第5話
味噌汁の香りに誘われて瞼をこすると、机の上に湯気が立ち上っている。
昨夜の出来事が夢だったような平穏な光景に戸惑いつつ、座布団に正座する。
茶碗を持ち上げた指先がまだ震えている。
「ありがとうございます」
絞り出した声はかすれていた。
卵焼きの黄色が鮮やかすぎて、かえって食欲を削がれる。
箸を持つ角度を何度も変え、結局いつもの持ち方に落ち着く。
「今日中に...親戚の家にいきたいんですけど」と、言いかけて止まる。
昨日出会ったばかりの人間に、なぜこんな個人的な話をしようとしているんだろう。
お茶碗の内側に残ったご飯粒を見つめながら、自分の行動原理がさっぱり理解できない。冷蔵庫のモーター音が突然止み、無音の時間が生まれる。時計の針だけが確実に進んでいる。
「あぁ、今日中に送るよ」
彼は私に答えるが、彼の目は私を捉えていない。
彼の視線の先にある壁に飾られている《サナエ》と書かれた小さな手の跡が、朝日に照らされて浮かび上がる。
ひらがな三文字の下に並ぶ年齢欄は6歳──私よりも幼い。
箸を置く音がやけに大きく響く。
「お母さんはどちらに?」
聞いてから後悔した。
彼の表情が一瞬で凍りついたのが分かったからだ。
流し台の蛇口から落ちる水滴が規則正しくリズムを刻む。
その間隔が次第に短くなり、ついに一滴も落ちなくなった。
沈黙が重くのしかかり、自分の質問の残酷さを痛感する。
代わりに空になった茶碗を差し出す。
「お、おかわり...お願いします」
声が裏返った。炊飯器の保温ランプが赤く点灯し続けている。彼が米をよそう際に手形を盗み見て、自分の手と比べてみる。明らかに小さい。きっと病気で亡くなったんだ、と根拠のない推測が浮かぶ。
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