第三章:生活のズレ
大学の研究室に戻っても、あの「ズレ」の感覚は美咲の指先に残っていた。
地下二層にある研究室は、窓がない。いつもなら、その密閉された空間が計算に没頭させてくれるはずだった。
美咲はノートを開き、午前中に解きかけていた数式を眺めた。
黒いペンで書かれた数字と記号。
だが、その一文字一文字が、なぜか紙から浮き上がって見える。
「……また、これだ」
あの店の麺と同じだ。文字の輪郭が微かに二重になり、影のように重なっている。
美咲は目を強く閉じ、首を振った。
「疲れてるんだ。絶対に。あんな怪しいラーメン屋に行くから……」
隣のデスクでは、同期の男がキーボードを叩いている。
彼は美咲が戻ったことに気づいているはずだが、視線すら向けない。
「ねえ、ちょっといいかな……?」
美咲が声をかけると、男の手が止まった。
「……このノート、普通に見える?」
「僕に余計な演算をさせないでくれ。……それより、そこの係数、計算ミスしてないか?」
「ミス?」
美咲は自分の書いた数字を見た。
そこにあるのは「8」という数字だ。
だが、美咲の目には、その「8」の下に、うっすらと別の数字が透けて見えた。
まるで、書き直す前の数字が幽霊のように残っているような――いや、違う。
「8」が、勝手に「0」になろうとして、その途中で止まっているような、不気味な形だ。
美咲は背筋が寒くなった。
ノートを閉じ、パソコンを立ち上げる。
画面が明るくなり、いつものデスクトップが表示される。
だが、マウスを動かした瞬間、彼女は息を呑んだ。
画面上のカーソルが、自分の手の動きよりも、ほんのわずかに遅れて動く。
それはパソコンの動作が重いときの「ラグ」ではない。
カーソルはスムーズに動いている。ただ、自分の「意識」が右へ動かそうと思った瞬間と、実際に画面上で動く瞬間の間に、あの店で感じた「不自然な隙間」があるのだ。
美咲は椅子を引いて、自分の手を見つめた。
手が、自分のものじゃないみたいだ。
自分の指がキーボードに触れる感触。机の冷たさ。
すべてが、一瞬だけ遅れて、脳に届く。
「李さん……」
ふと、あの店主の無口な背中を思い出した。
彼は、この「遅れ」を当たり前のように受け入れて、あのリズムで鍋を振っていたのではないか。
あの一定のカン、カン、という音は、このズレた世界を必死に繋ぎ止めている音だったのではないか。
美咲はたまらず、コートを掴んで立ち上がった。
同期の男は一瞥もせず、キーボードを叩き続けている。
大学の長い階段を駆け上がる。
足が地面につくたびに、感触がぐにゃりと歪む。
階段の一段一段が、自分が踏む瞬間にだけ、そこにあるような感覚。
地上へ出ると、夕暮れの空が広がっていた。
だが、その空の色すら、どこか「塗りたてのペンキ」のように新しすぎて、嘘っぽく見えた。
美咲は、気づけばまたあの細い裏通りに向かって歩いていた。
あの中華屋に、もう一度行かなければならない。
あの李さんの、黙々と鍋を振る音を聞かなければ、自分の現実がバラバラにほどけてしまう――そんな予感がした。
来々軒の暖簾が見えた。
夕闇の中で、看板の文字が昨日よりも少しだけ「濃く」なっている気がした。
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