通勤路
ono
通勤路
月曜の夕暮れ、会社からの帰り道にある緑道を歩く。木々が揺れ、水の流れるぞわぞわという音がした。
ふと見れば暗渠の蓋の上に肌色が落ちている。手だ。
手袋ではない。どう見ても手そのものだ。手首から先、掌にやや骨ばった五本の指が生えている。
マネキンの手というわけでもない。マネキンならもっとつるりとしているはずだ。これは毛穴まである。
あまりに堂々と落ちているのでそれを当たり前に受け入れてしまった。
周囲を見渡すが、手首を失ってのたうち回っている人間はいない。いや、そもそも本物のわけがないのだ。本物なら血が出ているはずだ。腐敗臭がするはずだ。しかしそれらしい痕跡は何もなかった。
精巧なシリコンの模型か、あるいは新手の路上アートか。その場にしゃがみ込み、じっくりとそれを観察した。
切断されたわけでも無理にちぎられたわけでもなく、まるで最初から「手首」として作られたかのように滑らかな断面からは血の一滴も滲んでいない。といって偽物には見えない奇妙な生々しさがあった。
ところどころ赤と青の血管が浮かぶ薄橙色。表面に細かな皮膚のしわが走っている。爪は切り揃えてやすりをかけた跡があり、親指の付け根に小さなほくろがあった。
模型にしては生活感がありすぎる。
拾ってみようか。
一瞬迷ったが、すぐに却下した。生々しさが触れることを躊躇させる。
では、通報しようか。
一体なんと伝えるのか?
『すみません、手が落ちているのですが』
『手?』
『はい、右手です』
そんなとりとめのない会話から、あるいは何らかの事件の容疑者として厄介ごとに巻き込まれる可能性が出てくるのだった。考えただけで胃が痛くなる。
それを見なかったことにして、逃げるように帰宅した。
火曜の朝。出勤の際に通った緑道で、まだ手が落ちていた。
昨日の位置よりも十センチほどずれている。風に吹かれたのか、誰かが足先で小突いたのか。それとも単に気のせいなのか。
これは本物の手であるという思い込みが、動いているような錯覚を起こしているのか。
そもそも本当に同じ手だろうか、もしかしたら微妙に違うのかもしれない。人間の記憶など頼りないものだ。認識は容易に歪む。
朝陽の中で見て気づく。薬指にうっすらと指輪の痕があるのだ。既婚者の手か、あるいはファッションリングを常時つけているタイプか。
作り物だとすればやけに凝っている。
登校途中と思われる女子高生二人が「あ、またある」「ウケる」と言いながら通り過ぎていった。
ウケるのか。若い子の感性は分からない。
いやそれよりも、「またある」なのか。「まだある」ではなく。彼女たちは以前にもこれを見たことがあるわけだ。
違和感ばかりが先に立つ。
手の正体が何であれ、なぜ誰も対処をしない? 本物であれば警察がすぐさま回収すべきで、偽物ならば清掃業者が回収すべきだ。
それにしても「手」は果たして「燃えるごみ」なのか、「生ごみ」なのか。
その日の帰り、コンビニで買った肉まんを齧りながら相変わらずそこに鎮座している手を眺めた。
不思議と食欲は落ちなかった。あまりに物体として完成され、グロテスクさを感じない。
水曜は朝から雨が降った。暗渠を流れる水の音が激しくなり、手も濡れていた。
なんとなく、手が少し老けているような気がした。しわが深くなり肌の張りも失われている。こいつも雨で疲れているのかと馬鹿げたことを考える。
「お互い大変だな」
思わず声をかけた。誰に話しているのやら。
木曜。暗渠の清掃が入った。黄色いコーンが並び、作業員が泥を掬っている。
あの手はコーンの内側に残され、そこに何もないかのように避けられている。
誰も手に触れない。誰も手の回収を指示しない。
金曜だというのに残業で遅くなった帰り道、暗い緑道の入り口に人だかりができていた。
とうとう警察が動いたか、ではやはり事件だったのだ。下手に関わらなくてよかった。
野次馬の隙間から手があるほうを覗き込む。しかしそこにいたのは警察ではなく、グレーの作業着を着た男たちだった。
彼らはバーコードリーダーに似た機械を翳して手を読み取っている。
「ID照合エラー」
「またか。最近、不法投棄が多いな」
「更新の時期だからね」
作業員の一人がひょいと手をつまみ、傍らに置かれた銀色の保冷バッグへと無造作に投げ入れた。ジッパーを閉める音が乾いている。まるで道端の空き缶を拾うような気軽さだった。
無性に腹が立った。生活の一欠けらを無残に切り取られた、そんな感覚だった。
作業員たちが去り、集まっていた人々も言葉なく夜の住宅街へと散っていく。
ふと自分の右手を見つめた。
街灯に照らされた手はやけに青白く、表面はつるりとしているように見えた。
接続が甘くなっている気がする。強く引っ張れば、そのままあっさり抜けてしまいそうなほど。
月曜の朝。最寄り駅へ抜けるための緑道を憂鬱な気分で歩く。
木々が揺れ、水の流れるぞわぞわという音がした。ふと見れば暗渠の蓋の上に肌色が落ちている。
ああ、そうか。
深い納得を覚え、しかし足を止めることなく会社へ向かった。
通勤路 ono @ono_
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