1-5-8.四月十六日

「でも、志絵莉しえりさんはもう一人暮らししてるんでしょ? もうお父さんのところからいなくなっちゃってるんじゃ……」


「……そういうことじゃないんだ、一紀。お前もそのうちわかる」


 一紀かずきくんがそれを理解するのはまだ先になるだろう。やはり彼は、根本的に“愛”に関する部分が欠けている。愛がないとは言わないが、それが愛であると、理解できないのだろう。

 自分の中にある概念に名前を付けて、枠組みを作っていないから、その形はいくらも変わってしまい、定まらない。愛というフィルターを持たない彼の言動は、無邪気な子供のように、時には人を救い、時には人を殺す。そんな自覚もなく。


「志絵莉ちゃん、一人暮らししてるのね~。大変な時は、いつでも頼ってくれていいからね。おばちゃんにできることは何でも手伝ってあげるから」


「ありがとうございます。でも一年過ごしてみて、だいぶ慣れました。もし大変な時は、一紀くんをお借りすることにしますね」


「ええ、ええ。もう存分に使ってあげて! あんまり気が利かないかもしれないけど、思いやりはある子だから」


 お母様からの評価では、一紀くんは思いやりのある子なのか。タカちゃんの方が、一紀くんの本質を理解しているような気がする。お母様は専業主婦のようだし、一緒にいる時間はお母様の方が長いはずなのに。


 すると、お父様が少しぶっきらぼうな口調で尋ねてくる。


「実家は遠いのかい? 受験で?」


「はい。実家は小石原こいしはらなのでそんなに遠くはないんですが、通うとなると少し遠いかな、と。皆さんはずっと船迫ふなさこですか?」


「そうだね。実は私たち、中学の同級生なんだよ。それがいつの間にか、こんなに大きな息子ができちゃって。彼女まで連れてきたもんだから、時間が経つのは早いねぇ」


 なんて、お父様は惚気混じりに話す。本題に入る前のこうした無駄話の中にも、何かヒントになるものがあるかもしれないと思って聞いてはいたが、正直しんどいな。情報量が多すぎる。全部を気にしていたらキリがない。


「小学生の……あれいつだったっけ、引越しもしたけど、結局 船迫から出なかったよね。よっぽどこの町が気に入ってたの?」


 一紀くんが懐かしそうに言うと、お母さんも思い出を噛みしめているように温かい眼差しを彼に向けた。


「三年生の時だね。まあ、馴染みのある町だしねぇ」


 小学三年生の時期に引越し、か。しかも同じ町の中で。転校はしなかったのだろう。転校が目的の引越しなら、町から出ていくはずだ。住居に何か問題があったか、近隣とのトラブルか。考えすぎないようにはしたいけれど、気には留めておこう。


「わたしも結局 翠泉すいせんに戻ってきちゃいましたから、わかる気がします」


「あれ、志絵莉さん、高校は都立じゃなかったっけ?」


「そうだよ。中学が翠泉の付属中だったんだ。その頃はさすがにまだ受験には興味がなかったんだけど、お父さんの強い薦めで受験したんだ。でも高校はお父さんの母校に行きたかったから、その後の大学はどうしようかと思っていたら、気付いたらまた翠泉に入ってた、という感じかな」


 あの時のお父さんは珍しく積極的で、乗り気じゃないわたしを説得してでも受験させた。どうしても、わたしに翠泉に入ってほしかったらしい。その割に、高校は翠泉に行かないって言った時は、特に反対もされなかった。翠泉の付属中から石城いしき高校なんて、受験校としてはランク下げもいいところだし、そもそも女子校にしてほしいとか言われるのかと思っていた。そのために翠泉に入れたんだと思っていたし。本当は、どういうつもりだったんだろうか。


「一紀くんは、“あにまる保育園”の後はずっと公立? あ、大学は私立か」


「うん。小中高と船迫から出てないよ。あ、大学もね」


 ようやっと“あにまる保育園”の話題が出たことに、一紀くんからも思わず微笑みが漏れる。この晩餐会におけるわたしの目的を知っている彼からすると、ごく自然的に、ようやくこの話題までたどり着いたことに驚嘆すらしているようだった。


「あら、“あにまる保育園”! 懐かしい名前ね~。志絵莉しえりちゃん、“あにまる保育園”知ってるの?」


「実は、今度 実習で行くことになっていまして。一紀かずきくんが“あにまる保育園”に通っていたと聞いて、実習の前にお話を聞けたらと思っていたんです」


「そうだったの! 実習だなんて大変ね~。将来は保育士になるの?」


「将来どうするかはまだ考えていないんですが、選択肢の一つではあるかなと思っています」


 本当はそんなつもりはさらさらないが、わたしの学科についてあれこれ説明するのは面倒なので、ここは微笑みを作って流すことにした。せっかく“あにまる保育園”に話題を移せたんだから、ここで保育士の話とか将来の話とかに話題を変えられる前に、“あにまる保育園”の話を深掘りしなくては。


「一紀くんが通い始める頃って“あにまる保育園”は開園してまだ間もなかったと思うんですが、当時から結構 評判が良かったんですか?」


「そりゃあもう! 特に当時はすごかったわよぉ~。入園希望者が多過ぎて、抽選になっちゃったくらい!」


 そんなに人気だったのか。新設ともなれば施設は綺麗だろうし、多少人気になってもおかしくはないが、そこまで人口が多いわけでもない船迫ふなさこで抽選にまでなるなんて。それだけ多くの人が、“あにまる保育園”に期待していたのだろう。そしてさすがに今は抽選にはならないものの、未だに人気が衰えないのは、その期待に応えてくれた、と多くの保護者が実感しているからなのだろう。


「それでも、一紀は動物が好きだったから、お願いしてみてもいいんじゃないかって、私が薦めたんだ。早くから親と離れる時間を作るのもいいと思ってね」


「今でこそ専業主婦だけど、昔はまだこの人の稼ぎも少なかったから、おかげさまで私もパートに出れて、何とか今こうして私立大学に行かせてあげられたわ」


 大学どうこうの話は因果関係として少し大げさだが、後に引っ越したという話もあったし、当時は経済的に余裕のない中での育児だったのは間違いないのだろう。引越しの理由は、家賃を安く済ませるために狭い部屋を借りていて、一紀くんの成長と経済的な安定を鑑みてのことだったのかもしれない。


「あ、でも評判と言えば……少し妙な噂を聞いたこともあったわね」


「……妙な噂、ですか?」


 そう、これだよこれ。こういうのが聞きたかったんだ。

 やや怪訝そうな様子を繕って聞き返したが、わたしの胸中は俄然 好奇心が膨れ上がっていた。


「なんか、一部の子が特別扱いされてるんじゃないかってことだったのよ。今はどうだか知らないんだけどね」


「特別扱いって言うと、保育士さんから贔屓されてる、とかですか?」


 たぶん違うが、話を聞き出すためにあえて見当違いなことを聞いてみる。

 一度ここで話を区切ったということは、それ以上を伝えようとは考えていないのだろうと思えた。わたしは知らなくていいことで、知ってほしくないことだったりするのかもしれない。でも見当違いなことを言われれば、それを訂正したくなる。わたしが誤った認識を持ってしまうのを避けようとするだろうと思ってのことだった。


「ああ、そうじゃないの。先生はみんないい人だったわ。ただ……何て言うのかしらね……。特定の子が動物と一対一で過ごす時間とか、そういう場所を用意してる、みたいな。偶然のことだったのかもしれないし、何でかはわからないけど、保育園側がそうなるよう便宜を図ったんじゃないかって噂があったのよ」


 “噂”とは言うが、恐らくもっと確度の高い情報なのだろう。言葉を濁しているのはわからないからではない。言いにくいからだ。少なくとも、将来的に保育士も選択肢に入れていて、これからその保育園に実習に行くという息子の彼女わたしに話したいような話ではないのだろう。

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