​第二章:客

​美咲が「来々軒」の引き戸を開けたのは、本当にたまたまだった。

大学の地下にある研究室で、朝から晩まで数式と向き合っていると、たまに地上に出たときに足元がふわふわする。そんなとき、この古びた中華屋が目に入った。


​店内は、静かだった。

カウンターの中では、店主が黙々と鍋を洗っている。

店の片隅の古ぼけた食品衛生責任者の札には「李」と書いてあったから、多分この人のことなんだろう。

美咲は隅の席に座り、お品書きを見た。どこにでもある、普通のメニューだ。


​「……ラーメン、お願いします」


​声を出すと、自分の声がやけにクリアに聞こえた。まるで、防音室で喋っているような、不自然な響き。

李さんは「あいよ。春美、水」と短く答えて、作業を始めた。


​美咲は、カウンターの上にある箸立てを眺めていた。

プラスチック製の古い箸立てだ。

だが、見ているうちに、妙なことに気づいた。

箸立ての影が、二つある。

電球は天井に一つしかないはずなのに、影がわずかにずれて、重なるようにして伸びている。

美咲は目を細めて確認したが、やはり影は二重に見えた。


「疲れてるのかな……」


彼女は指先でこめかみを押さえた。

​やがて、ラーメンが運ばれてきた。

https://kakuyomu.jp/users/pikadourei/news/822139843223761510


湯気がまっすぐに立ち上っている。

見た目は、本当に「普通のラーメン」だ。琥珀色のスープに、チャーシュー、メンマ、海苔。

​美咲は箸を取り、麺を一口すすった。

味は、驚くほど普通だった。奇をてらったところのない、懐かしい醤油味だ。

安心した。


だが、二口目を食べようとしたとき、箸先に違和感があった。

​麺を持ち上げたときの感覚が、重いのだ。

量が多いわけではない。見た目はさっきと同じ、一掴みの麺だ。

なのに、持ち上げようとすると、まるで水中で重い鎖を引いているような、妙な抵抗がある。

麺が、空気に「引っかかって」いるような感じ。


​美咲は、箸を止めて麺をじっと見つめた。

一本の麺。

その表面が、微かに、本当に微かにだが、二重にブレて見えた。

テレビの電波が悪いときに出るゴーストのような、細かな「ズレ」が、麺一本一本にまとわりついている。


​「……これ、何?」


​美咲は思わず呟いた。

厨房では、李さんがこちらに背を向け、中華鍋を振っている。

カン、カン、カン、というリズム。

その音に合わせて、麺の「ブレ」も、わずかに振動している。


​美咲は周りを見渡した。

帳場では、春美さんが帳簿をつけている。

彼女がページをめくる音が、一瞬だけ遅れて聞こえた。

カサリ、という音が、彼女の指が紙を離れてから、コンマ数秒遅れて耳に届く。


​この店は、何かが狂っている。

物理的な法則が、ここでは少しだけ、雑に扱われているような気がする。


​美咲は、少し怖くなって、残りのラーメンを急いで口に運んだ。

お腹は満たされていく。けれど、食べれば食べるほど、自分の体がこの店の「重たい空気」に馴染んでいくような、逃げられない感覚が強まっていった。


​「ごちそうさまでした」


​小銭を置いて席を立つ。

李さんは振り返らなかった。ただ、鍋を振る手が、一瞬だけピタリと止まった。


​店を出て、振り返ってみる。

「来々軒」と書かれた暖簾が、風もないのに、ひらりと不自然に揺れていた。

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