第二夜 バス停

誰もいない場所に降ろされた、という感覚だけが先にあった。


エンジン音が遠ざかり、辺りは雪しか見えない。




もふもふのロングコートに、やわらかなマフラー。


短めの髪はややぼさぼさ、童顔だがどこか生意気そうなツリ目に、少しだけ牙の見える口元から、白い息がふっと漏れた。




「……寒」




周囲を見回してから、ポケットのスマホを取り出す。




「ここだよな……。ほんとに、いいんだよな」




自分に言い聞かせるように呟き、画面を見つめる。


間違ってはいない。乗るバスも、降りる場所も、地図上ではきちんとここだった。




バスの中、思ったより冷えた。


そう思った瞬間、自然と足がバス停横の自販機へ向かう。




がこん、と落ちてきた缶。


コーンポタージュ。




アツアツの缶を両手で包み、頬に当てる。




「くぅ~」




かこ、とプルタブを開け、ずずっと一口。




「……あったまる~」




そのままぐいっと飲み干して、ぷはぁ、と小さく息を吐く。


空き缶はきちんとボックスへ。




「さて」




ふぅと湯気のような息を吐いて改めてスマホを確認する。


ストリートビューで事前に見ていた景色と、目の前の雪景色は、思っていた以上に違っていた。




「徒歩二十分だっけ……まあこの雪だから、三十分くらいかな」




甘いかな?まあいいや、で、歩き出す。




雪かきのされたバス通りをしばらく進み、やがて森へ入る細い雪道。


そこに立つ、簡素な案内板。




『ホテルニュー松竹 この先200m』




フォントからしていかにもな昭和レトロ。


雪の一人旅なら、こういうのがいい。




スマホの地図と見比べて、軽くうなずく。




「こっちだな」




雪道へ折れる。




道は細く、少しずつ斜面になっていく。


旅館に続く道としては、決して親切とは言えないが――まあ、山奥ならこんなものかと。




しばらく進んだところで、視界の端に看板が入った。




『クマ出没注意』




一瞬足が止まる。




「……クマか……でも、今なら冬眠……」




そう思った、直後だった。




黒い影が、木立の奥から現れる。




「……え」




息が止まる。




「……マジ?」




たぶん、熊。


距離は、遠くない。




逃げる、という選択肢が頭をよぎるより先に、体が固まる。


目を逸らすな。走るな。


どこかで聞いた知識だけが、かろうじて動いていた。




視線を合わせたまま、じり、と後ずさる。




その瞬間。




踵の下から、感触が消えた。




「――っ」




雪だと思っていた場所は、地面ではなかった。




ずず、と音を立てて体が前に滑り、


そのまま、うつ伏せのまま斜面を滑り落ちる。




がさ、ざざ、と雪を巻き上げ、


下で、分厚い雪にばさりと受け止められる。




「……いってぇ」




が、大丈夫、怪我はしてない。




しかしほっとしたのも束の間。


顔を上げて、凍りつく。




元来た道は、はるか上。


斜面の上に、細く見えるだけだった。




「……やっちまった」




考えても仕方がない。


スマホを取り出し、戻れる道がないか確認する。




だが、道から外れた場所に落ちたため、ほとんど情報が表示されない。




「……こっち、かな」




確信はない。


それでも歩き出すしかなかった。




しばらく進むと、急に視界が開ける。




嫌な予感のする風が、頬を撫でた。




白い景色の中に、ぽつりと黒いものが雪をかぶっているのが見える。




道案内だといいな……いや、期待しすぎか。




目を凝らすと、文字が刻まれているように見える。


――「慰霊」、と。




……急に、寒気がした。




同時に、どこか遠くから声がする。




「そっちは……だ、危ねぇぞ~」




訛りのある、地元っぽい人の声。




「え?」




振り向く。


だが、人影はない。




風が、強くなる。




雪が舞い上がり、あっという間に視界が白く埋まっていく。




「……いや、ちょっと待っ……」




ホワイトアウト。




上下も前後も、わからない。




「やば……これ」




顔面が痛い。


掻き分けるように必死に歩く。




やがて薄っすら、黒っぽい小屋のようなもの。


逃げ込めるだろうか。




ドアはすぐ見つかり、鍵はなかった。


とりあえず風は防げる、が、それでもかなり寒い。




体力は、まだある。


だが、状況は明らかにまずい。




「……こんなとこで、死ぬとか……」




バッグを探る。




出てきたのは、夜食用に持ってきたカップ麺。




「……お湯、ないじゃん」




笑えない。




鼻水が凍る。


何しろコートにマフラーだけの服装。


寒さが、あっという間に染みてくる。




5分?くらいでもうまぶたが重くなった。


それだけはまずい。




「寝たら……死ぬ……」




何度も、頭の中で繰り返す。




――そのとき。




ぎい、と音を立てて、扉が開いた。




吹き込む吹雪。


白い風の向こうに、白い人影。




「……誰……?」




白い風の中で、誰かの顔が重なった。




ななみ――?




呼びかけた気がしたが、声にはならなかった。




――ごめんな……




もう、限界だった。








――次に目を覚ましたとき。




ふかふかだ。




最初に浮かんだ感想は、それだった。




次に感じたのは、畳の匂い。


鼻の奥に、少しだけ懐かしい草の香りが広がる。




「……?」




目を開ける。




天井は木目。


障子越しに、柔らかい光。




「……どこだ、ここ……」




起き上がろうとした瞬間、ずきり、と頭痛が走る。




「っ……」




一瞬顔をしかめながらも、布団から身を起こす。


そのとき、ようやく気づいた。




自分が着ているものに。




「……?」




袖を持ち上げる。




ほっこりした色合いの、温泉マーク柄。




「……浴衣?」




一拍、間。




「いや、なんで」




思考が追いつかない。




そのとき、障子が静かに開いた。




「――あ、お目覚めですね、よかった」




声と同時に、湯気がふわりと流れ込む。




振り向いた先に立っていたのは、


白い着物に身を包んだ女。




黒髪を後ろで留めた凛とした、どこか透き通るような立ち姿。




「……」




一瞬、言葉を失う。




だが次の瞬間。




――ぐぅ。




間の抜けた音が、部屋に響いた。




腹だ。


ものすごく減っている。




女は一瞬きょとんとしたあと、ふっと微笑んだ。




「よかったら、これを」




そう言って、膳を畳に置く。




そこにあったのは、湯気立つ粥。




白くやわらかな粥の上に、とろりとした温玉。




刻んだ大根の葉の緑が、ささやかな彩りを添えている。




――ぐぅ。




またしても腹が、正直すぎる反応をする。


間抜けに開いた口……涎が垂れていたかもしれない。




椀に丁寧に湯気ごと盛られ、差し出される。




「どうぞ」




気づけば、箸を取っていた。


無言のままぺこりと頭を下げ、椀を受け取る。




「いただきます……」




がつがつ。




熱い。


やさしい。


妙に、体に染みる。


ほっぺたが、自然と膨らむ。




もぐもぐ。


もぐもぐ。




その様子を、女は少し安心したように見つめていた。




と、そこへ。




「……あ、起きてる」




遅れて現れたのは、仲居姿の少女――いや、兎だった。




頭には、大きく垂れたうさ耳。




「……?」




その異様さに、箸が一瞬止まる。


――が、次の瞬間にはもう二杯目を頬張っていた。




「食欲は……あるみたいね」




兎は、まるで看護師のような物言い。


どう見ても病院ではないのに。




そう、病院ではない。


つまり……




静かに、箸を置く。




「助けられちゃった……みたいですね、俺」




兎は、視線を落とす。




「……まあ、ね」




少しだけ、間を置いて。




「いいでしょ、とりあえず」




白い女は、何も言わずに、ただ静かに見ている。




「……ありがとうございます」




そう言って、もう一度だけ頭を下げた。




女は、わずかに微笑んだ。




「どうぞ、召し上がってください」




箸を取り直す。




まだ、聞きたいことは山ほどある。


ここがどこなのか。


どうしてここにいるのか。


どれくらい眠っていたのか。




……あのうさ耳は何なのか。




――でも。




今は、まだ。




もぐもぐ。


もぐもぐ。




粥は、うまい。




湯気の向こうで、何かが静かに始まった気がした。




――第二夜・了

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雪月花 湯灯畳 @yuagaritatami

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