第6話
「食べ終わったら顔を洗っておいで」
「はい、はい...」
洗面台の鏡に映った自分の顔が歪んで見える。
目の下にくまができ、唇の色が悪い。
まるで別人のようだ。
「疲れてるみたい」
呟いて冷たい水で顔を洗う。
水しぶきが襟元に飛び散り、紺色のブラウスが暗い紫色に変わる。
タオルで拭こうとして、ふと洗面所の棚に並んだ歯ブラシの本数に注目する。
一本多い──ピンクの子供用サイズが、大人のものより手前に並んでいる。
指紋がつくのを恐れて素通りする。
居間に戻ると、机の上にアルバムが開かれていた。
小学校の運動会らしい写真群の中央に、確かに幼い頃の自分がいる。
「えっ」
声が詰まる。
ポニーテールの少女が満面の笑みでこっちを向いている。
「どうして」
疑問符が脳内を駆け巡る。彼は背を向けたまま、新聞の折り目をいじっている。
彼の読む新聞記事の見出しには大きく
「豪雨被災地の復旧進まず」
の文字が滲んでいく。彼の震える肩が視界の端で揺れ動く。
「ごめんなさい」
反射的に謝るが、何に対して謝っているのか分からない。
アルバムのページをめくると、遠足でおにぎりを頬張る写真が現れる。
口元の米粒がそっくりそのまま写っている。指でなぞろうとして止めた。
「私、本当にサナエさんじゃないんです」
声にならない声で呟く。
庭先で風鈴が鳴り、一瞬だけ現実に引き戻される。
玄関の三和土に置かれた子供用サンダルが埃を被っている。
ピンクの花柄模様が妙に懐かしく映る。自分が履いたことのないデザインなのに。
彼が振り向き、涙で濡れた瞳と出会う。逃げ場がなく、うつむいて畳の縁を見つめ続けるしかなかった。
彼の腕の中で呼吸が浅くなる。
肺に押し込まれた空気が肋骨を圧迫する。
「違うんです」
抗議の声が彼の胸板に吸い込まれる。
「私はサナエさんじゃありません!」
繰り返すたびに説得力が薄れていくのを自覚する。
押入れから古いランドセルが現れ、側面に
「六年二組
と彫られている。
自分の字体に酷似した、しかしもっと丁寧な筆跡だ。
床の間に飾られた家族写真では、確かに幼い頃の自分らしき人物が母親らしき女性に抱かれている。
記憶の空白地帯が不気味なほどぴったり埋まる感覚に襲われる。
「お父さん」
呼びかけようとして躊躇う。
彼の首筋の汗ばんだ匂いが、遠い夏の日を思い出させる。
プールサイドで嗅いだ塩素消毒液の香りだ。幻覚だろうか。
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