1-5-7.四月十六日
するとまた、玄関のドアが開く音がした。お母様は家にいるはずだから、これはお父様だろうか。
「わ、本当に父さん帰ってきた」
「お父さん、先にお風呂入っちゃってー」
挨拶しに出ていこうと思ったが、そんな間もなくお父様の足音は一紀くんの部屋の前を通り過ぎて、どこかへ行ってしまった。さすがに風呂場に押しかけてまで挨拶するのははしたない。また後でにしよう。
「一紀くんは、お父様とは仲悪いの?」
「悪いってわけじゃないんですけど……家に彼女が来てるなんて、絶対揶揄われるじゃないですか」
あー……仲良いってことね。
しかしこれで役者は揃った。お父様からもお母様からも聞き出せる。ついでに、ご両親の前だと一紀くんも言うことが変わるかもしれない。そうして彼の本心を確かめることもできる。彼の言うことをどの程度信用していいのか、確認しておいた方がいい。この情報は、わたし一人だけのためのものではないのだから。
しばらくしてお母様がわたしたちを呼びに部屋にやってきた。夕食の準備ができたらしい。
「遠慮せずたくさん食べていってね」
お母様に席に着くよう促されるので、その前にお父様に挨拶をしておこうと、既に席に着いていたお父様の元へ寄っていった。
「はい、ありがとうございます。あ、初めまして、お父様。
「こちらこそ、一紀がお世話になってます。ご丁寧にどうも。私、タカちゃんと申します」
初対面でそんなお茶目な自己紹介をされて苦笑いしかけたところを、お母様がフォローしてくれた。
「あんた、やめなさいよ。志絵莉ちゃん、困ってるじゃない」
四人掛けのダイニングテーブルに、
「いただきます」
真っ先にサラダに手を付けるわたしに、一紀くんはわざとらしく言う。
「志絵莉さん、から揚げ美味しいですよ、食べてみてください。冷めないうちにぜひ」
わたしが猫舌だと知っていて、あえての発言だ。どうやらご両親の前で、どうにかしてわたしの化けの皮を剥がしたいらしい。普段わたしが彼に意地悪しているから、その仕返しのつもりなのだろうか。
「へぇ、そうなんだ。もちろんいただくね。でも色々食べてみたいから、順番に」
「あ、そうか。志絵莉さん、猫舌でしたね。俺が冷ましてあげますから、どうぞ」
と、少しばかりふぅふぅしただけのから揚げを、わたしに差し出してくる。その程度で食べられるほど冷めたわけないでしょう。猫舌を舐めるのも大概にしてもらいたい。絶対熱いに決まってる。しかもこの構え、わたしにあーんさせる気だ。ご両親の前で、恥ずかし気もなく。
しかし、彼の作戦は見事だ。これでわたしがから揚げを拒めば不審がられてしまう。特にお母様には、さっき一紀くんとの距離感の近さを見せてしまった後だから、このあーんを拒否するのは悪手だ。そもそも友達付き合いすらろくにできないような息子が、大学生になって数週間程度でできた初めての彼女を早々に家に呼んできたのだ。しかも相手はお嬢様校の年上ときた。いくら何でも、何の警戒もされていないはずはない。
から揚げが実は苦手と言う手もあるが、苦手なものはないと言ってしまったし、作ってくれたお母様にも悪い。恥ずかしいから、という理由であーんを拒むことはできても、結局から揚げを食べなければ、やはりそれは不審に思われる。はっきり言って、今この一瞬で考え得る限りでは対抗策は思い付かなかった。詰んだのだ。
わたしは意を決して、一紀くんが差し出すから揚げの半分くらいに噛り付いて、すぐにちょっとだけ口を離す。――熱い。噛めない。でもここで退くわけにはいかない。もう勢いでどうにかするしかない。
もう一度噛んで、熱々の肉汁とともに肉の塊が口の中に入る。口元を手で覆いながら、噛むのと熱を逃がすのを同時に行う。いや、無理、熱い……!
「あれ、まだ熱かったですか?」
一紀くんが白々しく聞いてくる。しかも彼の箸に残ったわたしが半分齧り取ったから揚げを、ほいと自分の口に放り込み、美味しそうに咀嚼している。その様子をまざまざと見せつけられると、彼の言葉はまるで“こんなのが熱いんですか?”と煽っているようにも感じられる。
ムカついたので、わたしは机の下で彼の脇をつねってやった。でもわたしも一紀くんも、ご両親にはそんな様子を気取られないように表情を繕う。
「美味しい、です……!」
「良かったわ~! お口に合って。これが一紀がずっと口にしてきた味だから、志絵莉ちゃんには知っておいてもらって損はないと思って!」
それはさすがに気が早いだろう。というよりこのお母様、わたしのことは警戒していないのだろうか。むしろお母様の方から、わたしを逃がさないと言わんばかりに距離を詰めてくる。
「そういえば、志絵莉さんって料理とかするんですか?」
すっかりいつも通りの調子に戻った一紀くんは、思い付いたように聞いてきた。今度はもう、わたしにボロを出させるつもりはないらしい。
「毎日じゃないけれど、するはするよ。実家にいた時はわたしが作ってたから」
「あら、すごいじゃない! 料理はお母さんに教わってたの?」
お母様のその問いに、一紀くんは申し訳なさそうな顔でこちらを見た。こんなの慣れているからどうってことはないのに。せっかくだし、ここでわたしの家族の話をして、その流れで一紀くんの家族の話から“あにまる保育園”の話に繋げようか。
「実はわたし、お母さんがいなくて……父子家庭なんです」
「そうだったの……ごめんなさいね、無神経に聞いちゃって」
お母様も申し訳なさそうな顔をして謝ってくれた。一紀くんのそれによく似ている。やはり親子なんだな。
「一紀、この子はきっとお父様の大事な宝物なんだから、絶対幸せにするんだぞ」
お父様も気が早く、大真面目な顔でそんなことを言い出した。何かもう結婚するみたいな空気なんですけど。全然結婚とかしないんですけど。一紀くんも、そんな大げさな、と苦笑いしている。
「いやな、もちろん一番大事なのは奥さんだ。父親である前に、一人の男だからな。だけど奥さんがいないとなれば、娘が一番大事な存在になるのさ。最愛の奥さんがいなくなって、娘まで自分の元からいなくなって、しかもどこの馬の骨とも知れない男のものになるとなれば、さぞつらいだろう。奥さんがいれば、まだ違ったとは思うけれどな……」
お父様には悪いが、恐らくお父さんはそれほど深くわたしを愛してなどいない。多少なりとも愛を持ってはいるだろう。だけれどかけがえのない存在、とまでは思っていないのだと思う。ずっと何かを追い求めて、探して、縋っている。それはわたしじゃない。
しかしお父様の言葉で、今まではまるで理解できなかったお父さんの心が、少しだけ理解できた気がした。やはりお父さんは今でも、お母さんを愛しているのだろう。娘のわたしよりも。お父さんが追い求めている存在こそ、最愛の人なのだろう。
娘よりも妻を優先したのなら、母親のことを話さないという娘にとって何の利にもならない行動を取った理由がそれになるのだろうか。お母さんのことを話してくれない理由は、お父さん側の問題じゃなくて、お母さんそのものにあるということだ。お母さんが、自分のことは娘に話してはならないと言ったなら、お父さんはその通りにしてしまうかもしれない。
そうだとして、問題は何故お母さんを愛していると娘に母の話ができないのか、だ。それを解消しないと、このまま一生話してもらえないだろう。
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