来々軒、異常無し

curry

第一章:仕込み

​来々軒は、駅から少し離れた場所にある。

看板の文字は薄れ、暖簾は油を吸って重い。どこにでもある、古びた町中華だ。

​ただ、入ってみると、少しだけ空気が重い気がする。


店主の李さんは、もう三十年も厨房に立ち続けている。彼が鍋を振る音は、いつも一定だ。カン、カン、という小気味いい金属音。

​李さんは、麺を打つ手を止めない。

生地を伸ばしては畳み、畳んでは伸ばす。

その回数は決まっていない。彼が「よし」と思うまで、それは続く。


ある時、麺の層が重なりすぎたのか、生地がふっと指先をすり抜けるような感触がした。


「……ん?」


李さんは首をかしげ、生地を光に透かしてみた。

見た目は普通だ。けれど、持ったときの手応えだけが、自分の手首ひとつ分、どこか別の場所に逃げたような、変な軽さがあった。


​「ねえ、お父さん」


帳場にいた妻の春美さんが声をかける。


「今日、なんか静かじゃない?」

「そうか? いつも通りだろ」


李さんは答えるが、自分の声が、厨房のタイルの隙間に吸い込まれて消えたような違和感を覚えた。


​ふと見ると、寸胴で煮込んでいるスープの泡が、いつもと違う。

普通、泡は表面で弾けて消える。

だが、今日の泡は、弾けない。

灰色がかった泡が、スープの表面をじっと這い回っている。

李さんは網ですくい上げ、それをシンクに捨てた。

泡は、ベチャリと重たい音を立てて排水溝に消えた。

その瞬間、厨房の壁が、ほんの数センチだけ、奥にスッと下がった気がした。


​李さんは目をこすり、もう一度壁を見た。

壁はそこにある。カレンダーも、煤けた換気扇も、いつもの場所にある。


「……まあ、いいか」


彼は再び麺を打ち始めた。

​その時、店の入り口の引き戸が、ガラガラと音を立てて開いた。

昼時を少し過ぎた、一番静かな時間だ。

一人の若い女が入ってきた。

彼女は、カウンターの隅に座ると、少し困ったような顔でメニューを見上げた。


​李さんは、彼女を見た。

見たはずなのに、彼女の座っている場所だけ、ピントが合わない。

影が濃すぎるのか、あるいは光が届いていないのか。


​「いらっしゃい」


李さんの声が、店内の静寂を、無理やり引き裂くように響いた。

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