や都市計画においても重要な指標となっている。


 ランクはEからSSSSSまでの十二段階。Eは「霊的反応あり、ただし人体への影響なし」程度の軽微なもので、古い神社や墓地の多くがここに分類される。Sランクになると「侵入者の生命に重大な危険あり」となり、一般人の立ち入りは法律で禁止される。SSランクは「複数の強力な悪霊が確認され、霊能者による除霊も困難」というレベルだ。自殺団地はここに該当する。


 ちなみにSSSランク以上となると、もはや人智の及ぶ領域ではない。日本国内にはSSSランク物件が三か所存在するが、いずれも自衛隊の対霊特殊部隊による厳重な封鎖下に置かれている。SSSSランクは世界全体で七か所。韓国のコンジアム精神病院、カンボジアのポル・ポト処刑場跡地、メキシコの麻薬カルテル拷問施設跡などが含まれる。


 そして最高ランクのSSSSS。これに該当する場所は、世界中を見渡してもしか存在しない。

 

 アメリカ合衆国メイン州、デリー。


 人口三万人ほどの小さな田舎町だったその場所は、二十七年周期で大規模な惨劇が発生することで知られていた。子供の失踪、猟奇殺人、集団狂気——記録に残るだけでも、百五十年以上にわたって異常な事件が繰り返されてきた。大霊能時代の到来とともに、高野グループを含む世界中の霊能機関がデリーの調査に乗り出したが、結果は惨憺たるものだった。


 派遣された霊能者の七割が発狂。二割が原因不明の死。残る一割は、何も見なかった、何も感じなかったと証言したが、その全員が一年以内に自ら命を絶った。


 話がそれたが、最初からそういうとびきりヤバい場所へ連れていけばいいではないかという向きもある。だがそうは問屋が卸さない。というのも、危険度が高すぎる物件は悪霊の影響が敷地外にまで及ぶ可能性があるからだ。日本国内で執行官が巻き添えを食らって死亡した事例は過去に十三件。そのうち四件がSSランク物件での出来事だった。だから通常はSランクまでの物件で処理を試み、それでも駄目なら直接処理に切り替える。それが執行課の暗黙のルールであった。


 だが大佐貫には妙な確信があった。


 ──こいつなら大丈夫だ。こいつの邪悪さはSSランクの悪霊すら凌駕している。むしろ危険なのは悪霊の方だ。


 と。


 大佐貫としてはどちらでも良かった。朽木が殺されればそれでよし、しかし万が一生きて出るようなことがあれば──


 ◆


 護送車が団地の前に止まった。灰色のコンクリートの塊が曇天の下で不気味に佇んでいる。窓という窓は割れ、壁には黒い染みが無数に浮かんでいた。敷地全体から、腐臭とも血の匂いともつかない異臭が漂ってくる。


 大佐貫は敷地の境界線から十メートル離れた位置に護送車を停めた。これが安全圏だ。過去のデータによれば、この距離であれば悪霊の影響を受けることはない。


 朽木は車から降り、団地を見上げた。


「なかなか年季が入ってますね」


「入れ」


 大佐貫は銃を構えた。朽木が死んでくれればそれでいい。死ななければ、ここで撃ち殺す。もう他に選択肢はない。


 朽木は鼻歌を歌いながら、団地の敷地に足を踏み入れた。その瞬間、空気が変わった。気温が十度は下がったように感じる。大佐貫は安全圏から、モニタリング機器で経過を見守った。


 映像には朽木がエントランスホールを歩いていく姿が映っている。天井からは何かがぽたぽたと滴り落ち、床には黒い影が蠢いている。壁一面に、死者たちの顔が浮かび上がった。百を超える顔。泣いている者、叫んでいる者、笑っている者。全員が朽木を見つめていた。


「おやおや、大歓迎じゃないですか」


 朽木は立ち止まることなく、階段を上り始めた。一段上がるごとに、周囲の影が濃くなっていく。二階、三階、四階。影は朽木の足にまとわりつき、腕を掴み、首に巻きついてきた。


「離しなさい」


 朽木の声は穏やかだった。だが次の瞬間、影たちは弾かれるように後退した。


 五階に着いた。廊下には数十体の人影が立ち並んでいる。自殺者たちの霊だ。首を吊った者、手首を切った者、飛び降りた者、薬を飲んだ者。全員が虚ろな目で朽木を見つめている。


「こんにちは」


 朽木は笑顔で挨拶した。


「皆さん、自分で死んだんですね。自分の意思で。素晴らしいことじゃないですか」


 人影たちがざわついた。


「僕はね、人が死ぬのを見るのが好きなんですよ。特に、苦しんで死ぬ姿が。でもね、自分で死ぬ人は見てもあまり面白くないんです。だって、それは自分の選択でしょう? 僕が奪ったわけじゃない」


 朽木は一歩、また一歩と進んでいく。人影たちは後ずさりを始めた。


「だから皆さんには興味がないんです。申し訳ないけど」


 廊下の奥から、別の気配が近づいてきた。自殺者たちとは違う、もっと濃密でもっと邪悪な存在。処刑場の跡地から染み出してきた、本物の怨霊だ。


「やあ、待ってましたよ」


 朽木は両手を広げた。


「あなたたちの方がずっと面白そうだ」


 怨霊たちが一斉に朽木に襲いかかった。大佐貫のモニターは激しい雑音に覆われ、映像が途切れた。音声だけが断片的に聞こえてくる。


「ああ、いいですねえ」


 朽木の声だ。楽しそうな、恍惚とした声。


「もっと来なさい。もっと。もっと」


 何かが引き裂かれる音。悲鳴——だがそれは人間の声ではなかった。


「おいしい」


 朽木の声。


「もっとちょうだい」


 大佐貫は息を呑んだ。映像が徐々に回復していく。そこに映っていたのは──


 朽木が何かを


 口元から黒い靄のようなものが垂れ下がり、それを啜り込むように飲み込んでいる。足元には消えかけた影が幾つも転がっていた。怨霊たちだ。朽木に喰われているのだ。


 画面の中で朽木は次々と怨霊を捕食していく。百年以上の怨念を溜め込んだ存在がまるで飴玉でも舐めるように消えていく。自殺者たちの霊は恐慌状態に陥り、壁に張りついて震えていた。


 三十分後、映像は完全にクリアになった。


 朽木は団地の屋上に立っていた。周囲には何もいない。悪霊の気配は完全に消えていた。団地全域の霊が消えたわけではないだろうが、すくなくとも朽木に手を出そうという猛者はもういないようだ。


「ごちそうさまでした」


 朽木は満足そうに腹をさすった。


「少し食べすぎましたかね。でも久しぶりにお腹いっぱいになりました」


 大佐貫は銃を握り直した。これ以外の選択肢はない。直接処理だ。


「出てこい、朽木」


 拡声器で呼びかけた。朽木は素直に階段を降り、敷地の出口に向かって歩いてきた。相変わらずの穏やかな笑顔だ。


「大佐貫さん、お待たせしました」


「止まれ」


 大佐貫は銃を構えた。朽木は言われた通りに足を止めた。


「僕を撃つんですか?」


「ああ」


「そうですか」


 朽木は首を傾げた。


「僕が何をしたか、ご存知ですよね。沢山人を殺しました。男も女も、赤ちゃんもね。でも大佐貫さん、あなたも同じようなものじゃないですか」


「違うな」


 大佐貫の声には朽木が予想していたような動揺はなかった。


「命は平等だ。生まれた瞬間は誰もが同じ価値を持っている。平らな板の上に、みんな等しく立っている」


「へえ」


「だがな、その板の上に何を積み上げるかは本人次第だ。善行を積めば価値は上がる。悪行を重ねれば価値は下がる。お前は多くの命を奪った。その時点でお前の命の価値は虫けら以下まで落ちている」


 朽木は目を丸くした。


「面白い考え方ですね」


「俺は虫けらを踏み潰すのに躊躇しない。お前を撃つのも同じことだ。顛末書を書くのが面倒なだけで、お前を殺すこと自体には何の感慨もない」


 朽木は初めて笑みを消した。


「……なるほど」


「何がなるほどだ」


「いえね、大佐貫さん」


 朽木は静かに言った。


「僕は自分が怪物だと分かっています。狂っているんでしょうね、普通ではない。それはわかる。でもね、あなたは違う。あなたは正気のまま、冷静に、人の命を虫けらと同じだと言い切れる」


「だから何だ」


「僕なんかよりも、あなたみたいな人間のほうがよほど怪物的だ」


 銃声が響いた。


 朽木の額に穴が開き、後頭部から赤い飛沫が噴き出した。体が後ろに倒れ、コンクリートの上に崩れ落ちる。


 大佐貫は銃を下ろした。


「終わった」


 呟いた声はいつも通り平坦だった。


 ◆


 翌日から、顛末書との格闘が始まった。なぜ複数の物件で処理が失敗したのか、なぜ直接処理に至ったのか。状況説明、正当性の証明、今後の改善案。予想通り、書類の枚数は六十枚を超えた。大佐貫は毎晩残業し、休日も出勤し、ひたすらペンを走らせた。


 書類仕事が一段落したのは十日後のことだった。大佐貫は久しぶりに定時で退勤し、馴染みの居酒屋で一人で飲んだ。


「大佐貫さん、今日は顔色がいいですね」


 店主に言われて、自分でも驚いた。確かに体が軽い。この十日間よく眠れているし、食欲もある。朽木を殺した後、むしろ調子が良くなっている気がする。


 不思議に思いながら帰宅すると、ポストに一通の封筒が入っていた。差出人の欄には「都内霊能鑑定士協会」と書かれている。


「なんだこれ」


 開封すると、一枚の鑑定書が入っていた。霊務省の福利厚生の一環で年に一度の霊的健康診断が義務付けられている。すっかり忘れていたが先週受けた検診の結果らしい。


 鑑定書には大佐貫の霊的状態が詳細に記されていた。オーラの色、霊的エネルギーの量、悪霊への耐性。そして——


「守護霊:多数」


 大佐貫は目を疑った。昨年の検診では「守護霊:なし」だったはずだ。それが「多数」とは。


「詳細は裏面をご覧ください」と書かれている。裏返すと、そこには驚くべき内容が記されていた。


「被験者には複数の守護霊が付随しております。興味深いことに、これらの霊体は元来悪霊に分類されるものであり、何らかの経緯で守護霊に転換したものと推測されます。霊体の数は約五十体。全ての霊体が被験者に対して強い感謝と忠誠の念を抱いております」


 大佐貫は鑑定書を持ったまま、しばらく動けなかった。


 五十体の守護霊。元悪霊。強い感謝と忠誠。


 ふと、朽木を処理した日のことを思い出した。自殺団地で朽木が怨霊を喰い始めた時。壁に張りついて震えていた自殺者たちの霊。


「まさか」


 大佐貫は呟いた。


 翌週、大佐貫は霊能鑑定士のところを訪ねた。福利厚生とは別に、私費で詳しい鑑定を依頼するためだ。


 鑑定士は六十代の女性で穏やかな笑顔を浮かべていた。


「大佐貫さんですね。お話は伺っております」


「この鑑定結果について、もう少し詳しく知りたいんです」


「分かりました。少々お待ちください」


 鑑定士は目を閉じ、何かを探るような仕草をした。数分後、目を開いた彼女の顔は驚きに満ちていた。


「これは珍しい」


「何がですか」


「あなたの周りにいる霊たちと、少しお話しさせていただきました」


「話を?」


「ええ。彼らは皆、あなたに深く感謝しています。自分たちを地獄から救ってくれた、と」


 大佐貫は眉をひそめた。


「地獄?」


「彼らは長い間、ある場所に縛られていたそうです。そこへ、とても恐ろしい存在がやってきた。人間の姿をしているけれど、彼ら悪霊よりもずっと邪悪な存在。その存在は彼らを喰らい始め、逃げることも戦うこともできなかった」


「それで?」


「あなたがその存在を殺してくれた。それで彼らは解放されたんです。喰われる恐怖から、永遠の苦しみから」


 大佐貫は言葉を失った。


「彼らはあなたに恩返しがしたいと言っています。だから守護霊になった。あなたを守り、幸運をもたらすために」


「悪霊が守護霊に?」


「珍しいことですが前例がないわけではありません。悪霊というのはもともとは人間の魂です。強い怨念や苦しみによって歪んでしまっただけで本質は人間と同じ。だから感謝の念を抱くこともあれば、恩返しをしたいと思うこともある」


 鑑定士は微笑んだ。


「あなたは良い行いをしたんですよ、大佐貫さん。たとえそれが犯罪者を殺すという行為であっても」


 大佐貫は帰り道、かるく自分の周囲を見回した。何も見えない──が、五十体の霊がそばにいるのだという。かつては悪霊だったもの。今は守護霊だ。


「変な話だ」


 呟きながら、大佐貫は歩き続けた。


 朽木誠司は確かに化け物だった。人間の姿をした、悪霊よりも恐ろしい存在。そいつを殺したことで悪霊たちは救われた。そして救われた悪霊たちは感謝の気持ちから守護霊に生まれ変わった。


 毒をもって毒を制す。霊務省の基本方針。それが思わぬ形で実を結んだのかもしれない。


「まあ、いいか」


 大佐貫は肩の力を抜いた。顛末書は終わった。次の案件が待っている。また誰かを呪物不動産に送り込み、あるいは、直接処理をしなければならない。


 駅前の信号が青に変わった。大佐貫は足を踏み出す。ポケットの中の携帯が振動した。課長からのメッセージだった。


「新しい案件が入った。至急戻ってこい。だが安心しろ!今度の屑は朽木よりはマシだ。なんたって殺した人数が三十九人だからな。ただ、自分の子供に被害者の臓器を──」


 大佐貫はスピーカーから耳を離して、大きくため息をついた。


(了)

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ポイズン・エクソシズム 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

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