11.景の気持ち

 昨晩自分でも考えたことだ。わたしは家に縛られていた。これはもう紛れもない事実なのだ。当事者でない彼から見てもそれは明らかで、それを認識していなかったわたしの方が麻痺していたのだろう。


 わたしが彼の言葉に何も返さなかったからか、天宮は照れ臭そうに頬をかいて、視線を外しながらもちらちらとこちらを窺っている。


「結婚だなんてわたしを縛る真似をしておいて、よく言うよ」


 そんなことを言うつもりではなかったが、口から出たのは憎まれ口だった。自分でもどうしてこんなことを言ったのかわからない。これでは彼を責めているみたいで、これを言われた彼はきっと、わたしに謝罪するしかない。それをわかっていたのに。


「それは……悪かった。お前を連れ出す方法が、これくらいしか浮かばなかった。今更言うのも何だが、もし結婚も生き方を縛られると思うなら、別にしてくれなくていい」


 予想の斜め上を行く彼の回答に、口では言えても現実的な提案ではないと、わたしは問い質してみる。彼はどの程度本気でそれを言っているのだろう。わたしは、彼はいくらか本気でわたしとの結婚を望んでいると思っていた。でもそれは、わたしの勝手な思い込みに過ぎなかったのかもしれない。


「でもそうなったら、契約はどうなるの? 志岐しき家の秘密を暴露されちゃうんじゃなくて?」


「改めて契約を結んでやる。暴露もしないし、お前も俺と結婚しなくていい。そういう契約をな」


 確かにそれなら筋は通る、か。彼もさすがに考えなしに発言したわけではないらしい。つまりは、それが実現可能ということだ。だからわたしがそれを選んでしまったら、彼はわたしとの結婚を諦めることになる。それを、わたしが望むなら。だけれど彼は、それを望むのだろうか。


「……あんたは、それでいいの?」


 視線も交わらせずに何も答えないでいる彼に、わたしは席を立って、彼が顔を背けたその真向かいにしゃがみ込んだ。それでも視線を逸らそうとするので、わたしは彼の両頬を手で包み、無理やりに顔を向き合わせた。


「大事な話なんだから、ちゃんと顔を見て話しなさいよ。……あんたは、それでいいの?」


 顔は無理やりこちらを向かせたが、視線までは無理やりというわけにいかない。彼は視線を泳がせながら、そのきつく結んだ口を開いてはくれない。でも、ここで彼が何も答えずに逃げる人だと思いたくない。彼はきっと、何かしらの答えをちゃんと返してくれる。だから、わたしは待てる。彼を信じたい。その一心で、わたしは彼が口を開くまで、じっと彼を見つめていた。


「……良くねぇよ」


 そこまでしてようやく、口を開いてくれた。良かった。信じて良かった。ちゃんと応えてくれた。

 それからはせきを切ったように、彼は次々と胸の内に溜まった思いを吐き出すように、言葉にしてくれた。


「本当はそんなの、嫌に決まってるだろ。何のためにここまでしたと思ってる。だけど、他ならぬお前自身がそう望むなら、俺はそれを拒めない。俺自身がお前の幸せの障害になっちゃいけないんだ。お前を自由にしたい、お前の望みを叶えたい、それが一番なんだ。俺の願望は、その次でなくちゃいけない」


 彼をそこまで突き動かすわたしって、彼にとって一体何なんだろう。もはや好きとかじゃなくて、信仰に近いものすら感じる。これを愛と呼ぶのかは、わたしには判断できない。でも、わたしを大切に想ってくれていることは、痛いほどわかった。

 残酷なことを聞いてしまったことを少し後悔したけれど、それでも情けで彼と一緒にいるのは違う。それはあまりに不誠実だ。彼の気持ちを聞いた以上は、わたしもちゃんと話さなくちゃならない。


「もし本当にわたしと結婚する気があるなら、その姿勢は変えてほしいな。嫌だよ、そんなわたしを立てるような考え方。夫婦は対等でなくちゃでしょ? わたしはあなたに遠慮しないで、ちゃんと“わたし”を伝えるよ。だからあなたも、わたしに遠慮しないでちゃんと“天宮景”を教えて?」


 彼の両頬が熱くなってくるのを感じる。何だかわたしも手汗をかいてきている気がするし、申し訳ない。でもこの手を放したら、話がそこで終わっちゃうかもしれない。話の決着をつけるまで、逃がさない。だって、今わたしの運命を握るのは、わたしと天宮なんだから、二人でちゃんと話し合わなきゃ。そしてそれは、早ければ早い方がいいはずだ。もし最初からわたしと結婚する気などないのなら、わたしだって生き方を考え直す時間が欲しい。

 せっかく覚悟を決めたのだから、できればそうならないことを願いたいけれど。


「俺は……――お前が、郁夜かぐやが、欲しい。俺の一生は、郁夜のために使いたい。俺はずっとそのために生きてきた。それを今更変えられない。どんな形でもいい。……ただできれば、お前の傍で生きていたい、とは」


 ……思ったより重いな、わたしへの気持ちが。いや、今回彼がしたことを考えれば、想定の範囲内か。彼をそこまで駆り立てるのは何なのだろう。わたしは彼に何を与えたというのだろう。


「そう思うんなら、簡単に手放したらダメでしょ。わたしが望むなら、他の男にでも譲るつもり? わたしを強奪したんだから、あんたが責任もって最後までわたしを幸せにすればいい話でしょ? まさかそんな覚悟もないのに、結婚だなんて言っているんじゃないでしょうね」


「でも、俺は……」


「“でも”、じゃない。わたしと結婚、するの? しないの?」


 無駄口を叩こうとする口を塞ぐように、わたしは手で包んでいる両頬をぐっと押して、彼の顔を歪める。ちょっと面白いけれど、真面目な話をしているのに笑うわけにはいかない。自分でやっておいて何だが、これはなかなか大変だ。


「……したい、です」


「じゃあ、あなたのすることは何?」


「……郁夜を、一生かけて幸せにすること、です」


「わかってるじゃない。それで初めて、わたしがあなたと結婚するかどうか、検討する余地があるってものよ」


 ここでようやく、わたしは彼の頬から手を放し、彼を解放してやった。


 まあここまで言わせておいて結婚してあげないのも可哀そうだし、もちろん前向きには考えるけれど。それでも大前提として、わたしを幸せにしてくれる気がない人とは結婚なんて考えられない。それを、彼はわかってくれただろうか。ここまでやれば、わかってくれただろうか。


 今更になって考えてみれば、わたしは結構大胆なことをしてしまったのかもしれない。まだこの家に来て初めての朝に、何をやっているのだろう。むしろこれで引かれてしまったりしていないだろうか。思ったより変な奴だとか、面倒くさい奴だとか思われていないだろうか。

 今になって、自分のしたことに顔が火照ってくる。


 しかしそのぎこちない二人の空気を和ませるように、部屋一杯に大笑いが響く。二人して声の主を見遣れば、わたしたちのやり取りを見ていた信元しんげん様がこらえきれない様子で笑っていた。腹を抱えて涙を流し、なかなか落ち着かないようだ。そんなにおかしかったのだろうか。


「いや、最高ね、アンタたち。本当、うちに来てくれてありがとう、郁夜かぐやちゃん」


 何故か感謝されてしまった。一体何が何だかわからないけれど、ここまでやっても歓迎はされているらしかった。


「こんな気難しい子と、こんなに真剣に向き合ってくれて……本当にありがとうね」


 そんなことを言いながら、しまいには泣き出してしまった。それを見た天宮は、どこか気まずそうにしながら、泣くな泣くなとタオルを差し出してあげていた。


 そうか。保護者の立場だったら――自慢の子だったならともかく――我が子が問題児の自覚があれば、そんな息子と一生を共にしてくれるかもしれない女性が現れたのは、これ以上ない幸福なことなのかもしれない。


「もうこんな時間か……。おい嫁、そろそろ出るからな。準備しておけよ」


 さっきはどさくさに紛れて“郁夜”と呼んでくれたが、スイッチを切り替えるとそう何度もは呼べないらしい。かく言うわたしも、まだ一度も彼を名前で呼んでいない。そこに突っ込まれたら嫌だから、わたしからも呼び名については深く追及できなかった。


「何時とか決まってるの?」


「昼過ぎからってことになってる。できれば十三時頃には着きたい」


 十三時って……あと二時間ほどだ。移動の時間もあるだろうし、実質の準備時間はどれくらいだろうか。

 わたしは急いで部屋に戻り、さっさと着替えて、化粧も髪も簡単に手早く整える。彼と出かけることになるといったって、しっかり準備している暇はない。それに今日は遊びに行くわけじゃない。仕事で行くのだから、着飾る必要なんてない。みっともなくなければそれでいいじゃないか。そう言い聞かせ、とにかく時間に間に合わせることを第一に考えて支度した。



 大急ぎで支度を終えたわたしは、彼が待っているだろう居間に顔を出す。時刻は十二時三十分。うん……まあ、及第点。と思ったが、彼には遅いと言われてしまった。


「っていうか、寒くねぇのか? その恰好」


 中に着ているものは薄いけれど、ニットのカーディガンを羽織っているし、スカートも生地の厚いもので、その下にタイツも履いてきた。シャツの上に黒のダウンを羽織っただけの彼に言われたくはない。


「わたしは別に。あんたの方が寒そうだけどね」


「まあ、お前がいいならいいけどさ。じゃあ行くか」


 天宮が腰を上げて、玄関に向かう。と、信元様も見送りに来てくれた。


「いってらっしゃい。気を付けてね」


「はい、ありがとうございます。行ってきます」


 なんだか懐かしい。少し前は、こうして学校に見送りに出してもらっていた。しかし今日は仕事で出かけるのだ。少しだけ大人になった気がして、気分は良かった。

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