2.暴かれた秘密

「……手、放してくれないの?」


 手首を掴んだままの僕に、彼女は戸惑うような微笑みを向けてくる。そんな顔も、やはり美しい。どうしてそんな顔をするんだろう。僕が気付いているということを、彼女も気付いているはずなのに。


「……隠したものを、見せてくれるなら」


 少しの沈黙の後、長いため息を吐いて、彼女は重い口を開いた。その溜め息には、どんな意味が含まれているのだろう。彼女と話したことのない僕には、彼女の考えていることはわからない。


「わかった。降参よ。答えられることにはちゃんと答えるから、満足するまで詰問きつもんするといいわ」


 僕はその言葉に、掴んでいた力を緩めて一歩下がる。それでも、手を伸ばせば届く距離。万が一彼女が逃げようとしても、阻止できるだろう距離だ。


「……何をしていたのか、聞いてもいい?」


「んー……そうねぇ……。君には、わたしが何をしていたように見えた?」


 どうしてそんなに平然としていられるんだ。どうしてそんなに余裕でいられるんだ。最初から僕のことなど相手にならないと思われているのだろうか。僕から尋問を受けている立場の北川きたがわさんに、質問返しをするだけの余裕が何故あるのだろう。

 いや、彼女は今、この瞬間を“たのしんでいる”。僕にはそう映った。


「……普通に、下校していた。途中までは。そこで人とぶつかって…………何かを刺した」


 人が多かったから、ぶつかるくらいならままあり得ることだ。だけど彼女は、意図的にぶつかったように見えた。その目的は、ぶつかった際に紛れて本当の目的を遂行するため。


「何かって?」


「……注射器、みたいに見えた」


「濁さなくていいよ。はっきりそう見えたから、わたしを引き留めたんでしょう?」


 たった一瞬のことだ。彼女を注視していた僕だから気付けた。他の人はまったく気付かなかっただろう。彼女が、まさか——。


「通りすがりに、何か、液体を、注射した」


 言葉にしてしまえばそれが事実として確定してしまう気がしたけれど、僕が意を決して切れ切れにそう絞り出せば、彼女は満足げにポケットから注射器を取り出してみせた。間違いない。僕が見たものだ。手のひらに収まるくらいの小さな注射器。やはり既に使用された後で、中に液体は残っていない。


「そんなにわたしのことを見てたなんて。感激しちゃうよ」


 ふふっと愛らしく笑う北川さん。できればその笑顔は、もっと違う時に見たかった。こんな時でも、やはり彼女は可愛いと思ってしまう。


「……あの人、どうなるの?」


「んー……早いうちに死ぬんじゃないかな」


「どうしてあの人を? 誰でも良かったの?」


 そんな僕の問いを、北川さんはふっと口元を緩めて一蹴した。


「まさか。上杉うえすぎくんは知らない? 彼が何者なのか」


「うーん……あまりよく見てなかったし」


 ずっと北川さんしか見ていなかったから、被害者の男などまるで意識の外側だった。思い出そうとしても、どんな背格好で、どれくらいの年齢で、ましてや本当に男だったのかすら、おぼろげではっきりしない。


「彼は小野寺おのでら浩一こういちという人でね。駅前のスーパーでレジ打ちのアルバイトをしている未婚の三十三歳。明るみにはなっていないけれど、自分の性犯罪の様子を録画し、ネットで売りさばくのを副業にしているのよ。嘘だと思うなら、数日後にニュースを見るといいよ。彼が死んだ後、警察が自宅を調べれば証拠がいくらでも見つかるだろうから、すぐにニュースになると思うよ」


 彼女がどうやってそれを知ったのかは知らない。あまり考えたくはないことだが、もしかしたら彼女自身、被害に遭ったのかもしれない。だからって、殺すのはどうなんだ。……普通の人なら、そう言うのだろう。


「どんな事情があったにせよ、今 君の目の前にいる女は人を殺した。人を殺すのは悪いことだよね。それをわかっていて実行した。悪いとわかっていて、悪いことをしたんだ。そんなわたしを前にして、君はどうする? 何を思う?」


 試すように言う北川さん。彼女は僕にどうされたいのだろう。どうしてほしいのだろう。僕は彼女を、どうしたいのだろう。どうすべきなのだろう。


 悪いことをしているとわかっている北川さん。なら、その北川さんを糾弾し、罪を償わせ、正すことが良いことなのだろうか。


 いや、正すって何だ。彼女は間違っているのか? 僕の価値観で、彼女の価値観を正すのか? わかっている。法律だとか倫理観だとかで彼女を正すことはできる。でも僕と北川さん、二人だけの間には、法律も何もない。今この場で絶対なのは、僕の価値観と、北川さんの価値観だけだ。

 北川さんの価値観を僕の価値観でもって否定するのは、正しいとは思えない。


 元より僕は、彼女を責めようとは思っていない。盲目的に彼女を擁護している自覚はある。それでも僕は、彼女が間違っているとは思わない。


「僕は、君が間違っているだなんて思わないよ」


「……どうしてそう思う?」


「人を殺すこと、それ自体は悪いことだとは思う。でも、理屈で人を殺すことは、間違いではないと思う。少なくとも、君はそうしたい、そうした方がいい、そうするべきだと考え、判断して行動した。そこに至るまでにはたくさんの過程があって、最終的にその決断になった。それはもう、君の価値観そのものだと思う。だから僕は、君のその価値観を否定したくない」


 自分でもおかしなことを言っていると思う。到底、社会に受け入れられる考えではないだろう。僕のこの考えを、彼女はおかしいと言うかもしれない。堪えきれないように、しかしながら静かに笑う彼女を見ていると、尚更そう思うのだった。


「上杉くん、ちゃんと話せるじゃない」


 彼女が笑っていたのは、意外にもそんなことだった。確かに僕は、これまで彼女とまともな会話ができた試しがない。今日暑いね、と言われようものなら、えっ、あ、はい、というようにぎこちなくイエスかノーかを返すことしかできなかった。でも今は、緊張はしていても、話したいことをちゃんと話せている。思い返してみれば、自分でも驚くばかりだ。


「じゃあ、そんなわたしの秘密を知った君はどうする? わたしを警察に突き出す? これをネタにわたしを脅迫する? それとも君がわたしを殺すかな? だってそうだよね。殺人犯の犯行を目撃してしまった君が、わざわざ犯人に、私は見ましたって言ってるんだもん。口封じに殺されてもおかしくないよね。それなら君は、正当防衛としてわたしを殺すかもしれないね。そうでしょう?」


 彼女のその挑発するような視線と口調に、手に汗が滲む。これは暗に、僕の方が脅迫されているのではないだろうか。もし他言すれば、お前を殺す。他言しないのなら、脅迫でも何なりするがいい、と。

 いや、逆に考えれば僕は今、対等な立場で彼女と取引ができるのだろう。互いに相手を抹殺できる口実も手段もある。ただそれは、互いにとっても望まない展開のはずだ。だからこそ、どう折り合いをつけるかという、交渉だ。


「先に言っておくけれど、わたしは自首する気はないよ」


「僕も、北川さんを警察に突き出す気はないよ」


「……本当に? わたしが何者か、気にならないの? これまでわたしがしてきたこと、その方法、その理由、目的。そして、これからわたしがしようとしていること。それらを知っても、君はわたしを許せる? 警察に突き出さずにいられるかな?」


 それを知るということは、彼女と本気で向き合う覚悟が要るということだ。本当は知りたくない自分もいる。知ってしまったら、彼女の言う通り、彼女を許せなくなってしまうんじゃないか。そうも思う。

 だけれど、北川さんが何者であろうと、知らなければ彼女とはそれきりになってしまう気がした。僕は今、彼女へ一歩踏み出す機会を与えられている。クラスの誰にも踏み込めない彼女の領域に。僕だけが、与えられている。今を逃したら、二度と手に入らない。なら、もう答えは決まっている。


「君が何者か、もちろん気になるよ。教えてくれるなら、教えてほしい。ただ、それを知っても僕の答えは変わらない」


 僕の答えは彼女にとって予想外だったらしく、その大きな目を丸くさせて、しかしすぐに不敵な笑みを湛えた。


「そうだねぇ……“トリカゴ”の一番偉い人、って言えば、わかってもらえるかな?」


 その一言は、色んな事情を飲み込ませるには充分すぎた。

 もう、後には退けない。

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