第六章:鍋と材料

その夜、美咲は眠れなかった。

というより、自分の居場所がどこにもなかった。


​一度戻った大学の地下研究室は、もはや人間が留まり続けられる環境ではなくなっていた。同期の男が放つ冷気は、物理的な温度を奪うだけでなく、美咲の「今、ここにいる」という確信を少しずつ削り取っていく。彼がキーボードを叩くたびに、部屋の酸素が薄くなり、壁の輪郭が震え、自分の存在がただのエラーメッセージとして処理されていくような恐怖。


逃げ場を失った彼女は、凍りついた指先を抱え、夜の街へと弾き出された。

​気づけば、彼女は深夜の道を歩いていた。


たどり着いた来々軒は、営業終了後のはずなのに、窓から見たこともないほど白く、鋭い光が漏れていた。その光だけが、今の自分の「ズレ」を肯定してくれる唯一の指標に見えた。


​引き戸には鍵がかかっていない。美咲がそっと扉を押し開けると、そこにはもう「店」はなかった。


​カウンターも、テーブルも、煤けた壁も、すべてが磨き上げられた鏡のように光を反射し、上下左右の概念を失った無限の空間へと変貌していた。


​「……李さん?」


​美咲の声が、何重にも重なって反響する。

空間の中央には、李さんが立っていた。彼はもう中華鍋を持っていない。ただ、両手を広げ、空中に浮かぶ無数の「麺のような光の線」を、素手で手繰り寄せ、折り畳んでいた。

​それは調理というより、織物を編む作業に近かった。


李さんが一本の光の線を折り曲げるたびに、空間の奥から「ガラガラ」と現実が組み換わる音が聞こえる。


​「……いらっしゃい」


李さんは振り向かずに言った。その声は、どこか遠い場所から届いているように聞こえた。


「剪定が間に合わねえんだ。色々と、ここへ流れ込みすぎてやがる」


​美咲が足元を見ると、そこには排水溝に消えたはずの「ゴミ」が山をなしていた。

それはただのゴミではない。

「別の選択をした美咲」の記憶、「別の人生を歩んだ李さん」の影、そして、あの研究室で同期の男が吐き出した「冷気」。

それらが半透明の層となって、足元で澱んでいる。


​「これ、全部捨てなきゃいけないんですか?」


美咲の問いに、李さんは初めて顔を歪めた。


​「捨てるんじゃねえ。……混ぜるんだ」


​李さんは、空中に浮く光の束を、強引に一つにまとめ、目に見えない巨大な「鍋」に放り込んだ。


その瞬間、空間が激しく振動した。

美咲の視界に、無数の「来々軒」が重なって現れる。

大正時代の来々軒、戦後の来々軒、未来の廃墟となった来々軒。

それらすべてが、今のこの空間に一気に収束しようとしていた。


​「春美!」


李さんが叫ぶと、空間の端から、光を纏った春美さんが現れた。

彼女の手にある帳簿は、もはや紙ではなかった。それは銀河のように渦巻く情報の塊で、彼女がペンを走らせるたびに、暴走する現実の層が一つずつ「正しい位置」に固定されていく。


​「掴まって」


春美さんの声が響く。

美咲は、近くにあったカウンターの残像を必死に掴んだ。

手が触れた感触は、木でもプラスチックでもなかった。それは、純粋な「時間」の塊のような、熱く、震える何かだった。


​李さんが、両手で空間を大きく回した。

まるで、巨大な寸胴の中のスープを、全身全霊でかき混ぜるように。

混ざり合い、溶け合う、無数の「あり得た現実」。

それらが李さんの腕の中で練り上げられ、一本の、細く、強靭な「今の現実」へと収束していく。


​美咲はその光景を見ながら、恐怖を通り越し、ある種の快感を覚えた。

バラバラだった自分の人生も、あの地下室の静寂も、この李さんの「鍋」の中では、すべてが等しく、たった一杯のラーメンを作るための「材料」に過ぎないのだ。


​「……上がるぞ!」


​李さんの叫びとともに、絶対零度の白い光が空間を包み込んだ。

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