魔界労働白書

大黒

魔界労働白書

『サキュバスは契約書にサインする』


 カメラが回ると、男は必ず嘘をつく。

 それが、私が人間界で最初に覚えた法則だった。

 レンズの向こうで、男は欲望に溺れているふりをする。呼吸は荒く、指先は震え、瞳は潤んでいる。だが魂は、いつも驚くほど静かだ。

 水面だけが揺れて、底は澄み切っている。そんな感じ。

 私はサキュバスだ。

 欲望を吸うことで生きる種族。

 だから、嘘はすぐに分かる。


「はい、じゃあ本番いきまーす」


 乾いた声がスタジオに響く。

 照明が熱を帯び、男の体温が上がる。

 台本通りに触れ、囁き、腰を動かす。完璧な手順。完璧な反応。


——なのに。


 何も、吸えない。

 胸の奥にある空洞は、満たされるどころか、少しずつ冷えていく。

 私は表情を崩さない。崩す必要がない。カメラは、こちらが演じる限り、すべてを「欲望」として記録してくれる。


「カット! OKでーす!」


 拍手。

「神回っすね!」

「さすがルシアさん!」


 褒め言葉の嵐の中で、私は微笑む。

 それが仕事だからだ。

 控室に戻ると、私は椅子に腰を下ろし、契約書の束を見下ろした。

 文字は細かく、専門用語ばかりで、正直ほとんど読んでいない。

 それでも、ここにサインをしたのは私自身だ。

 生きるために。

——いいえ。

 正確には、枯れないために。


「今日もすごかったですね」


 隣の椅子に、人間の女が座った。

 同じ現場に出ているAV女優。名前は覚えているが、呼ぶ必要はなかった。


「嘘、上手ですよね」


 私が言うと、彼女は笑った。

 乾いた笑いだった。


「仕事だもん。嘘じゃなきゃ、やってられないよ」

 

 その言葉が、少しだけ引っかかる。


「嘘なの?」

「全部。声も、表情も、気持ちも」


 彼女は爪を見つめながら続けた。


「本音でやったら壊れるでしょ。だから演じるの。私たち、嘘でご飯食べてるんだよ」


 理解できなかった。

 演じる必要があるのは、魂を守るため?

 欲望を切り売りするのに?


「あなたは違うでしょ?」


 彼女は私を見た。


「本物のサキュバス、なんでしょ?」


 私は否定しなかった。


「羨ましいな。欲望が食べ物なんて」


 私は、何も言えなかった。

 その夜、一人で台本を読んだ。

 ページをめくるたびに、決められた喘ぎ、決められた言葉、決められた終わり方が並んでいる。

 完璧だ。

 効率的だ。

 でも——魂がない。

 次の撮影で、私は台本を閉じた。


「今日は、これでやります」


 スタッフが戸惑う。


「え? 台本は?」

「演じません」


 空気が止まる。

 男優が困った顔をする。

 カメラは回っている。

 私は触れた。

 でも、誘わなかった。

 囁かなかった。

 相手の反応を、待った。

 沈黙のあと、男の呼吸が変わった。

 作られたものではない、遅く、不安定な呼吸。

 その瞬間だけ、

 微かな、歪な欲望が漏れた。

 甘くない。

 汚れている。

 でも——確かに、生きている。

 初めて、胸の奥が温かくなった。


「……カット!」


 現場は混乱した。

 評価は割れた。


「意味が分からない」

「史上最高だ」


 私はどちらでもよかった。

 控室で、一人になる。

 体は疲れているのに、空洞は埋まっていた。

 それがなぜか、分からなかった。

 後日、私は事務所に呼ばれた。

 契約の見直し。

 リスク管理。

 効率低下。

 机の上に、書類が積まれている。


 辞める、という選択肢は最初からなかったわけではない。

 ただ、考えなくなっただけだ。

 ここを出れば、また吸える。

 本物の欲望は、別の場所にある。

 そう思い続けることでしか、私は立っていられなかった。

 辞めた瞬間、この枯渇が――

 管理された現場でも、台本でもなく、

 私自身の判断だったと認めてしまう気がした。

 それが、何より怖かった。

 だから私は今日も現場に立つ。

 欲望を得られない仕事で、

 欲望を得るために。



「今回の件ですが……」


 担当者の声は淡々としていた。

 私は黙って聞き、最後にサインをした。

 また、契約書だ。

 生きるために。

——いえ。

 今度は、自分で選ぶために。

 その夜、撮影ログと感情波形データが整理される。

 数値化され、要約され、評価が付けられる。


送信先:

魔界 第七事業部

画面が暗転する直前、私はふと思った。

欲望を吸う私も、

労働を売る人間も、

やっていることは、きっと同じだ。

ただ、生き延びようとしているだけ。

カメラが止まったスタジオで、

私は初めて、仕事ではないキスをした。





『死後、魔界の企業に就職したが、ホワイトすぎて泣けた。』

 死んだはずの俺に、定時退社の概念があった。

 それが、目を覚ました瞬間に知った事実だった。

 白でも黒でもない、妙に落ち着いた色の部屋。

 壁には掲示物が貼られている。


「残業は禁止です」

「体調不良時は無理をしないでください」

「ハラスメントは魔王裁定の対象となります」


 夢だと思った。

 過労死の直後に見る、よくできた幻覚だ。


「佐久間 恒一様ですね」


 声をかけてきたのは、角の生えた女だった。

 スーツ姿で、名札をつけている。


 魔界 第七事業部

 感情資源管理課

……魔界?


「本日からこちらで勤務していただきます。

 なお、勤務時間は九時から十七時。

 定時を過ぎると端末は自動で停止しますので」


 俺は反射的に聞いた。


「残業は……?」

「禁止です」


 即答だった。

 オリエンテーションは丁寧だった。

 丁寧すぎて、逆に怖い。

 業務内容はこうだ。 

 人間界および異界から回収される

 欲望・後悔・苦痛・快楽といった感情資源を

数値化し、管理し、必要な部署へ回す。

 地獄の拷問?

 廃止されたらしい。


「効率が悪いので」


 上司——悪魔だが——はそう言って、淡々と資料をめくった。


「人間は、放っておいても勝手に自分を追い込みますから」


 冗談かと思ったが、誰も笑わなかった。

 初日、俺はミスをした。

 入力コードを一つ、間違えた。

 胃が縮む。

 生前なら、ここで怒号だ。


「……すみません」


 声が震えた。

 上司は画面を確認し、頷いた。


「修正しておきますね。

 次は、確認フローを一つ増やしましょう」


 それだけだった。

 怒られない。

 責められない。

 人格否定もない。

 胸の奥が、ざわついた。

 三日目、定期カウンセリングがあった。

 産業医——これも悪魔だ——が、穏やかに聞いてくる。


「生前のお仕事について、教えてください」


 気づいたら、全部話していた。

 終電。

 休日出勤。

「代わりはいくらでもいる」という言葉。

 倒れる直前まで、責任感だけで立っていたこと。

 

「……あなたは」


産業医は、はっきり言った。


「壊れるまで、使われていましたね」


 その瞬間、

 なぜか謝りながら、泣いた。

 迷惑をかけてすみません。

 役に立たなくてすみません。

 悪魔は困った顔で、ティッシュを差し出した。


「ここでは、そういう謝罪は必要ありません」


 仕事には、やりがいがあった。

 少なくとも、意味は分かった。

 ある日、一件のデータが回ってきた。


案件名:夢魔族ルシア

人間界・欲望取得効率:低下

ログには、映像と数値が添付されている。

演技された快楽。

そして、最後に一瞬だけ跳ね上がる感情波形。

俺は画面を見つめ、ぽつりと言った。


「……働きすぎなんだな」


 誰に言うでもなく。

 上司が頷く。


「ええ。種族は違えど、同じです」


 噂で、天界の話を聞いた。

 善行ポイント制。

 成果主義。

 笑顔の裏での競争。


「天界のほうが、よほどブラックですよ」


 悪魔は、事実を述べるように言った。

 ある日、新人の死者が配属された。

 青い顔で、目が泳いでいる。

 生前の俺と、同じ目だった。


「……ここは、地獄ですか」


 俺は、少し考えてから答えた。


「魔界です。でも」


 言葉を選ぶ。


「もう、無理しなくていい」


 新人は、泣いた。

 定時になり、照明が落ちる。

 端末が自動でシャットダウンされる。

 帰り際、俺は今日の予定表を見る。

 

次の案件:夢魔族労働環境改善計画


 書類を閉じて、思った。

 生きている時より、

 死んでからの方が、

 ずっと人間らしい。

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