第5話 これだからやめられない
「……西の草原の薬草は、いったん保留にするか」
ギルドの掲示板の前で、ルイは独り言をこぼした。
しばらくは平穏な日々が続いていたが、ここ数日どうにも落ち着かない。背後にまとわりつくような感覚――バウトラント配下の騎士たちの隠しきれない気配がルイの平穏な日常に薄い膜を張っている。
「お、ルイさん。今日は薬草じゃないんですか?」
受付のエミが、山積みの書類から顔を上げて声をかける。
「ああ。エミ、例の『森の走り屋』の依頼はまだ残ってるか?」
「ワイルドボアの討伐ですね? 畑を荒らす害獣駆除の扱いですけど……ルイさん、これ報酬は安いですよ?」
「報酬はどうでもいい。……あいつのバラ肉は今の時期が一番脂が乗ってるからな」
ルイは手慣れた手つきで依頼書を抜き取った。
この依頼には討伐の証拠品である牙の納品に加え、肉の買い取りオプションがある。だがルイの目的は、納品分を差し引いた後に手元に残る極上品。
リステアの北に広がる『霧引きの森』。
ルイは木々に囲まれた獣道を、音もなく進んでいた。
その背後、数百メートル離れた樹上の陰に、銀の甲冑の光を抑えた騎士が潜んでいる。ルイはその位置を正確に把握しながらも、あえて「気づかぬふり」を通していた。
(……律儀なこった。だが、そこからじゃこの手元までは見えねえぞ)
ルイは溜息とともに、懐から取り出した乾燥した葉を紙で巻き、指先で器用に火を灯した。少し辛味の強い新種の葉の香りが冬の森の冷気に混じる。
「……ふぅ。猪を追うには、この匂いは少しきついか」
そう呟いた瞬間、茂みの奥からドスドスという重い足音が響いた。
体長三メートルはあろうかという巨体。全身を針のような剛毛で覆い、二本の巨大な牙を突き出したワイルドボアが鼻息荒く姿を現した。
ボアはルイの姿を認めると短い咆哮と共に地面を蹴った。
その突進は、並の冒険者なら盾ごと粉砕されるほどの威力。だが、ルイは煙草を咥えたまま。
シュィィンッ!
抜刀の音は空気を鋭く切り裂く音に近い。
ルイは刀身をすべて引き抜くことはなかった。
鞘の内側で物理限界まで加速された刃はわずか半身ほど姿を覗かせ、閃光すら放たぬまま切り裂いた。
遠くから見守る騎士の目には、ルイがただ身を翻して獲物とすれ違っただけにしか映らない。
熱を帯びた刃は硬い剛毛を焼き切り、筋肉にストレスを与える暇さえ与えず、一瞬で頸動脈を断ち切った。
ボアは声もなく、数歩先で静かに崩れ落ちた。
「よし、断面も綺麗だ。熱で表面が焼けて、旨味が逃げない」
ルイは騎士には悟られることなく、手慣れた手つきで解体を始めた。
納品用の牙と毛皮を分けると、次に慎重に「腹側の肉」を切り出す。
雪のように白い脂身が冬の澄んだ空気の中で艶やかに光った。
夕暮れ時。
ルイは宿屋『銀介の宴』の厨房に半ば強引に入り込んでいた。
「おいおい、勝手に厨房に入るなよ」と文句を言うウィストの前に、ルイは丁寧に布で包んだ肉を置いた。
「ウィスト、ワイルドボアのバラ肉だ。半分はお前にやる。残りを……『あの焼き方』で頼む」
「……ほう、こいつはいい肉だ。お前、またやったな? 断面が最初から炙ったみたいになってやがる」
「……味が落ちない工夫だよ」
一時間後。
カウンターには厚切りにしたワイルドボアのバラ肉をシンプルに「塩」のみで炙り、森で摘んだ香草を添えた一皿が並んでいた。
「……最高だな」
脂の甘みが塩によって引き立ち、口いっぱいに広がる。香草の爽やかさが後を引く。
ルイはそれをエールで流し込み至福の溜息をついた。これこそが過酷な現実を忘れるための燃料だ。
そういえば露天商が新しいエールを入荷したとか言ってたな、とぼんやり思い出しながらルイは静かに次の煙草を巻き始めた。
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