第6話 サイドストーリー:火を灯さない煙
宿屋の主人の朝は早い。
厨房で大きな鍋に火をかけ、昨晩から仕込んでおいた骨付き肉の端切れと根菜を放り込む。リステアの冬は、スープの湯気が何よりの贅沢だ。
ふと、階段が小さく軋む音がした。
時計を見ずともわかる。ルイだ。
奴はいつも、夜明け前の最も冷え込む時間帯に起きてくる。
「……ルイ、また朝からけむりか。体中の毛穴から煙草の匂いがしてやがるぞ」
俺がぶっきらぼうに言うと、階段を降りてきたルイは「ふっ」と短く鼻で笑い、いつもの端の席に腰を下ろした。手元では、手慣れた所作で紙と葉が丸められていく。
俺はかつて、冒険者だった。
大層な名前こそ売っていないが、それなりに修羅場も潜ったし、多くの「強者」も見てきた。だからこそ俺には分かる。目の前でくたびれた顔をしてスープを啜っているこの男の異質さが。
ルイがこの『銀介の宴』に居着いて、もう十年近くになる。最初はどこにでもいる食い詰めた中堅冒険者だと思っていた。仕事は選ぶし、報酬には無頓着。酒代がなくなれば渋々薬草を摘みに行く。そんな向上心の欠片もない男だと。
だがある時気づいた。奴が通り過ぎた後の廊下には冬場だというのに僅かな「熱」が残っていることがある。それも焚き火のような温かな熱ではない。鋼を叩き鍛える鍛冶場の奥にある、あのヒリつくような万物を溶かす熱だ。
「おい、ウィスト。今日のスープ、また塩が強いぞ」
「うるせえ。味が薄けりゃ客が寝ちまうんだよ」
そんな軽口を叩き合いながらも、俺は奴の手元を盗み見る。指先の皮膚は硬く、数え切れないほどの微細な火傷の痕がある。剣士のタコとは違う。それは「熱」に抗い続けた者の手だ。
先日、聖教会のバウトラントとかいう騎士団長が乗り込んできた時、俺の直感は確信に変わった。あの時、バウトラントが放っていた闘気。並の冒険者なら膝にくるような圧力を、ルイは煙草の煙と一緒に事も無げにいなしていた。
この辺境の何の変哲もない日常の中に、自分の「力」を埋めて隠そうとしている。先日、奴が持ってきたワイルドボアのバラ肉。解体した断面を見て俺は確信した。
細胞のひとつひとつが、まるで焼印でも押されたように一瞬で封じられていた。
血の一滴も漏らさず、旨味をすべて肉の中に閉じ込める。あんな芸当、魔法使いにだってできやしない。超高温の刃を刹那の速さで滑らせなければ、あんな切り口にはならない。
俺は熱々のボア肉の塩焼きを皿に並べながら、ふと思う。
ルイ、その火を使って何を焼き払ってきた?
「……なあ、ルイ。露天商の親父が言ってたぞ。新しいエールが入ったってな。ツケをこれ以上増やさないなら一本開けてやってもいい」
俺がそう言うと、ルイは最後の一切れを口に運び満足そうにエールを流し込んだ。
「……そいつぁ楽しみだ。薬草摘みの報酬で、精々機嫌を取らせてもらうよ」
奴はそう言って、再び腰の刀を揺らしながらギルドへ向かった。その背中は、どこまでも平々凡々な冒険者そのものに見える。だが俺には見えるんだ。奴が歩いた後の石畳から、僅かに立ち上る陽炎が。
俺は厨房の火を強めた。
この宿の名は『銀介の宴』。かつての仲間たちが、戦いに疲れ果たして戻ってきた時に温かい食事で迎えてやるために付けた名だ。
もし、いつかルイの隠している「嵐」がこの街を飲み込もうとしても。俺ができるのは、せいぜい奴の好みのスープを用意して帰りを待ってやることくらいだろう。
「……ったく。あんな化け物うちに泊めるんじゃなかったぜ」
俺は独り言を呟き、自分用に淹れた苦い茶を啜った。リステアの冬は例年以上に冷え込みが厳しいが、ルイという男がその「熱」を鞘の中に隠し続けている限り、この穏やかな日常を続けてやるのが、宿主としての俺の仕事だ。
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