第四章:揺らぐ厨房
美咲が再び「来々軒」の引き戸を開けたとき、店の中は夕暮れ時特有の、気だるい空気に包まれていた。
客は誰もいない。
厨房の奥で、李さんが一人、使い込まれた中華鍋を磨いている。シュッ、シュッ、という金属が擦れる音が、店内に規則正しく響いていた。
美咲は、吸い寄せられるように昨日と同じカウンターの席に座った。
「……いらっしゃい」
李さんは手を止めず、背中で言った。その声は、相変わらず抑揚がない。
美咲は、李さんの手元をじっと見つめた。
彼が中華鍋を磨くたびに、鍋の縁の輪郭が、ほんのわずかにブレる。
視力が落ちたわけではない。ピントが合っているはずなのに、鍋の「端」がどこにあるのか、目が認識を拒否している。
「あの……」
美咲の声に、李さんがゆっくりと振り向いた。
「ラーメン、また食べに来たのか」
「……はい。それと、少し、聞きたいことがあって」
李さんは手を止め、布巾で手を拭いた。
「なんだ」
「この店……少し、変じゃないですか?」
美咲は、意を決して言葉にした。
「影が重なっていたり、音が遅れて聞こえたり。さっき大学の研究室に戻ったんですけど、そこでも同じことが起きたんです。まるで、この店で見た『ズレ』を、私が連れて帰っちゃったみたいで」
李さんは黙って美咲を見つめた。
その目は、困惑しているようでも、否定しているようでもなかった。ただ、深い井戸の底を覗き込んでいるような、静かな目だった。
「お客さん、あんた、学生さんだろ?何を勉強してるんだっけな」
「……物理です」
「そうか。難しいことはわからねえが」
李さんは再び背を向け、コンロに火を入れた。
ボッ、という音とともに、青い炎が上がる。
「俺は、毎日ここで同じことをしてる。麺を打ち、スープを煮て、鍋を振る。三十年、一ミリも変えずにだ」
李さんが、お玉でスープを掬い、どんぶりに注ぐ。
「毎日同じことを繰り返してると、ときどき、手の感覚が『先』に行くことがある。お玉を動かす前に、スープがもうどんぶりに入ってるような、そんな感覚だ」
美咲は、息を呑んだ。
「それって……」
「でもな、それは錯覚じゃねえ。現にスープは入ってる。俺がやらなきゃいけないのは、その『先に起きてしまったこと』に、自分の体を無理やり合わせることだ。そうしないと、店が回らねえからな」
李さんは、茹で上がった麺を平網ですくい上げた。
湯気の中で、麺が踊る。
その瞬間、美咲には見えた。
李さんの腕が、一瞬だけ「三本」に増えた。
一本は麺をすくい、一本は湯を切り、もう一本はすでにどんぶりに麺を収めている。
三つの動作が、一秒の隙間もなく、同時に行われている。
「……あ」
声が出なかった。
李さんがどんぶりを差し出したとき、彼の腕は一本に戻っていた。
置かれたラーメンは、昨日と全く同じ、何の変哲もない姿をしている。
「食え。伸びるぞ」
美咲は震える手で箸を取った。
麺を一口すすると、昨日よりもさらに「重い」感触がした。
それは、数千、数万という「李さんの動作」が、この一本の麺の中に凝縮されているような、恐ろしいほどの密度の重さだった。
帳場の方で、春美さんが電卓を弾く音が聞こえる。
カタ、カタ、という音。
だが、その音の数は、彼女が指を動かしている回数よりも、明らかに多い。
店全体が、目に見えない無数の「繰り返し」で膨れ上がっている。
美咲は、逃げ出したくなるような恐怖を感じながらも、そのラーメンを食べる手を止めることができなかった。
この「ズレ」の中にしか、今の自分の居場所はないような気がしていた。
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