第五章:剪定

​美咲がラーメンを食べ終える頃、店内の空気はさらに密度を増していた。

「重い」のは麺だけではない。呼吸をするたびに、肺の中に湿った綿を詰め込まれるような、物理的な圧迫感がある。


​ふと見ると、李さんが厨房の隅で、一本の古びた包丁を研ぎ始めていた。

砥石と刃が触れ合う、キィィィ、という高い音が店内に響く。その音は、耳を突き抜けて直接脳の裏側を逆なでするような、不吉な響きだった。


​「あの、李さん……」


美咲が声をかけようとした、その時だった。

​厨房の空気が、目に見えて「波打った」。

換気扇の横の壁が、古い映像の乱れのようにジジッと横にずれ、そこから「別の厨房」が一瞬だけ顔を出したのだ。

そこには、今よりも少し若い李さんが立っており、今とは違う色の鍋を振っていた。


​「……っ!」


美咲が立ち上がろうとした瞬間、李さんが研ぎ澄まされた包丁を、何もない空間に向かって一閃させた。

​シュッ、という短い音。


​次の瞬間、壁の乱れは消え、若い李さんの姿も霧のように霧散した。

それだけではない。店内に充満していたあの息苦しいほどの重みが、すっと消え去った。


​「……何をしたんですか」


美咲の声が震える。

李さんは包丁を丁寧に布巾で拭き、元の場所に戻した。


​「増えすぎたんだ」


李さんは短く言った。


「同じ場所で、同じことを長くやりすぎると、余分な『枝』が出てくる。放っておくと、店の中がその枝だらけになって、身動きが取れなくなる」


​李さんの言っていることは、まるで庭木の手入れの話のようだった。だが、彼が切り落としたのは植物ではない。この空間に蓄積され、溢れ出した「時間」そのものだった。


​「剪定だよ。いらないものは、こうしてたまに間引いてやらなきゃいけない」


​美咲は、自分の手を見つめた。

指先が、まだ微かに震えている。

李さんは包丁を砥石に当て、静かに一度だけ引いた。


「……伸びすぎはよくねえ」

「……もし、あのまま放っておいたら、どうなるんですか?」

​「どうもならねえよ。ただ、あんたがここに座っているのか、十年前のあんたが座っているのか、それとも十年後のあんたが座っているのか、誰にも区別がつかなくなるだけだ。そうなったら、ラーメンの味も分からなくなる」


​李さんは、どんぶりを片付け始めた。

その動作は、もう「三本の腕」には見えない。ごく普通の、年老いた店主の動きだ。


​だが、美咲は気づいた。

李さんが今、シンクに捨てた「生ゴミ」の中に、先ほど切り落とされた「若い李さんの姿」が、薄い皮膜のようなゴミとなって混ざっているのを。

それは水に濡れて、溶けるように排水溝へ消えていった。


​「お父さん、そろそろ」


奥の帳場から、春美さんが声をかけた。

彼女の手元にある帳簿を、美咲は横目で盗み見た。

そこには数字ではなく、複雑な幾何学模様のような線がびっしりと書き込まれていた。春美さんがそれを黒いインクで塗り潰すたびに、店の四隅から「余分な音」が消えていく。


​この夫婦は、二人でこの場所を「整理」しているのだ。

世界の綻びを、調理と記帳という日常の皮を被せて、ひたすら繕い続けている。


​「今日はもう店じまいだ」


李さんが、暖簾を下ろしに外へ出た。

美咲も促されるように店を出る。

​夜の空気は冷たかった。

振り返ると、来々軒の赤提灯が消えるところだった。

その瞬間、店全体がふっと影を潜め、一瞬だけそこには「空き地」しかないような錯覚に陥った。


​美咲は、大学へ戻る足取りが重いことに気づいた。

あの「剪定」を、自分もいつかやらなければならないのではないか。

あの研究室に溢れ出している、同期の男や自分の「ズレた時間」を。

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