雪月花
湯灯畳
第一夜 雪語り
――ここでのことは、決して人に話してはならぬ。
もし誰かに話してしまったら、そのときは……。
ゆき咲けど
月ほの灯す
霞み花
幾の想い夜
とくこともなし
この世には、忌み地というものがある。
忘れてはならぬ記憶がある。
これは、そんな旧い記憶の傍らに、人知れず咲いた唄。
雪解けのうつろいとともに、忘れ消えゆく――
小さな、小さな物語。
*
「まあ狭いところですが、とにかくお上がんなさい」
ちゃぶ台の上に湯気の立つ湯呑みが置かれ、柱時計が低く時を刻んでいた。
古いラジオは沈黙したまま、障子越しの灯りだけが部屋を柔らかく満たしている。
語り部は膝の上の猫の喉をゆっくりと撫でながら、こちらを見て笑った。
「粗末なものしかありませんが、茶でも飲みながら……ゆっくりとお話しするとしましょう」
猫は目を細め、喉を鳴らす。
雪の夜に似合う、静かな居間だった。
「むかしの話です。このあたりには、派手な九尾狐の伝説がありましてね。あまりに有名すぎて、ほかの話はすっかり影に隠れてしまった」
そう前置きしてから、語り部は続けた。
「これは、ほとんど語られなくなった雪女の話です」
*
冬になると人が下りてしまう、山あいの湯の宿があった。
山は深く、雪は重く、風は人の足を容易に奪ったという。
その年も、雪が軒まで積もるころ、ひとりの男が番として残っていた。
名を、政右ヱ門と言った。
夕暮れ、戸口を少し開け、手早く雪を払い落としていた政右ヱ門は、ふと、気配を覚えて顔を上げた。
薄闇の中、戸の外に女が立っていた。
風にあおられた雪が視界を白く曇らせるなかで、日が落ちきらぬ山の端の光が、雪に濡れた衣の白さだけを、かろうじて浮かび上がらせている。
思わず、戸を閉めかけた。
雪はすでに荒れ始めていた。
雪に慣れた者でさえ歩くのが難しい晩に、どうしてここまで来られたのか。
——この山で、人に化けるものがないとは言い切れない。
不思議よりも先に、胸の奥に、ひやりとしたものが落ちたという。
女は静かに頭を下げた。
「連れとはぐれ、道に迷いました。どうか一晩、泊めていただけませんか」
食べるものもなく、もてなす術もないと告げると、女は首を横に振った。
「何もなくてかまいません。夜が深く、もう道がわからないのです」
その声は弱く、けれど凍えてはいなかった。
憐れに思った政右ヱ門は、女を中へ通した。
寒かろうと囲炉裏を指し、火に当たるよう勧めると、女は小さく首を振り、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、どうかお気遣いなく」
そう言って一礼すると、奥の客間へと静かに姿を消した。
吹雪の気配は戸の向こうに遠のき、宿の中には囲炉裏の火の音と静寂だけが残っていた。
政右ヱ門は火に薪をくべながら、とうとう夜通し目を閉じなかったという。
やがて夜の気配が薄れ始めた頃――
女は早く起き、深く礼をした。
「昨夜はありがとうございました。お代をお支払いしたいのですが、持ち合わせがありません。代わりに、これを」
そう言って、女は髪から一本の笄を抜いた。
冷たい光をたたえた、銀の笄だった。
政右ヱ門が受け取ると、女は戸の外へ一歩踏み出し――
振り返ることもなく、雪と闇の中へ溶けるように消えていった。
やがて夜が明け、吹雪が止み、山の端から朝日が差し込み始めていた。
政右ヱ門は戸を開け、外へ出た。
掌の中の重みが、ふと気になった。
見下ろした瞬間、銀の笄は朝の光を受け、あわ雪のように――
音もなく、溶けるように消えていった。
まるで、
――私のことは、忘れてください。
そう言っているかのように。
胸に残っていた面影が、ほどけていく。
いつのまにか、あの女の顔さえ、思い出せなくなっていた。
春になり、宿に人が戻った。
政右ヱ門がこの話をすると、年寄りは言ったという。
「それは雪おんなだ。火を消さずにいて助かったな」
政右ヱ門は、ただ黙ってうなずいた。
*
「……そんな話です」
語り部は湯呑みを置き、膝の猫を抱き直した。
猫は尻尾をひと振りし、小さく欠伸をする。
「今もね、この土地には、語られぬまま忘れられた話が眠っている。それで、いいとされた話が」
障子の外で、風が鳴った。
そして、物語はゆっくりと、別の夜へと移っていく。
雪の積もる、音のない田舎道。
名もないバス停へ。
――第一夜・了
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