紫月花の日常―― 15
膝から崩れ落ちるようにして、俺はその場に崩れ落ちた。
視界はぼやけ、耳の奥で遠くから聞こえる声がゆがんで響く。
心の奥底が、冷たく凍りついたように何も感じなくなっていた。
「………もう、いないんだ」
その言葉が胸に突き刺さり、深い闇に飲み込まれていく。
拳を握りしめても、力は抜けていくばかり。
足も、体も、動かせない。
「どうして……どうしてこんなことに……」
涙が頬を伝っても、痛みさえ感じなかった。
ただただ、無力感と絶望だけが彼を包み込む。
俺たちが必死に守ろうとしたものは、
最初からここにはいなかったのかもしれない。
それでも――
どこかで、ほんのわずかに残った小さな灯火が、消えそうで消えなかった。
けれど今は、ただその闇に沈むしかなかった。
「ねぇ、知ってる?」
花がふいにそう言ったのは、まだ二人がただの友達だった頃。
穏やかな午後。
花の家の庭の木下で葉が揺れていて、暖かい光に照らされてた。
「ネズミさんの大きなカステラ屋さんがあるんだって!」
「は?ネズミ!?カステラ屋なんて本当にあるのか?」
「うん!この本に書いてあるよ?ほら!」
そう言って俺に絵本を見せる花。
花の瞳はキラキラしていて、俺は思わず笑ってしまった。
「花……そういうのって、現実にはないこともあるんだぞ?」
「どういうこと?」
「それは絵本だよ。誰かが考えたお話ってこと、そのネズミのカステラ屋は実際に無いんだよ」
俺が事実を伝えると花はきょとんとした顔をした。
でもすぐに笑顔になって自信気に言った。
「えー?でも、私たちが住んでる世界も不思議なことばっかりじゃん?きっとどこかにあるよ!書いた人は見つけたのかもしれないし!」
花の無邪気な話に、思わず苦笑いがこぼれた。
「ネズミのカステラ屋…か。」
正直、そんな店がどこにあるんだ。
ネズミの作ったカステラなんて食えるかよって、
ツッコミたいけど、花の表情は真剣そのもので、希望に満ち溢れてた。
ちょっと抜けてるところもあるけど、こういう無邪気さが、なんだか愛おしくてたまらない。
「あとねー、しろくまちゃんの作るパンケーキがね?すっごく美味しそうなんだぁー」
「ふっ………」
ほんと、こいつ可愛すぎるだろ…
心の中でそう呟きながら、俺はまた花の話に耳を傾けた。
あの頃の花は、世界のすべてが新鮮で、知らないことばかりで、
それでも一生懸命に知ろうとしていた。
たまに的外れなことを言っても、その無邪気さがまぶしくて、
俺は何度も守ってやりたいと思った。
なのに――今
あの花はもうここにいない。
いや、あの笑顔は確かにあった。
けど、それは偽物だ。
偽物の花が、
俺たちの前から消えていく。
目の前で。
走って止めたかったのに、何もできなかった。
俺はただ、その背中を見送ることしかできなかった。
あの日のあの無邪気な笑顔は、もう二度と戻らない。
それが、俺たちの現実だった。
「もう………」
呟くように漏れた言葉は、夜の静寂にかき消されそうだった。
思った以上に近い。
けれども、どうしても手が届かない。
目の前にいるのに、掴めない幻のように感じてしまう。
俺の指先がほんの少しだけ空を掻く。
虚しくもどかしい動きに、胸が締めつけられた。
「駄目なのかっ……」
膝をつき、地面の冷たさがじんわりと伝わる。
顔を伏せ、視界の隅で微かに揺れる灯の光だけが頼りだった。
心の中の混乱と痛みで、呼吸が浅くなる。
その時、肩に柔らかな感触が伝わった。
円の手、そっと触れるその温もりに、ぎこちなくもほんの少しだけ救われる。
「……祭、そんな顔しないで。私たちはまだ諦めないよ」
静かな声。言葉の重みが胸に響いた。
集も隣で頷きながら、俺の肩にそっと手を置いた。
重なる手のぬくもり。
それは、冷え切った心に灯る小さな火のようだった。
「そうだ。花は確かに今は変わってしまったかもしれない。
でも、俺たちが彼女を取り戻さなきゃ、何も始まらない」
集の言葉に、俺はゆっくりと顔を上げた。
二人の瞳に宿る揺るがぬ決意が、俺の胸の奥にじんわりと染み渡る。
「あの花が戻る可能性は、まだゼロじゃないよ。
私たちが諦めたら、それこそ終わりだよ?」
俺の心臓は、まだ打ち続けている。
何度も止まりそうになったけど、確かに動いている。
「祭、俺たちがここに来た理由………わすれたのか?」
その言葉は、まるで心の奥底からゆっくりと響く鐘のように響き渡る。
俺は、わずかに震える手を握り締めた。
「っ………」
あの日――まだ俺たちが村を出る前。
「もう、ここにいても埒が明かない」
俺は膝を殴りながら言った。円は静かに頷く。
「この村には、花の手がかりは何一つ残ってない。何度も探したけど、無駄だった。花が連れ去られたあの夜から、ずっと……」
集が言葉を継いだ。
「しかも最近、村の周囲で変な奴らが目撃されているらしい。花を攫った連中かもしれない。俺たちだけじゃ太刀打ちできない」
俺は拳を握り締め、視線を落とす。
村の中心にある祠の奥深くを這う霊脈は、かつては青白い光を放ち、村全体に安らぎと力を注いでいた。
しかし今、その光は弱まり、霧は薄くなって空気が冷たく感じられる。
「夜になると電気が不安定で、通信も途切れやすい。スマホもあまり使えなくなってる…」
村の暮らしを支える霊脈は、10年に一度、村一番の祈扉の力を持つ者が祈りを捧げ補填を行う。
だが、その役目は代々、花の家系に託されてきた。
前回、花の父親が祈りを捧げてから8年。今は祈りの灯火が消えかけている。
俺たちは、このまま村にいても何も変わらないと悟った。
円が続ける。
「父さんも村の長も、私たちの動きを黙って見守ってくれているけど、みんな村の安全だけを考えてる。私たちは、花を取り戻して村を離れるしかない」
俺たちは分かっていた。
何故8年もの間、親たちが花を探せと口にしなかったのか。
そして、なぜ今になって急に動き出したのか。
それは、村の生活そのものが、花の家系の祈りに依存しているからだった。
村の霊脈が衰えることは、村の命が削られていくことに等しい。
もう、後戻りはできない。
深く息を吸い込み、声を強くした。
「花が生きているなら、俺たちは必ず見つけ出す。絶対に諦めない。」
三人の目が揃い、固い決意で輝いた。
そして、故郷の小さな村を捨てて、
俺たちは、初めての大都市・東京へと向かったんだ。
膝が震え、足元がふらつく中、俺の胸は締め付けられていた。
信じていたものが、一瞬で崩れ落ちたようだった。
だけど――諦めるわけにはいかない。
あの笑顔が、本当に嘘なはずがない。
まだ、どこかに“花”が残っているはずだ。
深く息を吸い込み、ゆっくりと涙をこらえながら顔を上げる。
「……ああ、俺たち、まだやれるよな」
その言葉に、円が静かに微笑んだ。
「祭、私たちは絶対に諦めない。どんなに遠くても、どんなに辛くても、一緒に立ち上がろう」
集も力強く頷き、俺の手を固く握った。
「これから何があっても、俺たちは仲間だ。必ず、花を取り戻す」
俺は二人の瞳を見つめ、ゆっくりと立ち上がる。
胸の奥で、小さな火が灯ったように感じた。
俺達はまだ終わりじゃない――
hana,s_ ぼぅちゃん @bowchan_hahaha
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