第3話
「ついたよ」
玄関先の門灯がオレンジ色に輝く一軒家の前で立ち尽くす。
表札に書かれた苗字が明らかに違う事に気づいても、足がすくんで動けない。
振り返った先に立つ彼のシルエットが暗闇に溶け込み表情が読めなくなった。
「こっここじゃないです‼」
震える声で抗議するも、声帯が思うように動かない。
鞄につけたうさぎのストラップを握る手に汗が滲む。
道路を走るトラックのヘッドライトが一瞬だけ庭木を照らし出し、葉陰に潜む虫たちの影を浮かび上がらせた。
彼が一歩近づいて来る気配に後ずさりしそうになって、門柱に背中をぶつけた衝撃で小さく悲鳴を上げた。
冷たいコンクリートの感触が背中全体に伝わり自分の居場所のなさを思い知る。
車内での充電では不十分だったスマートフォンの画面が暗くなり、最後の頼みの綱すら消えた。
「今日はもう遅いから一日泊ってくといいよ、朝になったら送っていくね」
扉の向こうから漏れる暖色系の明かりが廊下に細長い影を落としている。
靴を脱ぐ動作がぎこちなくなり、揃えたスリッパの位置を何度も直してしまう。
リビングらしき部屋のソファセットが整然と並び、壁際の観葉植物が不自然に大きい。
彼が上着をハンガーにかける仕草を横目で追いながら、時計の針が午前零時を回ったことを確認する。
「あの…本当に送ってくださるんでしょうか?」
疑いの言葉が口から飛び出しそうになり、慌てて飲み込む。
その代わりに「お邪魔します」と小さく呟いた。
テレビ台の上に並んだトロフィー群が妙に威圧的で、視線を逸らしたくなる。冷蔵庫の低い稼働音が静寂を破り、現実感を引き戻してくれた。この異常事態こそが紛れもない現実なのだと、胃が締めつけられる。
「ごはんの準備しておくからお風呂入ってきていいよ」
浴室のドアノブに手をかけた瞬間、湯気の熱気が頬を撫でていった。
シャンプーボトルのラベル文字がぼやけて見えるほど近くで凝視してしまう。
バスタオルの折り目が完璧すぎて、かえって使いにくい。
蛇口をひねる音が水音に変わる間、脱衣所に残された着替え用の衣服が気になった。サイズが明らかに大きすぎる。
袖を通すと案の定ぶかぶかで、肩幅の差が浮き彫りになる。鏡に映った自分はまるで着せ替え人形みたいだ。
湯船に浸かると水面が鎖骨の窪みに吸い込まれ、その冷たさに身体が縮こまる。換気扇の回転音が規則正しく響き、それ以外は完全な沈黙。この静けさが逆に不安を煽り立て、早く出なければという強迫観念に襲われる。タオルの端で濡れた髪の毛先を拭う動作が必要以上に遅くなった。
「あれ?早かったね、まだご飯の準備終わってないから...テレビ見ながらゆっくりしててよ」
リモコンのボタン配置を慎重に確かめながら電源を入れる。
画面いっぱいに映し出されたバラエティ番組の笑い声が、この場にそぐわない明るさで響いた。
クッションの弾力が予想以上に心地よく、思わず深く沈み込んでしまう。テーブルに並べられた夕食メニューはどれも美味しそうで、お腹がくるると小さく鳴る。
「あ、あの…お手伝いしましょうか?」
立ち上がった拍子にスリッパが滑り、よろめきそうになって慌てて食器棚に掴まった。彼の背中越しに鍋をかき混ぜる後ろ姿が見える。
エプロンの紐が蝶結びになっていて、意外な几帳面さに感心する。包丁がまな板を叩くリズムがリズミカルで、まるで料理番組を見ているよう。
ふと気づけば、警戒していたはずの相手に親しみすら覚え始めている自分がいる。
それがなぜだかとても危険な気がした
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