美しかった手
Akira Clementi
第1話
それは一目惚れだったと思う。
歩き疲れてふらりと入った喫茶店。注文したナポリタンは昔ながらの太麺でソースがよく絡んで、美味しかった喫茶店。調子に乗ってデザートにクリームソーダまで注文した喫茶店。
その喫茶店で、僕は恋をした。
注文を運んできてくれた三十代くらいの女性。
その女性の綺麗な手に、どくんと鼓動が大きく跳ねた。
透ける血管まで美しいと思えるような、真っ白い皮膚。
絡み合ったら折れてしまうんじゃないかというような、細い指。
細い指を彩る、桜の花びらのような小さな爪。
よくできた彫刻のようなその手に、夏の僕は恋をした。
とても美しいけれど、触れたら壊してしまいそうな手。でもどうしてもその手に触れたい。その手が欲しい。
誰にも侵略されていない新雪のようなその手が、欲しくて仕方ない。
けれども「あなたの手が好きです」なんて小心者の僕が言い出せるはずもない。「綺麗な手ですね」といきなり声をかけるのも、相手を怖がらせてしまいそうだ。
ああ、僕が道行く人が振り返るほどのイケメンだったらなあ。そうしたら、さりげなさを醸しながら声をかけるなんて簡単だっただろうに。
でも仕方ない。僕はどうやったって背が低い二十代の会社員だ。スーツを着ていないと学生に間違えられることも多い。まあ、可もなく不可もない普通の顔つきに生んでもらえただけありがたいか。
美女に恋した野獣のようなこのどうしようもない気持ちを抱えたまま、僕はその喫茶店に週に一、二回のペースで通うようになった。
火曜日は定休日。
女性の名前は、カナミさん。土日は休み。
年がいってるわりにお洒落で渋いマスターとカナミさんに、戸籍上の繋がりはなし。
真夏に一ヶ月ほど汗をかきかき通ったけれど、聞き耳を立てるだけの僕にはその程度しか分からなかった。
ああ、カナミさん。体温を宿した芸術作品のようなその手に触れたい。
でも、願いを叶える方法が分からない。
だから僕は、僕なりの方法で気持ちを満たすことにした。その為に喫茶店ではカナミさんの手ばかり見ていたけれど、カナミさんになにかするわけではないから許して欲しい。
喫茶店でカナミさんの手をできるかぎり観察して、帰宅したら粘土をこねくり回す。美大の彫刻科卒の僕は、粘土でカナミさんの手を作ることにしたのだ。今の仕事でも車の模型なんかを作っているから、粘土の扱いは慣れたものだ。
カナミさんの新雪を思わせる儚げな手を思い出しながら、一塊の粘土を針金にくっつけて、命を注ぎ込んでいく。僕が恋したままのあの美しさという命を注ぎ込みながら、手首から指の先まで愛でるように成形していく。
ああ違う、こんなのではない。もっと、もっと儚い手だった。
また違う。いくらなんでも指が長すぎる。
爪の形が気に入らない。桜の花びらのような可憐さがない。
毎夜毎夜狭いワンルームで粘土と向き合い、夢にまで見るあの美しい手を模倣する。
そうして完成した手に色付けをするのだけれど、またそこでもなかなか時間がかかった。
血管まで美しいと感じるような透明な白さが出せない。
爪には実際にマニキュアを塗ってみたけれど、なんだか俗っぽくなってしまった。
失敗作は捨てるしかない。でもそのままゴミ袋に突っ込んだら警察が来てしまいそうな気がしたので、コンビニで買ってきた新聞紙で包んで捨てる。新聞を購読していないから、必要なときはこうして買っていた。
カナミさんの手を目指して作品を作り続けて、時は流れていく。
長すぎる夏が終わり、まばたきをしている間に短い秋は過ぎ去り、毎朝布団が暖かくて抜け出るのが困難な冬へと変わる。
僕の目指す作品が出来たのは、クリスマスまであと十日という頃だった。
心血を注いで作ったその手は、僕が欲しかったカナミさんの手に非常に近い。残念なのは、彫刻なので触っても柔らかくないし、いまだ確かめたことのないカナミさんの体温に近い温もりを宿していないことだ。
それでも僕は、理想の手を手に入れた。
あまりにも嬉しかったものだから、僕は家にいる間ずっとその手をそばに置いていた。
食事のときに眺めて。
時折指を絡めたりして。
白く儚い手に、「綺麗だね」なんて語りかけて。
そのうち手と離れている時間がもどかしくなり、僕は手を鞄に入れて持ち歩くようになった。傷をつけてはいけないから、カナミさんが好きだと言っていたシマエナガの絵がついた可愛いポーチを雑貨屋で買い、それに入れて持ち歩いた。
手がいつでもそばにあるというのは、非常に安心する。
それに、人目を盗んで手と触れ合うのはいい刺激になった。
ああそうだ。手へのクリスマスプレゼントは指輪にしようか。どんなデザインが似合うだろう。銀粘土で作ろうか、それとも買おうか。
うきうきとした気持ちで迎えた日曜日。
買い物へと出かけた僕は、見てしまった。
カナミさんが、男性といるのを。
いや、男性だけではない。二人の間には小さな女の子がいて、三人で手を繋いでそれは楽しそうに歩いている。
そんな。
そんなはずは。
だって仕事中のカナミさんの手には指輪なんてはまっていなかった。
もしかして仕事中は指輪を外していたのか? カナミさんはカウンターの中で洗い物もしていたから、その可能性はある。
そんな。
僕の憧れた手は、既に誰かのものだったなんて。
僕の鞄に入っている手は、誰かとの幸せを享受している手の模倣でしかなかったなんて。
僕と指を絡め合った手はどこまでも偽物でしかなくて、ちゃちな作り物だ。
どうあがいたところで、あの手は元から僕のものにはならないのに。
帰宅した僕は、買ってきたばかりの銀粘土をそのままゴミ箱に突っ込んだ。僕がどんな指輪を作ったところで、あの手に一番似合う指輪にはならない。どんな指輪が似合うかなんて、野暮な質問だ。良人から贈られた幸福の証が一番似合うに決まっている。
あんなに夢中になって作った彫刻の手を持ち、まじまじと見つめる。
僕には一生届かないものだと分かった今、この手にはどんな魅力も感じられなかった。
思い切り床に叩きつければ、細い手はばらばらと砕け散る。その破壊的な音は、まるで僕を夢から覚ますような音だった。
ああ、あの手が好きだった。恋をしていた。
あの手が、欲しかった。
カナミさんが欲しいわけじゃない。
あの手が、欲しかった。
なんだ。
あの手は、もう誰かのものだったんだ。
これ以上ないくらい美しく見えていたのに、世の穢れを知っていたんだ。
なあんだ。
ひとしきり笑うと、涙がこぼれた。
美しかった手 Akira Clementi @daybreak0224
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