第4話

 テーブルに置かれた皿から立ち上る湯気が視界を歪ませる。


 箸置きの向きを直そうとして伸ばした指先が、隣の写真立てに触れた。

 笑顔の家族三人──奥さんらしい女性と娘さんらしき少女、そして現在キッチンに立つ彼。

 胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚に襲われる。



「ご結婚…なさってるんですね」


 言葉が勝手に溢れ出た。

 写真の中の奥さんの穏やかな微笑みが、今の彼の無表情と対比される。


 テレビの音が急にうるさく感じられ、音量を下げようとリモコンを探す手が空中で止まる。


 向かいの席に座る彼の目線が写真に向かっていることに気づき、自分が場違いな存在だと改めて自覚する。


 醤油さしの蓋を開ける音が不自然に大きく響き、液体が垂れる小さな音が沈黙を破った。


 無言の夕食を終えると彼は、隣の和室へと向かった。

 襖の隙間から漏れる線香の匂いが鼻腔を刺激する。


 正座した背中が微かに震えているのが見え、胸の奥が熱くなった。

 自分も同じ姿勢で近づきたい衝動に駆られるが、敷居をまたぐ勇気が湧いてこない。

 代わりに膝の上でこぶしを握りしめ、指先の爪が掌に食い込む痛みで意識を保つ。

 テレビの音声が突然コメディー調になり、そのギャップに混乱する。


 彼が立ち上がり、振り返る直前に視線を逸らす。


「布団は轢いておいたからここを使って」

「は、はい...おやすみなさい...」


 かすれた声で挨拶すると、寝室らしい和室の襖をそっと閉めた。


 床の間に飾られた掛け軸の墨跡が闇の中で不気味に浮かび上がる。布団にもぐり込むと、押し入れの匂いと彼の残り香が混ざり合い、複雑な感情が渦巻いた。天井の木目模様が怪物の形相に見えてきて、まぶたを強く閉じる。


 枕元に置いたスマホのランプがちらちら点滅し始める。


 通知音を切っておいてよかった、と安堵しつつも、耳は別の方向に集中している。

 隣室から漏れる嗚咽が不規則なリズムで鼓膜を震わせ、喉の奥が詰まりそうになる。


 暗がりの中で布団を顎まで引き上げ、息苦しさと共に耐え忍ぶ。

 掛け時計の秒針音が次第に大きく聞こえ、心臓の鼓動と同期し始める。


 あの写真の家族が脳裏を掠め、今この家にいる自分の立場の異常さが骨身に染み渡る。涙腺が緩みかけるのを必死に堪え、代わりに歯茎を噛みしめる。


 畳のささくれが足の甲に当たり、ちくっと刺すような痛みを感じる。

 それが現実だと教えてくれる唯一の救いだった。

 夜明けまであと何時間だろうか。時計の文字盤が読めない距離にあることに初めて気づく。


 障子紙越しの光の輪郭がぼんやりと揺れる。


 足音が近づき、すぐそばで静止する気配。

 まぶたの裏側に白い閃光が走り、全身が硬直する。

 息を殺しているつもりでも、布団がわずかに擦れる音が響いたかもしれない。


「サナエ....」


 囁き声が耳元で溶ける。呼ばれ慣れない呼び方に背筋が伸びる。


 返事しようとして、声帯が石化したように動かない、代わりに寝返りを打つふりをして背中を向けた。


 布団の縁が腰に食い込み、痛いくらいに緊張している証拠だ。彼の体温が畳を通して伝わってくるような錯覚に陥る。


 掛け布団の隅を掴む指の力が無意識に強まり、シーツの皺が深く刻まれた。

 時計の針が午前二時半を指していることを瞼の裏で確認し、永遠に続くかのような長さを実感する。


 額に触れる手のひらの温もりが予想外の優しさで、涙腺が決壊しそうになる。


 父親の記憶がない自分にとって、これほど生々しい接触はなかった。


《お父さん》という単語が舌の上で転がりそうになり、慌てて飲み込む。


 代わりに肩を震わせて泣いているふりをする。

 嘘泣きがバレませんようにと祈りながら。彼の足音が遠ざかり、再び一人きりになる。


 撫でられた部分の毛髪が逆立っているのが分かる。


 枕に顔を押し付け、布地の匂いを嗅ぐ。

 柔軟剤の香りの奥に、微かな線香の残香が混じっている。


 隣の仏間から読経の声が聞こえ始め、お盆の時期だと今更思い出す。自分もこうして故人の代理になるかもしれなかったのだと、皮肉な運命を呪う。窓の外から聞こえる蝉時雨が、夜の深さを物語っている。

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