最終章:麺環
強烈な白い光に視界を奪われ、美咲が次に目を開けたとき、そこにはいつもの「来々軒」があった。
鼻を突くラードの焦げた匂い。湿り気を帯びたコンクリートの床。
換気扇がカラカラと低い音を立てて回り、テレビからは昼下がりのニュース番組が流れている。
美咲は、自分がカウンターの席に座っていることに気づいた。
手元には、食べ終えたばかりの空のどんぶりがある。
「……あれ?」
彼女は自分の記憶を確かめるように、辺りを見回した。
無限に広がる鏡のような空間も、光を放つ麺の束も、どこにもない。そこにあるのは、煤けた壁に貼られた「冷やし中華、始めました」の黄色い紙だけだ。
厨房では、李さんが黙々とどんぶりを洗っている。
その背中は、昨日までと何も変わらない、少し丸まった初老の男のものだった。
「……李さん」
美咲が掠れた声で呼ぶと、李さんは振り返らずに「なんだ」と応じた。
「私、今、すごく不思議な夢を見ていた気がします」
李さんは手を止め、洗ったばかりのどんぶりを棚に置いた。
「夢か。腹が膨れると眠くなるからな」
彼はそう言って、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その目は、深い静寂を湛えたままだが、どこか清々しい色をしていた。
「お客さん。麺ってのはな、一本に見えても、実は無数の粒が集まってできてる。それを練って、伸ばして、畳む。そうやって一本になったものを、あんたは今、食べたんだ」
李さんは、カウンターに置かれた美咲の空どんぶりを下げた。
「混ざっちまえば、元が何だったかなんて関係ねえ。大事なのは、今、あんたの腹の中にそれがあるってことだけだ」
美咲は、自分の腹の底が、じんわりと温かいことに気づいた。
それはただの満腹感ではない。バラバラになりかけていた自分の現実が、あの「鍋」の中で一度練り上げられ、もう一度強固に結び直されたような、確かな手応えだった。
「お父さん、お釣り」
帳場から、春美さんが静かに声をかけた。
彼女の手元にあるのは、何の変哲もない、使い込まれた電卓と黒い表紙の帳簿だ。彼女は淡々と数字を書き込み、ページをめくっていく。そのリズムは、この世界の時間を刻む心音のように正確だった。
美咲は代金を支払い、店の外へ出た。
外の空気は、驚くほど澄んでいた。
大学の方角を眺めると、地下の研究室があるあたりが、心なしかいつもより静かに見えた。同期の男が発していたあの病的な冷気も、今はどこか遠い場所で正しく処理され、凪いでいるような気がした。
美咲は歩き出し、ふと自分の足元を見た。
歩道に落ちる自分の影。
それは、重なることもなく、ただ一つだけ、くっきりと地面に伸びていた。
だが、彼女は知っている。
その一つの影の裏側に、あの李さんが切り捨て、あるいは練り込んだ、無数の「あり得たはずの自分」が潜んでいることを。
世界は、そうやって誰かの「調理」によって、危うい均衡を保ちながら回り続けている。
「……ごちそうさまでした」
美咲は誰に言うでもなく呟き、日常の群衆の中へと溶け込んでいった。
背後で、来々軒の引き戸がガラガラと開く音がした。
また新しい客が、あの幾重にも折り畳まれた「麺環」の中へと足を踏み入れたのだろう。
李さんが鍋を振るカン、カン、という小気味いい音が、午後の街角に、一定のリズムで響き渡っていた。
来々軒、異常無し curry @pikadourei
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