第2話 いい子
翌朝、目覚ましより先に、私は目が覚めた。
静かだった。
あまりにも静かで、心臓が一拍遅れた。
寝室のドアを開けると、息子は布団の中で目を開けていた。起き上がっていない。走り出していない。枕を蹴っていない。
私に気づくと、息子はぱちりと瞬きをした。
そして、まるで練習したみたいなタイミングで言った。
「おはよう」
その声が、妙に綺麗だった。
いつものように寝起きの鼻声でもない。甘えた伸びもない。
「……おはよう」
私が返すと、息子は布団の中で小さく頷いた。
朝ごはんも、座って食べた。
椅子から降りない。箸を投げない。食べこぼしもしない。
私が「すごいね」と言うと、息子は口角を上げた。
笑った、というより――笑顔の形を作ったように見えた。
けれど私は、その違和感を掴む前に、強い安堵に飲まれた。
静かだ。落ち着いている。
怒らなくていい。追いかけなくていい。
大きな声を出さなくていい。
保育園へ行く準備も、驚くほど簡単だった。
自分から服を着て、靴を履き、玄関で待った。
保育園の先生が「今日はご機嫌ですね」と笑った。
私は、笑い返すことができた。
その日から、息子は「いい子」になった。
周囲は喜んだ。
祖母は「やっと落ち着いてきたのね」と言い、先生は「成長ですね」と言った。
夫は「助かる」と言って、何も疑わなかった。
私だけが、たまに引っかかる瞬間があった。
笑顔が私の知る顔と違う。
口元は笑っているのに目元は笑っていない様に見える。
目が合っているのに、見られていない気がする。
私の顔の奥、私がいない場所を見ているような。
それでも、息子は私の言うことを聞いた。
泣き止めと言えば泣き止み、寝ろと言えば寝た。
――ありがたい。
そのはずなのに、私は時々、急に怖くなった。
ある夜、息子がテレビを見ている横顔を眺めていた。
画面が切り替わって、コメディ番組の笑い声が流れる。
息子は、その瞬間、遅れなく笑った。
人の笑い声に合わせて、同じタイミングで、同じ秒数だけ。
それは「面白い」から笑っているのではなく、
笑うべき場所で笑っているだけに見えた。
私は息子の頬を触った。
温かい。柔らかい。生きている。
でも、指先の感触がどこか頼りなかった。
以前までとどこか違う気がした。
「ねえ」
私は言った。息子はすぐにこちらを向いた。
「……ママのこと、好き?」
私が言ってから、息子は一拍置いた。
短すぎる間。考えたというより、処理の時間みたいな間。
「すき」
息子は言った。
表情も変えずに。
その声は、優等生の教科書みたいだった。
私は笑って、頷いて、頭を撫でた。
そして、夜中に一度だけ、目が覚めた。
寝室の隅で、息子が座っていた。
起き上がっていた。
じっと、私を見ていた。
暗い中で、目だけが光って見えた。
恐怖が喉に詰まって、私は声を出せなかった。
息子は、すぐに布団へ戻った。
まるで「起きていてはいけない時間だったこと」を思い出したみたいに。
翌朝、夫は言った。
「最近ほんと、育てやすくなったよな」
私は笑って頷いた。
笑うしかなかった。
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