紫月花の日常―― 9


――強烈な気配が、空気を凍らせていた。

それは単なる“留まった魂”とは違う。

深く澱んだ感情の渦。

目に見えないそれは、まるで鉄球をつけられたように、私の身体を重くしていた。交差点を渡り、狭い路地を曲がる。


「……居た。あそこ!」

集が息を上げながら指を指す。

目の前に広がったのは、崩れたアスファルトと散乱した瓦礫。

その中央に、血と傷にまみれながらも立ち続ける祭の姿があった。

「もしかして対話しようとしてるの!?」

「多分………」

こんなの対話じゃ済まないレベルだと分かりきってるのに、それでも祭は対話を選んでる。

このレベルでそれは危険すぎる。

すぐに私と集は走り出した。


十数メートル先の祭。

怨念が今にも飲み込もうとしている。

「祭っ!!逃げてっ!!」

あと少し、あと少しで祭に追いつく。

あとほんの数メートルで手が届くのに、

私の手は届かなかった。

目の前の祭は怨霊の霊域に取り込まれてしまった。

 

「祭ぃっ!!!」

 ――ズズ……ンッ。

 

鈍く、重い震動が足元からゆっくりと這い上がってくる。

思わず足を止めて空を見上げると、空間がゆがみ、まるで世界の境界線が裂けているようだった。

「……祭っ」

集の声は、細く、震えてた。

祭までっ………

また、置いていかれた。

どうして私は、置いてかれるの?

どうして大切な仲間が、こんなにも簡単に消えていっちゃうの?

私に、どうしろっていうの?

霊域に取り込まれた者が無事で戻ったという話は、聞いたことがない。

目の前にいるはずの祭。

その魂は、確かにそこにある。

でも、届かない。

手を伸ばしても、指先は空を切るだけ。

絶望の淵で、胸の奥が冷たく引き裂かれるようだった。

それでも、私は諦められなかった。

まだ、ここで終わるわけにはいかない。


私は腕を組んだ

"祈扉術"

古くから村に伝わる祈扉の術。

魂を送る三種の扉を自身の霊力で生成させ、自在に操る術。

普段は魂を天国に送り届ける天の扉しか使わない。

でも、天の扉は魂自身が自ら入らない限り送れない。

それならっ………

私は静かに目を閉じる。

本当なら地獄に引き摺り込むのが手っ取り早い。

でも――私は、それを選びたくない。

「円……! まさか、お前……アレを使う気か……!?」

「うん、そう」

「無理だよ!あれは“封印”術だろ!中に入った奴は戻ってこれない!」

「……わかってる」

私はゆっくりと両手を組み、指を重ね合わせた。

けれど天の型ではない。


——パンッ

乾いた音を響かせ、叩き合わせた手を開いていく。

右手が下に、左手を上。

落ち着け、速度を誤るな。

そっと空間を作るように、

けれど、迷いなく、両手をすべらせる。


「——寂」

手のひらが重なり、静かに開かれる。

そのわずかな隙間から、“無”が滲み出した。 

「“寂の間”は……誰かを閉じ込めるための術じゃない」

「え……?」

私は師匠にこう言ってた。

心を無にしろって。

何も感じるな、ただ拒めって。

そうすれば閉じ込められるって、

でも………私にはできなかった。

風が止む。

周囲の音が、凪いでいく。

「私には、心を無にはできなかった。

……ただ、“まっさらに”するしかなかったんだ」

「まっさら……?」

「誰の声も否定しない。痛みも、憎しみも、悲しみも……全部を受け入れる。それが、私にとっての“無”」

手のひらから広がる漆黒が、空間を侵食していく。

「寂の間は、心に入るための術。私は、霊の心に入るんじゃない、祭の心に入り込む」

集が何かを言おうとした。でも、止めなかった。

それは、集も理解していたのかもしれない。

私達がどれだけ、祭を信じているか。

そして、霊災にさえ……まだ届くと、信じていることを。

「行ってくるね、集」

私は一歩、暗闇の中に足を踏み入れた。

「……必ず、連れて帰るから」

闇が全てを包み込み、視界が閉ざされる。

――どこか遠くで、空間の軋む音がした。

周囲の音が遠くなり

誰かが苦しんでいる音。

誰かが叫んでいる気配。

その誰かの中には、祭も、霊災の子も、両方の声が混ざっていた。

 

今、行くから——


足を踏み入れたそこは静かで

どこまでも沈んだ世界だった。

さっきまでの瓦礫の町ではない。

けれど、違和感はなかった。

目の前に広がっていたのは、薄暗く、湿った部屋。

でも暑くてむわっとした空気が充満してる。 

散らかった生活用品。

脱ぎ捨てられた服。

窓は新聞紙で塞がれて、外の光は入ってこない。

説明されなくても分かる。

ここはあの子が死んだ場所だ。

そして部屋の片隅で、小さく膝を抱えて座る、祭の姿。

その表情は見えない。

でも、その肩は小刻みに震えていた。

「……祭?」

静かに声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。

その瞳は、霧に包まれたみたいにぼやけていて、どこも見ていなかった。 

「円……なんで来た」

声に力がない。

そこにもう強さはなかった。

涙と、戸惑いと、恐怖と、痛み。

いろんな感情がぐちゃぐちゃに入り混じっていた。 

「祭、まだあんた迷ってるでしょ?」 

「……は?」

「誰かが倒れて、たくさん人が泣いてるのを見て、それでも――この霊災を壊すって言えないんでしょ」 

「……違う」 

「違わないでしょ」

「違うんだよっ!!俺はっ………」

「なに?」

祭は拳を握ったまま、俯いた。

唇を噛みしめすぎて、血がにじんでいた。

肩は小刻みに震え、呼吸も浅くて、胸の奥で空気が擦れていた。

「……壊そうとした。怖くて、自分が壊れそうで……だから、先にあの子を壊そうとしたんだ……」

その声は、誰に届くでもなく――

自分にさえ届かないような、壊れかけた息の音だった。

怒りでも、悲しみでもない。

ただ、どうしようもない「苦しさ」が、祭を飲み込んでいた。


そうだったんだ………

私は、祭は怖くなんかないって、ずっと思ってた。

何があっても立ち向かって、傷ついても、立ち上がって、

どんな時も笑ってて、真っ直ぐで、優しくて――

でも、それは違ったんだ。

私は静かに膝をついた。

「ごめんっ………私、勘違いしてた」

「………え?」

祭は魂を壊す様な人じゃない。

しっかり向き合って、

ちゃんと気持ちを受け止めて魂を送る。

それが祭のやり方で、祭の強さなんだから。

私はそっと祭の手を取り、言葉を重ねた。

「壊すなんて、祭のやり方じゃないよね。ずっと、届くって信じてるのに……心を閉じて、自分の声すら殺してたら、届くものも届かないよ」

「………」

「まだ、届くよ。祭の声は、まだ届く」

祭の目が揺れた。

私は立ち上がり、ドアのない壁の奥へと視線を向ける。

そこには、ぼんやりと、泣きじゃくるあの子の姿が見えた。

「ほら、立って。あんたの手が、届くって、私信じてるよ!」

祭はゆっくりと手を伸ばし

私はその手を引っ張り上げる。

「もう一回話そ?今度は、壊すんじゃなくて……“抱きしめる”ために」

心の中に差し込んだ、一筋の光が、彼の涙を照らしていた――。

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る